摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

神服神社(しんぷく・かむはとりじんじゃ:高槻市宮之川原元町)、塚脇古墳群 ~ 織部を統率した服部連の古代史跡

2019年01月19日 | 高槻近郊・東摂津


今回は、高槻市の三島古墳群の中でも古墳時代後期にあたる群集墳とそれらにまつわる神社を取り上げます。高槻市中心部から少し北方向にある、いわゆる郊外の住宅密集地に、6世紀後半~7世紀頃の古代遺跡が点在しており、ローカルな人間でしかなかなか訪れない所だと思います。

高槻市の埋蔵文化財調査センターなどの説明によると、塚脇古墳群は帯仕山を中心に広がる、直径10~20mの円墳で構成されており、これまで50基が見つかっています。帯仕山の南一帯は「服部」と呼ばれていますが、古代には服部(はとりべ)と呼ばれた機織りを仕事とする渡来系の人々が住んでおり、その中心に神服神社が祀られています。塚脇古墳群にはこれら機織り集団とそれを支えた人々が埋葬されていると考えられています。


・まずは道路脇におもむろに現れる塚穴4a号墳。

・石室内のさび色はかつてベンガラが塗られた赤色の名残

 


お次は、塚脇F1号墳。6世紀後半に築かれた円墳で、石室からは須恵器を始め鉄鏃や直刀などの武器、鉄斧などの工具や一そろいの馬具、耳飾りや首飾りに使用されたガラス玉などが出土しており、直径20mという規模からも塚脇地域の指導的役割を果たした人物と見られています。妙に高い鳥居が備え付けられていました。

 


さらに自転車で帯仕山を登って、まさに住宅地の中にある塚脇C7号墳(帯仕山古墳)です。




直径9.5mの円墳で、中から人骨の一部と共に耳飾り、須恵器や土師器の槻や椀などが見つかりました。6世紀末の築造と見られています。




山の麓にある、服部連塚と呼ばれる円墳(タイトル写真も)。これも横穴式石室を持つ事が確認されています。上宮神社と呼ばれていましたが、明治41年に神服神社に合祀されました。




古墳群からは南方向の山から下りた所に位置する、神服神社です。堂々の延喜式内の古社。倭の五王の一人、允恭天皇の御世の頃、機織りを職とする部族が住んでいたことから、服部と呼ばれていました。その允恭帝から、祭神の麻羅宿祢が機織部司に任命され国々の織部を総領した事から「連」姓を賜り、服部連と称するようになりました。その服部連の勧請により建立されたと神社は説明しています。




上記は「新撰姓氏録」の記述によりますが、記紀の允恭期には記述は無く、雄略記に、”秦酒公が諸国の秦の民を与えられ、庸調として絹カトリを献上し、太秦の姓を賜った”という表現があるようです。



・こちらは拝殿。お正月前の様子

そして本殿。主祭神は、素戔嗚命、熯之(ヒノ)速日命、そして麻羅宿祢(ヒノ速日命の12世孫)の3神ですが、素戔嗚は後から奉祀された祭神です。連の元々の先祖は、中国由来の朝鮮渡来氏族の秦氏だと境内の由緒板には説明が有りますが、機織りは阿知使主などを始祖とする漢アヤ系の百済国の渡来人によってもたらされたとの考えが有り、検討の余地があるそうです。

一方で、「先代旧事本紀」天孫本記に、゛建田背命。神服連・・・等祖゛と見える、尾張氏の同族とみられる神服(カンハトリ)連がいます。「日本古代氏族事典」では、神服部は神社に属し、神衣を折る部民で、神服(部)連はその伴造氏族だとあります。そして、高嶋弘志氏は当社がこの一族の奉祭社か、と述べておられました。



「海部氏勘注系図」や東出雲王国伝承を語る大元出版本では、建田背は建田勢のことで、尾張氏と同族の、丹後を本貫とする海部氏の御方だと説明します。出雲伝承と「系図」からは、建田勢は孝霊天皇の時代の人で、東出雲王国の分家・登美氏と共に大和で勢力をもっており、丹波国の宰相にもなった、と理解されるのです。そうなると、芥川沿いにある阿久刀神社との間で、かつて神輿の渡御が有った歴史が気になってきます。個人的に、阿久刀神社は元々その出雲系登美氏と関わる神社だったのではないかと思っているからです。弥生時代の高槻には、出雲人が移動して来たという出雲伝承や、丹後から人がやって来た発掘成果(古曽部・芝谷遺跡)なども含めて、両氏族が大和の中心から離れた後も、この地で関係を持った現れかも、とのロマンを感じます。

 

本殿横には、ご祭神「服部連公」の石造が!神社のFacebookによると、2017年の12月、服部連合自治会氏子の方々から寄進された物で、まだ1年
そこそこの新しいものです。





例年、8月には、「ふるさと清水ふれあい夏祭り」が、境内で開催されており、地元の方々で賑わうようです。何年か前、ウチの家族が行った時は、高槻の有名な国会議員、辻元清美氏が出没されていて、子供達に「気~つけや~」とか声掛けられてたそうです。。。



(参考文献:神服神社掲示板、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、谷川健一編「日本の神々 近江」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、佐伯有清「日本古代氏族事典」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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