【東京都】戦災のない東京を歩く「谷中」・その1 | 日本あちこちめぐり”ささっぷる”

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休日に街をあてもなく歩き回って撮った下手糞な写真をだらだらと載せながら綴る、お散歩ブログ。
東京や近郊メインも、ごくまれに遠方にも出かけています。
観光案内には全くなっておりませんのであしからず。

【東京都】谷中

 

★OWND「谷中」更新しました。併せてごらんください。

 

都内の山の手にあって「むかし町」の風情を残す谷中・根津・千駄木界隈。

それらを総称した「谷根千」として、もはや東京観光ではメジャーな観光スポットになっていますね。

そして、よく山の手にありながら下町の風情を残した町として紹介されていますが、そもそもこの3つの街は成り立ちが異なっているんですね。

谷中は多くの寺や墓地で占められる寺町、根津は根津神社の門前町でかつては遊廓も存在、そして千駄木は高台を中心に広がる屋敷街......

そんなわけで、それぞれの街の違いを感じながら歩いてみた方がいいわけですが、共通しているのはいずれも東京大空襲による戦災の影響があまり受けていないこと。

前回の本郷と事情が共通していて、やはり東京大学(あと上野公園)の存在は大きかったんでしょうね。

結構広い範囲なので、今回はその中でも「谷中」に絞って散策しました。

たまたまというか、タイミングよくといいますか、今回は"まめやん"こと大倉ひとみさんの個展が谷中の古民家を利用したギャラリーで開催されるという事で、ついでという形ですが界隈をぶらぶらしてきました。

 

*  *  *

 

 

いつもなら日暮里駅からスタートなんですが、今回はパターンを変えてこちらから。

上野桜木交差点にある出桁造りの町家の喫茶店「カヤバ珈琲」さん。

タテモノは大正5年に建てられたものですが、喫茶店としては昭和13年創業、老主人がお亡くなりになっていったんは閉店しますが、新たな経営者に引き継がれて再開。

 

 

 

日中(特に休日)は客待ちの行列が伸びるほどの人気ですが、平日の朝ということもあってか店内はすいていましたね。

そこで名物の卵サンドでモーニングをつまんで、散策のスタートです。

 

 

通り挟んでカヤバ珈琲と並ぶ形で建っている旧吉田屋酒店。

元々は谷中の別の場所にあった建物ですが、こちらに曳地して、下町風俗資料館の別館として公開しています。

ありがたいことに入館無料。

 

 

詳しくはtumblrのタテモノめぐり。で書いたのでそちらも併せてみていただきたいのですが、当時の酒屋さんをそのまま再現した店内も必見ですぞ。

 

 

旧吉田屋酒店からも見えましたが、こちらも出桁造りの和菓子屋さん。

 

 

谷中交番の向かいには何と銭湯温泉

もっともお風呂屋さんとしては現役を退いていて、現在はギャラリーとして使われています。

 

 

正面から見ると、東京の銭湯ではテンプレの唐破風屋根を持った宮造りで、脇にタイル張りという玄関回り。

 

 

帰りに再び寄って中に入ると、しっかりと市松模様に敷き詰められた豆タイルの床と下駄箱が残っていました。

脱衣場とか風呂場はギャラリーに替えられていますが、玄関だけでも銭湯のままの姿が残っているのはありがたい。

 

 

まだ谷中の本体には入りませんよ。

地番としては上野桜木ですが、路地には下見板張りの木造町家が残っています。

 

 

そんな古民家を再利用したカフェやギャラリーが多いのもこの界隈の特徴。

古い街並みをいろんな形で残そうという若い人たちの動きは悪くありません。

 

 

上野桜木から谷中にかけては著名な芸術家が住んでいて、代表的なのに後述する朝倉文夫なんかもいました。

近くに東京芸術大学があることも影響していたんでしょう。

こちらは平櫛田中邸、"たなか"ではなく"でんちゅう"と読みますが、やはり前身の東京美術学校で学び、70年以上暮らしていたアトリエ兼自邸です。

 

 

建てられたのが大正8年(1919年)、なんと丁度築100年!!

門がとざれていたので隙間から撮りましたがカメラ、荒れ果てている感じではなくきれいに保存されていますね。

 

 

平櫛邸の裏手が谷中霊園、広大な墓地が広がっています。

 

 

以前取り上げた雑司ヶ谷霊園と同様、著名人が多く眠っていますが、中でも異質なのがこちら。

何とこれ、徳川15代将軍慶喜の墓なんですね。

将軍家は代々寛永寺(あるいは増上寺)に霊廟を構えていますが、慶喜だけはそのいずれでもなくこの谷中霊園に葬られました。

鉄の塀と扉で頑丈に閉ざされ、葵の紋が威光を放っている感じです。

 

 

柵内には円形の墳墓が2つ並んでいますが、左にあるのが件の慶喜の墓だそうで(右側が奥方の墓)。

それにしてもなぜ徳川将軍の墓所である寛永寺でなく谷中霊園か?という疑問が沸きますね。

よく言われているのは、大政奉還で将軍職を返上したからという説ですが、どうやら別の理由があるらしいですね。

一度は朝敵とされたが赦免したうえ、華族の最高位である公爵にしてくれた明治天皇に感謝の意を表すため、葬儀は仏式でなく皇室と同様神式に、他の皇族と同様の円墳にしたというのが真相のようです。

 

 

霊園を出ると、入口に黒い下見板張りのタテモノが。

何と明治時代に建てられたものだという!!

墓参者だけを相手にする茶屋で、花や線香などを売っているそうです。

手桶に箒と墓参りのアイテムが置かれているのもポイント。

 

 

裏手に回ると、結構奥行きがありますね。

昔ながらの煙突が目立ちます。

 

 

向かいに並ぶ2つの木造家屋も同様の茶屋のようです。

 

 

霊園の近くにある路地。

谷中にはこうした路地裏が所々にあります。

 

 

入口には四軒長屋が。

格子の引き戸に板塀で囲った前庭、そして2階の物干し台という、生きた昭和の家屋。

 

 

昔は引き戸にはガラスがなく、素戸だったといいます。

前庭の塀の下もオープンにしてあり、風通しもよくしてあります。

当時はエアコンがない時代ですからね......

 

 

裏手にはお地蔵さんが。

路地裏の人たちが祀ったんでしょうか。

 

 

四軒長屋の対角には、モダンな洋館を持った木造家屋が。

もしかするとこの辺りの大家さんとかか?

それにしても、この路地裏は結構濃いぞ......

 

 

そして、とどめは防火用水槽。

「上三崎南町」という古い町名が書かれています。

その下にも注目、「隣組」とあります。

戦時中、空襲に備えるために置いたんだろうかと想像できます。

 

 

この路地、実はかつて朝ドラのロケ地として使われていたとか。

昭和初期を舞台にしたもので、実際の家屋がそのままセットとして活用されたわけですね。

 

なお、この路地は近くの寺の私道地で、今も生活の場でもありますので、訪れるときは大勢で押し寄せるのでなく、風のように音ぞれて風のように去った方がよろしいかと。

また、商用や営利目的の写真撮影はご法度なので注意を。

 

というわけで(その1)はここまで。

長くなりそうなので、次回に続きます。

 

 

 

※個展は無事終了いたしました(2019/10/8)