ラグビーの伝説 太平洋戦争 命を救った一つのバッチ

ラグビーの伝説

世にある「伝説」は、実はほとんど事実とは異なります。
途中で脚色されたり、都合の悪いところはしょってしまったりしています。
しかし、世に伝え、語りつぐ意味があるから「伝説」なのであり、
事実と違っていようが、その意味や意図が変わるものではありません。

ラグビーにも伝説があります
一番有名なのが、ラグビーの始まりとされる「エリス少年の伝説」です

昔は情報は非常に乏しかったし、映像に残っているとしても20世紀中盤以降であり、映像すらないことも多い。口から口へ想いが語り継がれて伝承、伝説となります。

今は情報化時代であり、様々な角度からの映像がありますし、当事者もSNSなどで発言したりします。伝説ができにくい時代になってしまいました。

このコーナーはラグビーの伝説を伝説として、聞いたことの記憶を、そのまま記しておきたいと思います。
ここでそうしないと、もはや「伝説」が語り継がれなくなってしまうかもしれません。

(オールドファンの中には同じ話を違った展開で聞いている人も多いと思います。そのように様々な形になってしまうのが伝説の伝説たる所以です)

「信じるか信じないか、それはあなた次第です。」

召集令状 激戦の東シナ

 

にも赤紙(召集令状)が来ました。

は戦前はラグビー選手でした。
ラグビーも敵国の言葉でしたので、闘球と言わなければならなくなった時代です。

太平洋戦争の激戦地、東シナ半島に小隊の将校として赴任します。

戦地では激しい戦闘が続きます。
まさに地獄図、生きるか死ぬかの極限状態、人が人でなくなります。

『なんやかんやって最後はこうピストルでズドーンや」
戦後はこんな言葉を残しています
「敵の機関銃の弾が飛んでくれば、人は100m9秒台で走れるもんや」

一緒にラグビーをやっていた仲間も一緒の隊にいましたが、何人もが戦死していきました。瀕死の重症をおっている者も多数います。

 

ついに投降

ついに敵に囲まれ身動きが取れなくなります。の判断で、自決を選ばず、生き延びる道を選びました。白旗をあげ隊は投降して捕虜となります。

捕虜となってもそれが命の保証がされたわけでありません。
しかし、少しでも生き延びる手段を求めて捕虜となったのです。

捕虜収容所でもば日本の捕虜の取りまとめ役でした
捕虜収容所の環境も過酷です、東南アジアの暑さと虫にも悩まされます。満足な食料も与えられません。衛生環境も全く良くありません。

ついに不満は爆発し、一部の日本陣捕虜と収容所の監視員との間でいざこざが置きます。何人かが取り押さえられます。死刑になるかもしれません。

「俺が責任者だ、自分が犠牲になることで仲間の命を助けてもらおう。」

は意を決します。

これで我が命は終わりと思い、身を清め、キチンと正装します。
勲章なども全てつけ、頭髪もまとめます。

そして、意を決し、収容所の所長の部屋を訪れます。

捕虜収容所長の部屋

所長は、100キロはあろうかという巨体でいかにも堅物そうで、苦虫をかみつぶしたような赤ら顔。融通のきかなそうな人です。ちょっとでも怒らせたらどうなるかわかりません。

は非常に緊張しました。

直立不動で立ち尽くしました。声がなかなかでません。しかし告げます。声は震えていたかもしれません。

「申し上げます。彼らは悪くない、私が死んで責任を取るので、仲間を許してほしい。」

「なんだと」
所長は目を書類から離し、の方へ向け睨み返します。そして、したから上に舐めるように目を走らせます。

はその間も直立不動で、生きる心地がしなかったと言います。

所長の目は、の胸のある一点で止まります。

「君はラガーマンか?」

所長の見ていたものは、胸の一つのバッチです。がラグビー選手だった時に国際交流の練習試合でノーサイドの後、記念にプレゼントされたものでした。
これが最後と思い正装する際に、過去にもらった勲章を全て身につけましたが、このバッチも大切に持っていたので一緒に胸につけていたのです。

そして所長はこう続けます

「私もラガーマンだ、ラグビーをやっている者の話は信じよう」
所長の目はもはや優しく、ラグビーに夢中になっていた少年の目でした。

その後も彼は時より所長の部屋へ呼ばれ、一緒にラグビー談議に花を咲かせたということです。

「戦争が終わったらまたラグビーができるかな」
「早く球を蹴りたいな」
「あん時のタックルはキツかったな」
「一緒にゲームができたらいいね」
そんな話をしたと思われます。

もちろん問題を起こした日本人捕虜へのお咎めは最小限、収容所の環境改善も徐々に行われました。

そして終戦を迎えます。

終戦後

は母校に戻ってラグビーの指導者になります

の名は大西鐵之祐 早稲田の伝説の監督。「展開、接近 連続」理論でオールブラックスジュニアを破った日本代表監督です。

時はたち平和がおとづれます。
英国から国際交流であるチームが来日します。早稲田との試合が組まれます。そのチームもスタッフにあの時の収容所の所長がいました。

その夜は2人は朝が来るまで一緒に飲み明かしたということです。
どんなに美味しいお酒だったことでしょう。

(この話を信じるか信じないかはあなた次第です。)

(この話は 闘争の倫理 スポーツの本源を問う」二玄社(1987)を参考にしています)

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