人間には確実性と不確実性を求めるという習性があります。
確実性というのは、わかりやすい言葉に言い換えると「安定」を意味します。
人々が安定を求めるという理屈は非常によくわかりますね。
しかし、安定ばかりの人生は変化がなく退屈になります。
そうすると、人間は不確実性を求めるようになります。
不確実性をわかりやすい言葉に置き換えると、「冒険」を意味します。
退屈な日々を過ごしていると冒険してみたくなりますよね。
僕たちが非日常を求めるのは日常の生活に飽きているからです。
でも非日常ばかりが続くと今度は日常(安定)を求めるようになります。
日常の中に幸せを見つける方法
旅行というのは非日常にあたります。
僕は今回の家族旅行を通して、すごく大切なことを教えてもらったような気がします。
自分の姿はどんなに頑張っても自分で見ることができません。
地球が丸い形をしているのを見たければ、地球の外側(宇宙)から地球を見る必要があります。
それと同じで「日常」というものを見たければ、日常の外側すなわち非日常から日常を見る必要があります。
毎日忙しい日々を過ごしていると、目の前のことをこなすので精一杯になります。
そうすると、家族とのコミュニケーションが希薄になったり、子供の成長を感じることができなくなったりします。
日々の忙しさから離れ、非日常の空間で家族とゆっくりとした時間を過ごしていると、
普段感じることのできなかった家族のありがたさや、子供と過ごす時間の大切さに気が付きます。
今というこの瞬間は数秒後には過去になってしまいます。
どんなにお金があっても過去に戻ることはできません。
そう考えると、「今こうやって家族と過ごしている時間は、二度と戻ってくることはないとても大切な時間である」ということがわかるようになります。
幼い息子とこうやって遊べるのも今のうちだけです。
息子が成長してしまえば、二度と幼い息子と遊ぶことはできません。
だから、「1日1日を大切にして今というこの瞬間を精一杯楽しもう」と思いました。
人生のゴール
自分の人生のゴールとは、「人生最期の瞬間に自分の人生に満足感を感じることができたか」に尽きると思います。
その基準となるものが「思い出」です。
人生とは、記憶というアルバムに思い出という写真がたくさん貼ってあるようなものです。
楽しかった・うれしかった思い出だけが人生の満足度を決めるわけではありません。
つらかった出来事も、後になって振り返ってみるといい思い出になることがよくあるように、最期に「あの頃は良かったな」と思えるのであれば、つらい思い出も宝物に変わります。
僕たちがもっと良くなりたいと思うのも、お金持ちになりたいと願うのも、
結局は「いい思い出を作りたいから」という理由に帰結します。
人生の最期の一番悲しい結末は、アルバムを開いたときに全然写真が貼っていない状態です。
今を精一杯味わう
自分の過去を振り返ってみて欲しいのですが、どういう出来事が思い出に残っているでしょうか?
今という瞬間を精一杯味わうことをしなければ、「思い出」にはなりません。
それはプラスの出来事、マイナスの出来事どちらに対しても言えます。
その瞬間を目いっぱい楽しんだ出来事は強く記憶に残っているし、
必死にもがき苦しんだ出来事も深く記憶に刻まれます。
逆に、なんとなくボーっと過ごした日のことは全然思い出に残りません。
意識が過去に縛られていたり、未来の不安に支配されているとき、
僕たちは今という瞬間を精一杯味わっていません。
肉体は「今」に存在していますが、意識は過去や未来にワープしているからです。
「昨日の晩御飯は何ですか?」と聞かれて思い出すことができないのは、
晩御飯を食べるという体験を精一杯噛みしめていないからです。
仕事のことを考えていたり、テレビを見ながらご飯を食べていたり、
意識がまったく別のところに飛んでしまっているから、何を食べたのかも覚えていないのです。
もし、食感や味を丁寧に味わっていたら、翌日に何を食べたか忘れてしまうことはないはずです。
日々の食事が思い出になることはまれかもしれません。
でも、日々の食卓での家族の会話に全神経を集中していたら、
その光景は思い出として記憶に深く刻み込まれることでしょう。
過去の思い出が輝いて見えるのも、それがもう二度と返ってこない貴重なものだからです。
同じ1日でもテキトーにこなして終わらせることもできれば、
精一杯その瞬間を生きることもできます。
特別な出来事があったときだけ思い出ができるわけではありません。
いつもと変わらない1日であったとしても、今という瞬間に全力を尽くしたならば、
それは「思い出」というプライスレスな宝物に変わります。
最後まで読んでいただきありがとうございます。