メーベル・ノーマンドと言ってもいまではもう映画史の忘却の波に呑み込まれてしまったひとりでしょうか。しかし波間に覗く岩礁のあちらこちらにはいまも燦然と彼女の姿が輝いています。例えばアメリカの喜劇映画において初めての女性監督がノーマンドです。1913年のことですから勿論1巻物や2巻物の短編ですが翌年にかけて幾多の作品を生み出します。そもそも女優でありながらこんなことになったのも彼女が所属する映画会社キーストンの中心的な人物であるマック・セネットの意向によるものです。セネットは監督であり脚本家であり俳優でもありましたが経営が多忙になるにつれて自分ひとりではとても手が廻らず(挙句にキーストンの人気上昇とともにますます経営に飛び廻りそしてますます映画館から新作は要望されるとあっては)会社の誰かれと監督をさせていたというわけです。そのひとりがノーマンドであり同じくこの機会にはじめて監督に乗り出したのがチャールズ・チャップリンです。そうです、チャップリンもキーストンにいたんです。イギリスから来たヴォードヴィル一座の座員であったチャップリンを映画界へ引っ張ることになるのもノーマンドです。セネットによれば彼のような小映画会社ではせっかくスターへと売り出してもすぐに大手に引き抜かれます、大手からお呼びが掛からないと役者の方から売り込みに行きますから、常に喜劇役者の補充を探しています。このときも以前に小耳に挟んでいたイギリス人の若い役者を見てみようということになり(当時は恋人でもあった)メーベル・ノーマンドと一緒に舞台を見に行きますと...  この男がさて映画で成功するか自信が持てずにいるセネットに(だってこのとき引き抜かれようとしていたのは彼の会社のトップスター、フォード・スターリングなんですからその穴の大きさに眩暈を覚えていたでしょうしね)ノーマンドが熱心に掻き口説いてめでたくわれらが知る喜劇王の誕生となるわけです(マック・セネット『喜劇映画>を発明した男 帝王マック・セネット、自らを語る』作品社 2014.3)

 

 

 

さてこのチャップリンのキーストン入社にはふたつの出来事が伴います、ひとつはセネットが恐れていた通り舞台と違う映画の進行にチャップリンは戸惑うばかりで本領を発揮するどころかまったくの自信喪失に陥ります。因みにこのときチャップリンは山高帽にドタ靴、竹のステッキに燕尾服の浮浪者チャーリーではありません、ヴォードヴィルで演っていたままのありふれた青年の扮装です。撮影後にとうとう溜まっていた鬱屈がはっちゃけてしまい衣装部屋に入り込むと手当たり次第(仲間の囃し立てにだんだんと)奇想天外に着つけるうちに放浪紳士が出来上がっていきいよいよサイズ違いの大靴を履くに及んで(ぺたぺたしたあの、ペンギンのような歩き方とともに)完成したのだと言います。ここからキーストンどころか映画史におけるチャップリンの面目躍如となっていくわけですがただあの扮装、先にやっていた役者があってそのビリー・リッチーとは訴訟にまでなったというんですからこの手の話はさてはてどれが本当なのか(まあどれも本当でありどれも若干本当でないんでしょうけど)。そしてもうひとつ、新たにチャップリンを入れるとなるといまいる人員を整理せねばならないというのが弱小会社の辛いところです。そのときアチャラカの一団のなかにいたもっさり青年の首を切ります。泣いて馬謖を切ったわけではなく喜劇に無能の烙印をお尻を蹴って焼き付けて追い出します。その彼をセネットの好敵手であるハル・ローチが自分の会社に迎い入れ改めてデビューさせたのがハロルド・ロイドです。セネットでなくともひとはひとが育てるのだと唸りたくなります。
 

いまではメーベル・ノーマンドがすっかり忘れ去られてしまったのも無理はないのかもしれません。彼女が亡くなるのが1930年、映画界を去ったのは更にその数年前ですからほぼ百年前の話です。彼女が引退する1920年代半ばには同じく映画の初期からアメリカの喜劇映画を彩ってきたコメディエンヌたち、フローレンス・ターナー、フローレンス・ローレンス、フローラ・フィンチ... といったひとたちが軒並み人気をなくしていきます。すでに20年近く映画に出ている彼女たちは応分に歳を取ったということはあるでしょう。若い方のノーマンドですら30歳を越えているんですから推して知るべしです。ただ年齢以上にうず高く積もっていたのが彼女たちの出演作です。10分20分の映画ですから彼女たちひとりひとりの出演した映画の数は数百本に上りしかもそれらはほとんどがドタバタなんですからさすがに飽きられたというのが実際です。その上でこの時期にやはり映画史的な変貌の波も彼女たちを呑み込んでいったと思われます。移動遊園地や興行の見世物のような形から曲りなりにも常設の映画館で上映されるようになってからも映画というのは現在私たちが考えそして身につけている観劇の仕方とは大きく異なるものでしてまず観客は静粛にしておりません。お喋り、囃し立て、挙句に当時人気だったのが観客全員で大合唱をするというものでこの辺りヴォードヴィルの習慣を引いていて(そうです、この時期歌は聴くものであるよりもはるかに一緒に歌うものだったわけです)そういうなかを例えば蓄音機やラジオの普及が受け身の愉しみを広めます。ここに映画もひとつの転機を迎えるわけです。観客が場内一丸で騒ぐためのあからさまなドタバタの短編から映画館の暗闇のなかでひとりひとり観客が息を潜めて映画の画面に自己の内面を投入し没入する長編の物語映画への転換です(加藤幹郎『映画館と観客の文化史』中央公論新社 2006.7)。そして喜劇映画もチャップリンの叙情、キートンの卓絶した肉体言語、ロイドの都会性などによって物語の奥行きを添えるようになるとやはり従来の、闇雲なドタバタを過去へと押しやります。(まあここから先は私の感じるところなんですが、1920年半ばになると例えば同じくキーストンのスターとなるハリー・ラングドンの映画などを見ていてそれまで役者の(身体の)卓越性が映画の語りになっていたドタバタがいまでは映画そのものに(表現として)柔軟な語りが備わっていてその語りのなかに役者のアクションが包み込まれています。とりわけ(風貌こそ万年坊やですが案外歳を喰っている上にキートンのような肉体言語を持たないラングドンですからギャグはアクロバットなスピードよりもシチュエーションに移っていて)サイレントの喜劇映画はこの頃劇として台詞を喋る寸前まで来ていたというのが私の印象です。トーキーは映画の内外から来たるべくして来たということになりますが、それと呼応するようにサイレント喜劇映画を卓越したものに発展させたチャップリンたちのなかでトーキーになっても同様の活躍をしたひとはひとりもいません。同じようにフローレンス・ターナーなどの初期のコメディエンヌたちも1920年代の、サイレント喜劇映画の豊熟のなかでその古いスタイルとともに押し流されてしまったわけです。さてさて長い話になってしまいましたが本題はここからです。しかるにメーベル・ノーマンドの女優としての生命を奪ったのはそのような映画史的な変貌よりも決定的なものです。それは1922年2月1日、当時パラマウントのトップ監督だったウィリアム・デズモンド・テイラーの背中を撃ち抜いた一発の銃弾です。

 

 

 

 

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メーベル・ノーマンド チャールズ・チャップリン

 

 

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