フリッツ・ラング 復讐は俺に任せろ リー・マーヴィン

 

[ お話は前回から引き続いて ]

 

40年代のダン・デュリエの立ち位置を思い浮かべたときふと頭に過ぎるのがまだ悪役に舌なめずりしていた頃のリチャード・ウィドマークで、50年代へと話を進める前にひとつ寄り道をしていきましょう。確かにウィリアム・A・ウェルマン監督『廃墟の群盗』(1948年)では盗賊の首領であるグレゴリー・ペックの片腕でありながら(可憐なヒロインの実直な瞳におのれの悪党ぶりを揺さぶられるペックを見限って仲間たちをそそのかすと)悪党は悪党らしく黄金をふんだくるという揺るがない不敵さでペックの前に立ちはだかります。しかもこれまでの所業を思えば(何せついさっきも銀行を襲ってきたばかりで)ヒロインとの恋に二の足を踏むペックを大きく善玉の側にしかも自分からは動けない彼のために一同率いて悪の悪に振り切ることで必然的にペックを善玉へ送り込むという見事な仕立て、挙句におっとりとねぶるようにペックをけし掛けては(止せばいいのに)撃ち合ってまるでペックにまといつく過去というものを体現するように撃ち殺されてその場に打ち捨てられます。ジョゼフ・L・マンキーウィッツ監督『復讐鬼』では病没した兄の死を受け入れられず喪失を埋め合わせるための憎しみを担当した黒人医師の肌の色に見出す愚連隊です。説き伏せて聞き分けるような輩では勿論なくて自分の理不尽から発したものを人種という巨大な摩擦に着火させようという見境のなさでまさに<やばいやつ>の疾走です。こう見渡してみるとダン・デュリエと一番重なるのは監督持ち寄りのオムニバス映画『人生模様』(1952年)の一編、ヘンリー・ハサウェイ監督「クラリオン・コール新聞」でしょうか。刑事とギャングに袂を分かった幼馴染のふたりが酒場で巡り合います。ふたりの間に横たわるのはただの懐かしさではなくギャングが起こした殺人事件でして刑事は彼を追ってのことですが向かい合いながらその距離を飛び越えられないのは以前にギャングに用立てて貰った千ドルという金の存在があるからで...  無論ギャングの方がウィドマーク、抜き身の小さなナイフのような幼稚さに煌めいて残忍さと陽気さを風見鶏のようにくるくる廻しています。まさにダン・デュリエの佇まいですが、ただウィドマークにはことの始まりから悪を演じて脈打つ肌の温かみがあって(デュリエのような乾いた或いは半乾きの、悪のにたり顔とはとどのつまり重ならない)見れば善玉の立ち姿であって現に『人生模様』と同じ年にはロイ・フォード・ベイカー監督『ノックは無用』、遡って『復讐鬼』とともにエリア・カザン監督『暗黒の恐怖』の主人公を演じてだんだんと軸足を本来の気質に移していきます。

 

 

 

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フリッツ・ラング監督『復讐は俺に任せろ』(1953年)は警察上層部にまで喰い込んだ暗黒街の専横に刑事がひとり立ち向かっていく物語でフリッツ・ラングらしい肌の上を暴力が火走る痛みが鈍く反響していきます。街を表からも裏からも牛耳って(何せ歓楽街から賭け事そして犯罪まで取り仕切って)いるのがこの富豪の名士だというのは誰もが知っているところで何かと話題の主であるためにその身辺を24時間警察が警護しているという本末転倒ぶり、当然こんな上流社会の気取り屋が自分で犯罪の現場に出向くわけはなく、手先に使っているギャングがいるわけです。ギャングとは言え超高層のフロアごと住居にしてベランダに出ると天上に浮かぶ夜景を見下ろす豪勢な暮らしぶりです。とは言え体よく荒事を押しつけられていまも自殺で片がついた事件に不埒な探りを入れている酒場の女の口封じを命じられますが、変質者めいた残忍な殺し方に却って刑事の目を引いてしまい名士の機嫌を損ねます。一応名士とはファーストネームで呼び合う対等の協力関係ではありますが悪ぶっても如何にも三品という佇まいが却って何をしでかすかわからない危なっかしさで、事件に深入りし掛けている刑事の鼻先を殴りつけるつもりで脅し電話を掛けると却って刑事に狙いを絞り込まれ(名士には新聞ダネになることは控えろと口を酸っぱくして言い聞かせられたのに)いきなり車に爆弾を仕掛けて刑事の妻を誤って爆殺してしまいます。名士と刑事の間にあって(強固な壁だったはずのふたりの隔たりを)大きく揺すって液状化していくのがこのギャングでして、リー・マーヴィンこそまさに50年代の<やばいやつ>です。おっかない話になるたびに半開きの口にベロをはにかませてぬらっと笑う悪党ですが、2枚のトランプを合わせ立てたようにかろうじて精神がしゃんと立っているうちは情婦にも甘く寧ろ彼女の天衣無縫に手を焼くお人好しですがわずかな風向きにトランプが倒れると聞き入れない残忍さにわれを忘れてあやうく酒場の女ディーラーに一生の傷を負わせるところですし何より単なるきまぐれで刑事にちょっかいを出しただけの情婦に気持ちが収まらず振り返るなり煮えたぎるコーヒーを顔に浴びせ掛けます。何たる無法ぶり、やがてその所業でぎりぎりと自分で自分を締め上げていくと名士と警察上層部の、高層建築のようにはるかに見上げるようだった栄耀栄華を足許から崩していきます。

 

 


ロイ・ハギンズ監督『ネバダ決死隊』(1952年)では北軍の金塊を強奪する特殊任務に成功してみると南北戦争はとっくに終わっていてそうなると目の前の金塊に目が眩んでしまうのがリー・マーヴィンです。いきなりこれからは指揮官も部下もないと(金塊の山分けに)銃を突きつけんばかりにいきり立ちますが、任務だったとは言えいまや金塊強奪のお尋ね者、しかもここは北軍領域に深く入り込んだまさに敵地も敵地、はるか故郷まで長い危険な道のりを誰にも知られず辿り着かねばならないこんなときに同調するものはなく指揮官であるランドルフ・スコットの人望の高さにひとり置き去りにされかけて自分から詫びを入れにいく情けなさ、しかし一番してはいけないときに最悪の選択を主人公に強いる<やばいやつ>の本領はやがて貪欲な賞金稼ぎに小さな家に押し込められた一夜に発揮されます。居合わせた妙齢の女性を(賞金稼ぎの最後通牒がいまにも差し迫っているというのに)無理矢理乱暴しようとしてスコットと決定的な不和を惹き起こすと窮地を乗り切る一致団結を切り崩してひとり抜け駆けを企てる始末、さもあらん、さもあらん。さて最後にラズロ・ベネディクト監督『乱暴者』(1953年)を見て長かったこのお話も終わりにしましょう。暴走族であるマーロン・ブランドは締め上げた革ジャンにおっ立てた堅い鍔のキャスケットという出で立ちで(これはのちのち『不良番長』の梅宮辰夫に引き継がれますが)、そのブランドに対抗するグループのリーダーがマーヴィンです。競い合うあまり見境のない騒ぎに火をつけるとまたたく間に町を破壊せんばかりの暴力に呑み込まれていくんですからこれまで通りの<やばいやつ>には違いありません。ただここで触れておきたいのはリー・マーヴィンの姿のしなやかさです。うらうらと埋め尽くすバイク集団を掻き分けて(啖呵を切ろうと)お目当てのブランドに詰め寄るマーヴィンはバイクを飛び降りるなり、突き出した指先でブランドを睨めつけつつ彼を挑発していきます。そのときの足から腰そして上半身へと抜けていく体のしならせ具合には女性的な柔和さがこぼれていて... 思えばのちのちの『プロフェッショナル』(リチャード・ブルックス監督 1966年)でも『特攻大作戦』(ロバート・アルドリッチ監督 1967年)でもはたまた『最前線物語』(サミュエル・フラー監督 1980年)でも軍人となったマーヴィンには敬礼に手をかざして(何か見えない間を引き絞ったあとに)それを振り切る楕円に反った鮮やかさには女性的なしなやかさが影を引きます。年を経るごとにうらなりのつややかな顔立ちが酒焼けどころか顔ごと軽石のように侵食されてまさに喰えない無骨さについつい見失いがちですが、この柔和な腰つきこそ何より私の愛するリー・マーヴィンです。

 

 

 

 

 

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