映画(20と)ひとつ、ミゲル・ゴメス監督『熱波』
  監督 : ミゲル・ゴメス
  製作 : ポルトガル・ドイツ・ブラジル・フランス

  作年 : 2012年
  出演 : テレサ・マドルーガ / ラウラ・ソヴェラル / エンリケ・エスピリト・サント / アナ・モレイラ / カルロト・コッタ

 

 

ミゲル・ゴメス 熱波


まるで淡く息を吹きかければ霧のように形を失ってしまいそうなモノクロームです。本作の製作年とそう遠くない現在を舞台とする第一部とそこからはるかに回想されるアフリカの日々を第二部に噛み合わせてそれぞれ<楽園の喪失>、<楽園>と題されています。(一応)現在の物語のヒロインはもう壮年と言っていい女性で身近には長年の友人である画家がいますが(彼の方は息をするのも苦しいほどの恋心を抱いてはいても)幾分子供じみたがさつに愛を燃え上がらせるほどの熱情は生まれません。寧ろヒロインの心に深く侵入してくるのは同じ高級アパートの隣に住む老嬢でして年甲斐もなくというのか年齢というお仕着せに収まる気がそもそもないのか兎角横道に逸れた振る舞いに今日は今日とてカジノで素寒貧になっている朝からの電話です。思えば老嬢とヒロインは母子に似つかわしい年齢差でありふたりを重ねるのも共に娘のあるいまの独り身、自慢の娘であるのはふたり共で(母の方の親愛に比して)何とはなく娘の方に疎遠な感情があるのも同じです。この幾重にも重ねられながら重なり合うこともなく別の形へゆったりと漂うたゆたいにこそ本作の魅力があって(何とも中心を定め難い... ちょうど植民地から本国を見るような空白の本国を常に念頭に置きながら外縁のわれらの時間を生きているそんな感覚でありヒロインにしたところで紛れもなく彼女はヒロインの位置ながら本作が繰り広げる物語において飽くまで傍観者に過ぎません、細やかでありながら野心的な演出に心奪われますが)やがて年齢の現実に追いつかれる老嬢が今際の枕辺に呼ぼうとひとりの男性の名前を口にしたことで物語は遠いアフリカの思い出へと広がっていきます。そんな記憶の日々から現れる男性は勿論(記憶のままの、あのときの若い姿形ではなくふたりが離れ離れに過ごしたこの年月を老嬢と同じように人生に背負ってひとりの)老人になっていてここから第二部が緩やかに始まりますが、かつて植民地であったアフリカの地へそしてあのときの時間へと蘇っていきながら単純に即時的な劇には移りません。画面にはそのとき20代と思しき彼らの日々が描かれ(物音も鳥のさえずりも風の音もそのときのそれが響き)ながら人物のセリフのみが無音にされて第二部は一貫して老人が回想する長い語りによって進められます。50年前の出来事を現在時で描かず飽くまで回想という枠組みのなかで映し出すのはこのふたりが犯した罪が現在においても重く伸し掛かり若さの過ちとその過ちのなかに真実の愛を見つけてしまったことの、永遠に遠ざかりつつ取り返しのつかない罪に釘付けにされてひとひとりの一生がいまも引き裂かれているためでしょう。語りの仕掛けはこの物語をさらにもうひとつ包んでお伽話のような短い挿話が冒頭につけられています、昔々妻を亡くした探検家が悲しみのあまりワニに身を投げて命を断つと妻の亡霊と彼を呑み込んだワニがもはや睦み合うことのないアフリカの月夜に嘆息を漏らして... 最後にもうひとつ、邦題からは見えてきませんが原題は<TABU>、(第二部で語られる曰くあるアフリカの山の名前ではありますが)この題名ではどうしてもF.W.ムルナウの遺作(1931年)を思い出さずにはいられず20世紀のいまと隔絶した南海の麗しさに人類のあるべく姿を謳歌する楽天的なかの作品に連なって人生の悲しみはさてどう響きますものやら。

 

 

 

ミゲル・ゴメス 熱波 テレサ・マドルーガ

 

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