いつもと同じように仕事をしていても
あわただしく洗濯物を干していたとしても
ほんとうに降って落ちて来たように
あ、自分は一人なんだった、と思い出す瞬間がある。

昨年の秋くらいまでは
自分の立っている場所だけがくり抜かれて異空間に飛ばされたような
そんな圧倒的な絶望感だった。
家族たちはもうこの世のどこにもいなくて、
電話をすれば誰かの声が聞けるとか、実家に帰れば誰かがいるとか
そういうこともないんだと絶望した。

今は少し違う。
圧倒的な絶望の代わりに、心臓をギュギュッと絞られたような切なさが来る。
そこから出た溜息がジワジワと広がって行って
それが部屋の空間に次第に沈んで同化していく感じがする。

一分。一時間。一日。一週間。一か月。
そして一年。三年――と、
時の数だけ「不在」が積み重なって行く。




先週、駅まで徒歩で向かっている途中だった。
一匹の猫が大通りを渡ろうとしていた。
その二車線道路はすぐ先が交差点で、車の通りが絶えない。
私も約束があったので、猫をしり目にそのまま通り過ぎようと思った。
でも何年か前この道路を車で通った時、
猫が轢かれて亡くなっている姿を見たことがあった。

一応、猫を止めてみたけれど
猫はその場をなかなか去らない。
怖がって立ち去ってくれたら良かったのに。
ずっと歩道をウロウロしているのが気になって
どうしたらいいか私もウロウロしてしまった。

たとえこの場から猫を遠ざけたとしてもまた来るだろう。
とても痩せて小柄で、抱き上げようとすると咳き込み、
どうやら吐き気もあるようだった。
なのに蹲ることもなく、ウロウロしている。
私は動物をもう飼う気はなかったから、余計な手出しはしたくなかった。

はす向かいに動物病院が見えたが、診察時間外だった。
それに、自分で責任を持てない、
もしかしたら感染するような病気を持っているかもしれない猫を
いなきり院内に入れるわけにはいかなかった。
昨年パルボウイルスでパニックになった猫カフェがあったらしい。
パルボは病院をもパニックにさせる。
ワクチン接種で防げるものの、外猫が接種している可能性はとても低い。


どうしようか迷ったすえ、家に戻ってキャリーバッグを持って来た。
でも猫はいなかった。道路も見てみた。
辺りを探してみたけれど、
いたのは草を食べている丸々と太ったブチ猫と大きなサビ猫だけ。


またやってしまったと思った。
またチャンスを逃したんだと思った。
家族たちを助ける機会も私は逃した。
ここでがんばらないともう機会はないというのに
私は失敗した。

でも、猫を探しながら気が付いていた。
私は半分ほっとしていた。猫がいないことに。

もっと時間をかけて真剣に探せば見つかったかもしれない。
あの猫を連れて帰れば、どうなるか。
私は自分の静かな生活を選んだんだ。
あの猫の命ではなくて。


家族の「不在」という時間が否応なしに積み重ねられ、
それを受け入れたくないのに受け入れざるを得なかった。
いびつな形の石を一つずつ積み上げては崩され、
また一つずつ積み直していったみたいに。
その均衡がまた崩れるのが怖かった。

命の責任を持つのはしんどい。
もう一度全部失うのがすごく怖い。
私にはもうこの世に自分を引き留めるものがない。
だからその均衡が崩れてしまうと
また死にたくなるかもしれない。



家族たちとの楽しかった時間も、闘病の時間も
猫を探してただ漠然とウロウロしていた時間も
流れて行った。

そうだった。私はこういう人間だった。
中途半端な愛情。中途半端な努力。
結局何も成し遂げないままウロウロしている。