穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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1925年のダマスカス ―フランス軍、暴徒に対して爆弾投下―

 

 1925年、シリア、ダマスカスの市街に於いて。


 フランス軍は暴徒鎮圧に爆発物を投入し、ナポレオン・ボナパルトの勇壮な精神の輝きが遺憾なく受け継がれていることを内外に示した。

 

 

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長谷川哲也『ナポレオン 獅子の時代』13巻より)

 


 順を追って説明しよう。


 すべての元凶はイギリスである。


 この年の四月一日エルサレムに築かれたヘブライ大学の開校式に出席するため、アーサー・ジェームズ・バルフォア卿パレスチナに乗り込んだことが始まりだった。


 そう、アーサー・ジェームズ・バルフォア。


 第一次世界大戦当時外務大臣の席に在り、例の三枚舌外交を発揮して、中東に百年経っても解決されない大混乱を惹き起こした張本人といっていい。


 アラブ人――特にパレスチナ在住のアラブ人にしてみれば、どんなに呪っても呪いきれない相手であろう。


 そんな男がよりにもよって、怨嗟渦巻くエルサレムに、イギリスの肝煎りで設立された、ユダヤ人のための大学の式典に出席するため飛び込んでゆく。


 騒ぎにならねばむしろ奇蹟だ。


 案の定、エルサレムのアラブ人は針の筵で彼を迎えた。当日、アラブ人の経営による商店は示し合わせて一切合切休業し、戸口に弔旗を掲揚し、自分たちの感情が那辺に在るかを如実に示した。


 各新聞もこれに和し、こぞって黒枠付きの新聞を発刊、弔意を表したものである。


 が、パレスチナに於いてはそれ以上のことは何も起こらず、開校式も恙なくプログラムを完了し、バルフォア卿は五体満足でスコーパス山を後にした。

 

 

Founding of the Hebrew University

 (Wikipediaより、ヘブライ大学開校式)

 


 問題が起きたのは、イギリス委任統治パレスチナからフランス委任統治領シリアに入って以後である。


 この地に住まうアラブ人は、パレスチナの人々ほど気が長くなかった。もっと直接的な方法で意志を表現することにした。すなわち、


 ――あの三枚舌野郎を街路に引き出し、八つに裂いてくれようず、と。


 バルフォア卿の泊まるホテルに襲撃をかけることにしたのだ。


 フランスこそいい面の皮であったろう。


 彼らにしてみれば、いま現地人の感情を刺激するのは何としてでも避けたかった。


 ヴェルサイユ条約以来、ここシリアでも民族自決金科玉条として「シリア人のシリア」を求める動きが不気味に大地を揺さぶっている。


 が、一次大戦以前には、ルイ九世の古証文を持ち出してまでこの地の保護権を主張したほどのフランスが、それを良しとする筈もなく。


 国中の監獄という監獄が悉く国事犯で埋まるほど厳しく弾圧に努める一方、これ以上の激発を抑止し、彼らを現状維持の惰眠の中に閉じ込めておくよう、様々な懐柔策を打ち出していた。


 そうした繊細な心遣いの真っ最中に、このバルフォア来訪である。

 

 

A.J. Balfour LCCN2014682753 (cropped)

 (Wikipediaより、アーサー・バルフォア)

 


 たまったものではなかったろう。旱魃続きの夏の枯野に、火炎放射器をぶっ放されたも同然だった。


 必然として、大炎上した。


 その火勢を、興味深く眺めていた日本人がひとり居る。


 東京日日新聞顧問で、昭和二年には名著『外交読本』を世に著した、稲原勝治その人である。


 以下、彼の報告「『神の選民』ユダヤ人の国」から抜粋すると、

 


 バルフォア卿が、エルサレムを引揚げ、仏国受任統治領たるシリアに入りダマスカス市に滞在するや、アラビア人の大群衆がそのホテルを襲ひ死傷者百五十名を出し、暴徒が再び襲来せる際は、仏軍が爆弾を投下してこれを離散せしめたほど、勢ひ猖獗を極めたものである。驚いたバルフォア卿は、辛うじて身を以て汽船スフィンクスに逃れ、英国に帰った。

 


 要するに、

 

 

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長谷川哲也『ナポレオン 獅子の時代』13巻より)

 


 こういうことが起きたのだ。


 フランスの努力は、無為に帰したといっていい。彼らの眼には、バルフォアが疫病のように見えたのではあるまいか。


 シリアはその後、独立の気勢ますます高まり、1928年にはフランスをして軍政の廃止と制憲議会選挙の実施に頷かせるに至っている。

 

 

 

  

 


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