彼岸勤行法要

「新池殿御消息」2019年秋季彼岸勤行法要のために

新池殿御消息

今一乗妙法蓮華経の御宝前に備へ奉りて南無妙法蓮華経と只一遍唱えまいらせ候い畢んぬ、いとをしみの御子を霊山浄土へ決定無有疑と送りまいらせんがためなり

(お送りいただいた白米を)さっそく一乗妙法蓮華経(御本尊)の御宝前に供えて、南無妙法蓮華経と、ただ一遍唱えました。亡くなられた最愛のお子さんを、「成仏は決定して疑いない」(法華経如来神力品第21)との経文通りに、霊山浄土へとお送りするためです。

背景と大意

本抄は弘安2年、門下である新池(にいけ)殿に身延の地から送られた御手紙です。

新池さんは亡くなってしまった子どもの追善のために大聖人に米三石を供養しました。一石は100升ですから、とてつもない量のお米をご供養したことになります。

それだけの白米は、そのまま愛するわが子への思いの深さと思われますが、大聖人はその思いを余すことなく受けとめられ、大切にお米を御宝前に供えられました。そして御礼の御手紙したためられたのが本抄です。

大聖人は当時、風邪を召されていてひどく体調が優れないなかでしたが、長文の御手紙をしたためられて、新池さんの真心にお応えします。

その冒頭、新池さんが最も気に止めているであろう、お子さんの成仏について、「必ず成仏するように題目を唱えたので、仏になることは間違いない」と明記されます。その部分が今回拝読する箇所となっています。

本抄では、因果の理法からも「法華経の行者」に供養するならば、それが小さな供養に思えたとしても、計り知れない大功徳が得られることを明かされています。それは”亡き子どもの成仏は間違いない”との確信を、新池さんに伝えるためだったと思われます。

またさらに、釈尊の真意である法華経を深く信じることで、必ず仏になることができると、新池さんを激励します。

大聖人のこうした暖かい励ましが、新池さんのお子さんを失った深い悲しみを癒したであろうことは違いありません。

創価学会では、「秋分の日」である9月23日を中心に「秋季彼岸勤行法要」を営みます。勤行法要では今回、この「新池殿御消息」を拝読して故人への追善を行うことになっています。ここでは拝読御書「新池殿御消息」を学んでまいります。

解説

「今一乗妙法蓮華経の御宝前に備へ奉りて南無妙法蓮華経と只一遍唱えまいらせ候い畢んぬ」とあります。意味は、「米三石を御本尊の御宝前に供えて、南無妙法蓮華経とただ一遍唱えました」です。

「只一遍」とはどういうことでしょうか。かつて、戸田城聖先生は「この時、大聖人は題目を一遍だけ唱えられた。それで功徳があるという意味です。いかに題目が力強いかということを、お示しになったお言葉と拝します」と語られました。

大聖人は続く御文に「いとをしみの御子」と仰せです。かけがいのない大切な生命を最大に慈しまれ、亡き子を思う親の心を我が心とされながら、一遍の題目に無量無辺の大功力を込めて、成仏を祈られたことが拝されます。

「決定無有疑(けつじょうむうぎ)」とは、成仏は決定して疑いない、という意味です。

大聖人の一遍の御題目によって、新池さんとそのお子さんの心は、どれほど安らかになったことでしょう。

御書には「妙法蓮華経の五字を唱うる功徳莫大なり」と明記されており、故人を偲んで唱える一遍、一遍の題目が最善の追善回向とならないはずがありません。

池田大作先生は語れています。

「題目の力は計り知れない。ただ一遍でも縁する生命を成仏へ導く大功徳があると、御本仏は示されている。最愛の家族との別れは悲しい。しかし、生死を越えて妙法で結ばれている。霊山浄土はいずこにあるか。唱題し、広布に励む家族の胸の中にある。常に一緒である」

まとめ

供養には、物の供養だけでなく、広宣流布のためにわが身を使って行動することも含まれます。

私たちが地道な学会活動によって功徳をたくさん積むことで、同時に功徳を故人へ回し向けることができる。それが追善回向です。

彼岸勤行法要にあたっては、一遍の題目にも無量無辺の功力があるという御金言を深く深く信じて、大聖人が故人と新池殿に向けられた慈愛をしっかりと受けとめたいと思います。

そして、私たちもまた、自行化他のお題目を上げながら、広布へ勇躍前進してまいりましょう。

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