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ヨーロッパの歴史・経済-中世/後期-その4

2020年08月03日 | 西ヨーロッパ史
ヨーロッパの歴史-中世/後期-4

■中世後期(1401年-1430年)
ヨーロッパの中世は、俗に暗黒時代と呼ばれ、ゲルマン民族が西ローマ帝国を滅ぼした事より始まり、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の滅亡後、イタリアで始まったルネサンス運動までを言う。中世後期には、飢饉や疫病の蔓延、大規模な農民蜂起、カトリック教会大分裂、百年戦争(フランスの内乱から、イギリスとフランスの戦いに発展)、オスマン帝国の驚異などがある。一時、オスマン帝国はティムール朝に敗北し、分裂する。

・ハンガリー貴族の反乱
1401年、ニコポリの戦後、ハンガリ王ジギスムントの権威が失墜し、再びナポリ王ラディズラーオを王位に即けようとする貴族の反乱が起き、ジギスムントはブダ城に監禁された。その後、信奉者によって救出されたジギスムントは謀反者に寛大な処置をする。翌02年、ハプスブルク家のオーストリア公アルブレヒト4世を後継者に指名すると、再びハンガリー貴族の反乱が起き為、ジギスムント自ら、鎮圧した。

・ローマ王ヴェンツェルの廃位/ボヘミアの混乱
1401年、帝国諸侯はヴェンツェルから帝位を剥奪した後、ループレヒトを新たなローマ王に迎えた。そのため、ループレヒトはローマ教皇ボニファティウス9世のもとに向かったが、イタリアで激しい抵抗に遭い、軍資金が底をついた為、翌02年に、イタリア行きを断念し、戴冠を果たせなかった。やがて、マインツ選帝侯と対立するようなる。一方、廃位されたボヘミア王ヴェンツェルは、異母弟のハンガリー王ジギスムントに監禁され、ウィーンへ護送されたが、翌03年に、荒廃したボヘミアの首都プラハに帰ってくる。

・ヴィリニュス・ラドム合同
1401年、ポーランドの配王・ヴワディスワフ2世は、ヤドヴィガ女王の崩御にともなって、ヴィリニュス・ラドム合同により、ポーランド・リトアニア連合王国の王に即位すると、ケーストゥティスの子・ヴィータウタスをリトアニア大公に任命した。翌2年にはカジミェシュ3世の娘アンナ・ツィレイスカと再婚した。

・第一次ジェマイティヤ蜂起(1401年-1404年)
1401年、リトアニア大公ヴィータウタスがドイツ騎士団と開戦すると、ジェマイティヤ蜂起が起こり、ジェマイティヤ人の反乱軍がドイツ騎士団の2つ城を焼いた。秋に、騎士団はリトアニアのカウナスとフロドナを襲撃した。翌2年、ドイツ騎士団はヨガイラの弟シュヴィトリガイラをリトアニア大公に擁立し、リトアニア大公ヴィータウタスとの正面対決に挑んだ。

・アンカラの戦い/オスマンVSティムール
1402年、オスマン皇帝バヤズィト1世は第4次コンスタンティノープル包囲戦をする一方で、アナトリアのゲルミヤン侯国 を征服する。また、ティムールに追放された黒羊朝がバヤズィト1世に援助を求め、逆にアナトリアのベイリクたちは、ティムールに援助を求めると、オスマン帝国とティムール帝国の間で、アンカラの戦いが行われ、オスマン帝国が敗北し、コンスタンティノープルは開放され、ビザンチン帝国は助かった。
翌03年、捕虜になったバヤズィト1世はティムール帝国の首都サマルカンドへ護送中に病死した為、バヤズィト1世の滅ぼしたベイリクが復活した。また、東ローマ帝国はテッサロニキを回復、さらにアテネ公国も一時的ながらも平穏な日々を送ることができた。
また、ティムールはカラ・オスマンの白羊朝を認めた。

オスマン帝国の空位時代(1403~13年)


・スレイマンVSメフメト/オスマン帝国
1403年、バヤズィト1世の死後、オスマン帝国の領地はバヤズィトの四子(スレイマン、メフメト、イーサー、ムーサー)に寄って4分割され、互いに帝位を巡って争いを始めた。メフメト1世は、兄弟イーサーからブルサ、イズニク州を奪い、コンスタンティノープルへ追放した。更に翌4年には、カラマン侯国と同盟を結び、バルカン半島を支配していたスレイマン軍の攻撃を抑えた。
更に、メフメト1世は復興したアイドゥン侯国サルハン侯国テケ侯国メンテシェ侯国を傘下に治め、再び宗主権を認めさせた。

・ラチョンシュの和約--ドイツ騎士団とリトアニア
1404年、ドイツ騎士団はヴィータウタスの3回の裏切りを教皇ボニファティウス9世に訴えたが、教皇よりリトアニア攻撃の中止命令が出され、両者の間でラチョンシュの和約が結ばれ、
リトアニア大公ヴィータウタスはドイツ騎士団と共にジェマイティヤ反乱軍征伐をした。

・ティムールの明遠征(中国)/ティムールの死去
1404年11月、ティムールは亡命してきた北元の皇子オルジェイ・テムルを北元のハーン位に就ける為、遠征を決意すると、後継者にピール・ムハンマドを指名した後、ティムールはサマルカンドを出発したが、翌5年2月、明遠征途中のオトラルで病死してしまう。

---ティムール朝の衰退期--

・ティムール朝の第2代君主ハリールの誕生(1405年-1409年)
1405年、ティムールの死を機に、ティムールの甥・フサインがオトラル付近からサマルカンドに進軍すると、オトラルに居たティムールの側近たちは、ティムールの孫・ハリールにフサインの阻止を要求すると、ハリールはサマルカンド知事:アルグン・シャーらを味方に付けて、フサインや、従兄弟のウルグ・ベクらのサマルカンド入城を拒絶させ、ハリールはタシュケントから首都サマルカンドに入城すると、ハンマド・スルターンの遺児ムハンマド・ジャハーンギールを傀儡のハンに擁立した。その後、ティムール帝国はティムールの三男ミーラーン・シャーの子ハリール派とティムールの四男シャー・ルフ派に分裂していった。

・トクタミシュの死/ノガイ・オルダの設立
1405年、ティムールとトクタミシュが和解するが、ティムールが死去した為、後ろ盾を失ったトクタミシュは、マンギト部の将軍エディゲによって殺された。将軍エディゲはテムル・メリクの子テムル・クトルクをハンに擁立し、ジョチ・ウルスのアミールたちの盟主に成った。やがて、アミールたちエディゲの家系を盟主するノガイ・オルダを形成し、ヴォルガ川とウラル川の間のカスピ海北岸に勢力を誇った。

・カルシの戦い/シャイフの反乱
1406年、シャー・ルフの支援を得たピール・ムハンマドは、カルシの戦いで、ティムール朝のハリール軍に敗北すると、バルフに退却した。翌07年、ピール・ムハンマドは配下であるスルドゥズ部のピール・アリー・ターズによって暗殺された。一方、ハリールはシャーディー・ムルクを妃に迎えると、国政は王妃の意のままに成り、民衆の不満を募らせ、ジャライル部族のシャイフ・ヌールッディーンがモグーリスタン・ハン国の有力者ホダーイダードと、共に反乱を起こし、オトラル、タシュケント、ホジェンド、アンディジャン、スィグナクなどの都市を征服して行った。

・オルレアン公の暗殺/ジアン同盟(アルマニャック派)
1407年、フランス王シャルル5世の死去後、即位したシャルル6世が精神異常に成った為、王弟オルレアン公ルイが権力を握ると、ジャン1世を中心とするブルゴーニュ派によって暗殺された。10年には、叔父のベリー公ジャン1世がブルゴーニュ派に反発してジアン同盟を結成した。やがて、シャルルの舅であるアルマニャック伯が同盟の実権を握り、ブルゴーニュ派と軍事衝突を開始する。

・ドラゴン騎士団の創設
1408年、ハンガリー王ジギスムントはツェリェ伯ヘルマン2世の娘バルバラと再婚し、スロベニア東部のツェリェ地方を勢力下に置くと、国内の不満は和らいだ。その後、ジギスムントは、自分たちに忠誠心を示す貴族たちと、共にドラゴン騎士団を創設した。

・シュヴィトリガイラの幽閉
1408年、リトアニア大公ヴィータウタスと娘婿のモスクワ大公ヴァシーリー1世の間で、戦いが勃発すると、ヴィータウタスの従兄弟であるシュヴィトリガイラは、セヴェリアの全都市をモスクワに引き渡して彼の地へ亡命した。その見返りに、シュヴィトリガイラはヴォロコラムスク始め、いくつかの都市を与えられ、ヴィータウタス軍と戦うが、何度も大敗した。やがて、エディゲ軍の侵入を聞くと、リトアに逃げ帰ったが、クレメネツ城に9年間幽閉された後、ハンガリーへ逃げた。

・第二次ジェマイティヤ蜂起/ポーランド・リトアニア・ドイツ騎士団戦争
1408年、スモレンスク遠征を終えたヴィータウタスは、ポーランド王ヴワディスワフ2世と会って、ジェマイティヤ人を利用してドイツ騎士団がポーランドへ宣戦布告をするよう策略を企てた。翌09年、第二次ジェマイティヤ蜂起が起こり、ジェマイティヤ人の反乱軍はドイツ騎士団の城塞を攻撃し始めた。やがて、ジェマイティヤ人はドイツ騎士団をリトアニア北西部ジェマイティヤ地方からプロイセンへ追いやった。その後、ドイツ騎士団がリトアニアへの侵攻をちらつかせてポーランドを脅迫すると、ポーランドはミコワイ・クロフスキ枢機卿を通じてリトアニア支援を表明し、逆にプロイセン侵攻をちらつかせて騎士団を脅かした。

・黒羊朝のアゼルバイジャン回復
1408年、黒羊朝のカラ・ユースフは勢力を盛り返し、アゼルバイジャン地方を支配するティムール朝の王子アブー・バクルを破って、アゼルバイジャンを奪還した。その後、ジャライル朝を復興させたアフマドと、タブリーズの覇権争いを行い、カラ・ユースフはアフマドを捉えて処刑した。翌11年にはジャライル朝を滅ぼして、バグダードを拠点に、イラク全土を征服した。

・ティムール朝のモグーリスタン遠征/シャー・ルフの即位
1409年、ハリールは反乱軍討伐にモグーリスタン遠征を繰り返すが、3月にモグーリスタンのホダーイダード軍に捉えられた。その隙きに、シャー・ルフがサマルカンドに入城し、ハリールを廃位すると、5月にシャー・ルフがティムール朝の第3代君主に即位いた。

・ポーランドへの宣戦布告/休戦協定
1409年8月、騎士団はポーランドに宣戦布告し、ポーランド・リトアニア・ドイツ騎士団戦争を始めたが、ボヘミア王ヴェンツェルの仲介により、1410年6月まで休戦協定が結ばれた。

・アナトリアの奪還/オスマンの空位時代
1409年、メフメト1世は弟ムーサーをバルカン半島に派遣し、スレイマンの居るエディルネを挟み撃ちにし、アナトリア西部をスレイマンから奪還した。

・3教皇鼎立/ピサ公会議
1409年、カトリック教会がローマとアヴィニョンに分裂している中、両教皇の枢機卿団が、ピサ公会議を開いて解決しようとしたが、失敗した。これによって、枢機卿団は両教皇の廃位し、新たにアレクサンデル5世を教皇に迎えると、3人の教皇が鼎立する事態(大シスマ)になった。

・タンネンベルクの戦い/トルンの和約
1410年7月、ポーランドのタンネンベルク村でポーランド王国・リトアニア大公国連合軍とドイツ騎士団が交戦し、ポーランド=リトアニアはタンネンベルクの戦いでドイツ騎士団を破ったが、トクタミシュの息子ジャラールが率いるジョチ・ウルス軍はドイツ騎士団に壊滅させられた。その後、ポーランド=リトアニア軍はドイツ騎士団のマリーエンブルク城を包囲したが、収穫時期の秋に成っても陥落しなかった為、翌11年には、三者の間で第一次トルンの和約が結ばれ、ポーランドはドブジン地方を、リトアニアはサモギチアを回復した。これより、ドイツ騎士団は衰退し始めた。

・ローマ王ジギスムントの誕生
1410年、ジギスムントはローマ王ループレヒトの死去を機に、モラヴィア辺境伯ヨープストと、共に共同統治王と成った。しかし、ヨープストが翌11年に死去した事から、ジギスムントは単独ローマ王と成った。

・ジャライル朝の滅亡
1410年、ジャライル朝の第4代君主アフマドは、黒羊朝のカラ・ユースフに捕まり、処刑された。翌11年には、黒羊朝がジャライル朝の残党を滅ぼし、バグダードを占領して、イラク全土を支配すると、ジャライル朝は滅亡した。

・フランスの内戦/ブルゴーニュ派の排除
1411年、アルマニャック派とブルゴーニュ派による内戦が始まると、両派はイングランドの支援を求める様に成り、翌12年には、アルマニャック派とイングランドの同盟成立して、パリからブルゴーニュ派を排除した。しかし、8月に入ると、内戦に疲弊した両派は和睦し、イングランドとの同盟を解消した。

・ヴェネツィア共和国のダルマチア奪還
1411年、ヴェネツィア共和国は、国内が不安定なハンガリーに対して宣戦布告をした。その後、20年、ヴェネツィア共和国はジギスムントからダルマチア地方を割譲された。

・ナポリ対立王ルイ2世のローマ占領
1411年、カルロ3世の子ラディズラーオが教皇アレクサンデル5世から破門されると、ルイ2世ヨハネス23世を擁立し、ローマからラディズラーオを追い出した。2年後、再びローマはラディズラーオに奪還された。

・チャムルルの戦い/オスマン帝国の再統一
1411年2月、スレイマンがコンスタンティノープルへの逃走中に戦死した為、ムーサーはスレイマンが取得したバルカン領を手に入れると、イラン出身のスーフィーを大法官に起用してバルカン諸国を牛耳ると、貴族、富裕層、イスラム神学者からの猛反発を受けた。その後、メフメトは、ビザンツ皇帝とセルビア公と同盟を結び、13年のチャムルルの戦いで弟ムーサーを捕殺してオスマン帝国の再統一を果たすと、スルタンに即位し、カラマン侯国の侵入や将校ジュネイトの反乱を治める為、アナトリアに帰還した。

・業者カボシュの反乱/フランス
1413年、パリでブルゴーニュ派の業を営むカボシュが市民を扇動してアルマニャック派と見られた官僚達を虐殺する事件が起きると、シャルル6世とルイ王太子ら宮廷派はアルマニャック派の手を借り、翌年の5月にはコンピエーニュ・ソワソンなどを落としブルゴーニュ派を追い詰めるが、イングランド軍の襲来を知ると、両派はフランス北部のアラスで和睦を結んだ。

・ヘンリー5世の即位/ロラード主義
1413年、リトアニア遠征の時にかかった伝染性疾患にため、ヘンリー4世が死去すると、父と対立していた王太子がヘンリー5世として即位した。翌14年には、ロラード派オールドカースルの反乱を未然に防ぎ、イングランドを盤石なものとした。

・アルフルール包囲戦/百年戦争の再開(1415-1453年)
1414年、イングランド王ヘンリー5世は、フランスのブルゴーニュ派やアルマニャック派に、オワイン・グリンドゥールへ援助した賠償や、両派に支援した代償に領土割譲とフランス王位を要求したが、アルマニャック派に拒否された。
翌15年8月、ヘンリー5世は北フランスに上陸し、9月にはアルフルール(セーヌ=マリティーム県)の要塞を陥落させた。その後、イングランド軍は多くの負傷者を出した為、一旦カレー港に向かった。

・コンスタンツ公会議/教会大分裂の終焉
1414年、神聖ローマ皇帝ジギスムントはコンスタンツ公会議を開き、翌15年には対立教皇ヨハネス23世を廃位し、17年までには残りの二教皇も廃位され、マルティヌス5世を教皇に据えて、教会大分裂を終われせた。

・ヤン・フスの火刑
1415年、ボヘミアのヤン・フスがコンスタンツ公会議に掛けられ、異端者として、火あぶりされると、ボヘミア人たち抗議した。ウィクリフ派は、ボヘミアでフス派を形成してローマ・カトリックと、ヴェンツェルの弟ジギスムントと対立し始める。

・アジャンクールの戦い/百年戦争
1415年10月、フランス軍はカレー港に帰還するイングランド軍を待ち伏せし、アジャンクール戦を繰り広げたが、イングランド軍に大敗すると、総指揮官のドルー伯は戦死し、アルマニャック派の幹部ら(オルレアン公シャルル、ブルターニュ公ジャン5世の弟アルテュール・ド・リッシュモンなど)は捉えられ、イングランド軍と共にロンドンに連行された。


・アルマニャック派の独裁/カンタベリー条約
1415年12月、叔父ベリー公ジャン1世はルイ王太子が死去すると、弟のトゥーレーヌ公ジャンを王太子に擁立し、更にアルマニャック伯をパリへ呼び戻す。翌16年、ベリー公ジャン1世の死を機に、アルマニャック伯は独裁政治を始めた。その間に、神聖ローマ皇帝ジギスムントはイングランドとフランスの和平調停の為、ヘンリー5世のもとを訪れたが、ヘンリー5世の持て成しにより、フランへの賠償請求権を認めるカンタベリー条約を8月に結び、同盟関係を築いた。

・オスマン帝国のアナトリア平定/カラマン侯国の征服
1416年、オスマン皇帝メフメトは、元ムーサーの将校ジュネイトが起こした反乱を制圧し、更に、オスマン領内に侵入したカラマン侯国を降伏させ、アクシェヒル、スィヴリヒサル、ベイシェヒル、セイディシェヒルを奪還した。また、ゲリボルでオスマン海軍とヴェネツィア共和国の艦隊との間に戦闘が起きる。

・フランスの分裂/ブルゴーニュ派政権の誕生
1417年、ブルゴーニュ公ジャン1世(無怖公)は、アルマニャック伯によってパリから追放された王妃イザボーをトロワで保護し、彼女を擁立して政権を樹立した。このため、フランスは分裂した。一方、パリはブルゴーニュ派に補給を絶たれ市民が食糧難に苦しみ、ブルゴーニュ派への粛清でアルマニャック伯に対する市民の不満は高まった。

・イングランドのフランス遠征/教会大分裂の終焉
1417年、神聖ローマ皇帝ジギスムントによってコンスタンツ公会議が開けれ、3人の教皇達が廃止され、11月に教皇選挙が行われた。
一方、8月にはヘンリー5世が率いるイングランド軍がフランス北西部ノルマンディーに上陸し、カーンを始め、多くの沿岸部都市を征服し、翌18年7月にはルーアンに至った。しかし、フランス政府はブルゴーニュ派とアルマニャック派が対立していた為、パリからの援軍は来なかった。翌18年、コタンタン半島のシェルブールシェルブールが陥落し、翌19年1月、ルーアンがイングランド軍に敗北した。

・3つの反乱/オスマン帝国
1418年、アナトリアとバルカン半島のオスマン領で宗教反乱が起きる。シェイフ・ベドレッディン思想に共鳴したトルコ人イスラム教徒ベルクリュセ・ムスタファ及びユダヤ人のラビ・トルラクら起こした反乱と、ベドレッディンがエーゲ海沿岸部のカラブルン半島で起こした反乱、翌19年には、偽ムスタファの反乱が起こった。

・パリ市民の暴動/ノルマンディー征服
1418年、アルマニャック派の支配に不満を持つパリ市民が暴動を起こし、ブルゴーニュ派軍をパリに受け入れ、アルマニャック伯を虐殺し、アルマニャック派をパリから追いやった。その後、ブルゴーニュ派のブルゴーニュ公ジャン1世(無怖公)がパリを制した。一方、アルマニャック派はフランス南部のブールジュでシャルル王太子(後のシャルル7世)を擁立し、抵抗を続けた。

・無怖公の暗殺/トロワ条約
1419年、王太子シャルルとブルゴーニュ公ジャン1世(無怖公)はイングランドに対して共闘すべく、和解の交渉を開始したが、交渉の場で王太子の支持者が無怖公を暗殺した為、息子のフィリップ3世(善良公)は、王太子シャルル(シャルル7世)と全面的に対立し、イングランドと同盟関係を結んだ。翌20年5月、フィリップ3世は王太子シャルルを排除し、シャルル6世の娘カトリーヌの夫・ヘンリー5世をフランスの王位継承者にするトロワ条約を結んだ。その後も、イングランド軍はフランス中央部のムランを攻略し終えると、翌21年2月にルーアンからヘンリー5世のイングランド軍はロンドンに帰還した。

・エディゲの死/ノガイ・オルダ
1419年、エディゲを盟主とするノガイ・オルダの勢力がヴォルガ川中流域のヴォルガ・ブルガール王国まで及ぶと、エディゲはトクタミシュの息子カーディル・ベルディによって殺害された。その後、ノガイ・オルダはエディゲの息子・ヌラディンを盟主に据えて、更にアラル海北岸からアゾフ海東岸まで勢力を伸ばして行った。

・フス戦争(1420-1434年)/十字軍の敗北
1419年、ボヘミア王ヴァーツラフ4世は、弟の皇帝ジギスムントに頼んでローマ教会と和解し、フス派の新市街参事会を解散させたが、再びフス派はプラハ市庁舎を襲撃する第一次プラハ窓外投擲事件を起こした為、ヴァーツラフ4世は急死する。その後、皇帝ジギスムントがボヘミア王に即位した為、フス派はこれに反抗してフス戦争を起こした。この為、皇帝ジギスムントは、ボヘミアに十字軍を派遣したが、翌20年にはフス派のヤン・ジシュカが率いる農民軍に十字軍は大敗した。逆にハンガリーまで進軍された。

・アゼルバイジャン遠征/ティムール朝
1420年、ティムール朝のシャー・ルフは、ヘラートに住み、各方面に派兵してティムール没後に失った領地の回復を試み、黒羊朝のアゼルバイジャンを奪回した。しかし、シャー・ルフが本拠地ホラーサーンに帰還すると、カラ・ユースフの遺児カラ・イスカンダルが王朝を再統一して勢力を回復し、アゼルバイジャンの支配をめぐってティムール朝と激しく戦う。

・ボージェの戦い/モー包囲戦
1421年2月、イングランド王ヘンリー5世は、弟のクラレンス公トマスをフランスに残し、イングランドに帰国した。その後も、クラレンス公のイングランド軍によってアンジューやメーヌ周辺は荒らされていた。やがて、フランス=スコットランド軍がイングランド軍の奇行を止めるべく、イングランド軍の野営地ボージェ村に進軍し、ボージェの戦いで、イングランド軍を破り、クラレンス公を戦死させた。
6月、ヘンリー5世はカレーに上陸し、パリの東にあるシャルル王太子側の都市モー包囲戦を繰り広げ、翌22年5月にモーを陥落させたが、8月にヘンリー5世は病死した。その2ヶ月後、フランス王シャルル6世も、また、この世を去った。

・コンスタンティノープル包囲戦/オスマンVSビザンツ
1421年、スルタンのメフメト1世が死去すると、ビザンツ皇帝マヌエル2世の長男・ヨハネスを中心とした対オスマン強硬派が台頭し、スルタンの息子ムラト2世に対抗してバヤズィト1世の息子と称するムスタファを擁立した。
翌22年、ムラト2世は偽ムスタファを打ち破り、スルタンに即位すると、ビザンツ帝国のコンスタンティノープル包囲戦を決行した。しかし、マヌエル2世の巧みな外交交渉によって、弟のキュチュク・ムスタファにオスマンの首都ブルサを包囲させ、ムラト2世軍を撤退させた。翌23年、テッサロニキとモレアス専制公領がオスマン軍の侵攻を受け、テッサロニキは陥落した為、マヌエル2世はオスマンとの休戦・和平交渉に奔走し、翌24年、オスマン帝国の臣従となる事で和平が成立した。

・イングランド=フランス二重王国の誕生
1422年8月、シャルル6世の娘キャサリンが生んだ幼子のヘンリー6世がフランス=イングランド王に即位し、叔父のベッドフォード公ジョンが摂政に成り、彼の弟グロスター公ハンフリーがイングランド国内の行政を執る護国卿に成った。翌23年、ベッドフォード公ジョンはブルゴーニュ派との同盟関係を強化する為、ブルゴーニュ公フィリップ3世の妹アンヌと結婚し、更にブルターニュ公ジャン5世をも、取り込んだ。

・フス派内部統一/英雄ジシュカの死
1423年、ヤン・ジシュカは、ターボル派を抜けてオレープ派を結成すると、強大な軍事力を背景として諸派(ターボル派アダム派穏健派など)を統率し始める。翌年には穏健派との戦いに勝利すると、全フス派の指導者に成った。その後、ジシュカはモラヴィア(チェコ)を経てハンガリー遠征の途中で病死すると、フス派のジシュカ軍はボヘミアに撤退した。

・クラヴァンの戦い/百年戦争
1423年、王太子シャルルは、本拠地ブールジュに軍を結集させ、スコットランドの援軍と共に、ブルゴーニュ公国遠征を決行し、セーヌ川支流のヨンヌ川沿いのクラヴァン付近で、ブルゴーニュ=イングランドの連合軍とクラヴァンの戦いを繰り広げ、王太子軍は大敗し、捕虜になったスコットランド兵は殺された。

・ヴェルヌイユの戦い/百年戦争
1424年、スコットランド人たちは、ル・マンのイヴリー城の救援の為、ブールジュのシャルル7世の下に集結したが、救援の途中で城が陥落したため、ヴェルヌイユ攻撃を決める。その後、ヴェルヌイユの戦いで、ベッドフォード公ジョンが率いるイングランド軍に敗北してしまう。その後、勝利したイングランド軍も、資金不足でロワール河畔への進軍が出来ず、孤立状態になった。一方、同盟者の善良公はフランドル政策に熱中し、アルマニャック派との戦いに関心が無くなった。

・ネーデルラントの紛争(1425年-1428年)
1424年10月、ジャクリーヌは、夫のグロスター公ハンフリーの力を借りてヨハン3世からネーデルラントの奪還を試み、グロスター公軍をカレーへ上陸させ、エノーを占領した。
翌年1月、バイエルン公ヨハン3世が暗殺されると、ネーデルラントは甥のブルゴーニュ公フィリップ3世が相続した。
4月、フィリップ3世はエノーに駐屯していたグロスター公軍を破り、ジャクリーヌを捉えると、グロスター公はイングランドに帰還し、12月には兄のベッドフォード公ジョンの反対を押し切って、再びネーデルラント攻撃するが、ブルゴーニュ軍に撃破された。28年、ローマ教皇マルティヌス5世によって、グロスター公と女伯ジャクリーヌの離婚が成立するまで続いた。

・ビザンツ帝国のアカイア併合
1425年、父マヌエルが死去し単独統治を開始したヨハネス8世は、モレアス専制公領に有能な弟コンスタンティノス11世を派遣し、領内の整備とアカイア公国の併合に乗り出した。

・アウシヒの戦い(ウースチー・ナド・ラベムの戦い )
1426年、フス派のヤン・ジシュカの死後、教皇マルティヌス5世は十字軍を編成し、ボソ・フィッツトゥームを指揮官にして、ジーギマンタス・カリブタイティスのフス派を殲滅するためにウースチー・ナド・ラベム遠征を決行したが、十字軍はフス派に敗北した。

・モンタルジの開放/フランスの内部抗争
1427年、イングランドとフランスのブルゴーニュ派は、シャルル7世のアルマニャック派に対抗する為、再度アングロ・ブルギニョン同盟を結び、モンタルジへ進軍し、モンタルジ包囲戦を開始したが、アルマニャック派のラ・イルジャン・ド・デュノワの両軍によって、イングランド軍の駐屯地メーヌで反乱を起こし、モンタルジを開放した。一方、シャルル7世のフランス軍は、ギーヌ伯ジョルジュリッシュモンが起こした内部抗争に巻き込まれ、麻痺状態に陥った。

・オルレアン包囲戦
1428年春、イングランド摂政のベッドフォード公ジョンはノルマンディーの南隣にあるメーヌ・アンジュー・トゥーレーヌへと進撃したが、やがて膠着状態に陥った。その後、第13代ウォリック伯リチャード・ド・ビーチャムや第4代ソールズベリー伯トマス・モンタキュートから突き上げられ、フランス中部のオルレアン攻撃を決断し、イングランド軍を南下させた。7月、ソールズベリー伯のイングランド軍はパリ南西部の田園地帯に侵攻を開始し、ランブイエおよびシャルトル周辺を手中に収め、8月にはロワール川方面を攻めを決行し、オルレアンの西側の田園地帯を占領した。10月、ソールズベリー伯軍はシャトーヌフ=シュル=ロワールを陥落させると、ブルゴーニュ派勢力はシュリー=シュル=ロワールを攻略すると、オルレアン包囲戦が開始された。一方、オルレアン城側ではジャン・ド・デュノワやラ・イル及びジャン・ポトン・ド・ザントライユらがイングランド軍を迎え撃つ為に、集結した。

・アカイア遠征/モレアス専制公
1428年、モレアス専制公セオドロス2世が修道院に入ると、コンスタンディノスと末弟ソマスが共同統治者になり、翌29年にはパトラを占領し、翌30年にはアカイア公国の全土を併合した。

・トゥーレル砦攻撃/オルレアン包囲戦の初期
1428年10月17日、イングランド軍はオルレアンのブールバール砲撃と、共にオルレアン包囲戦開始したが、一旦、トゥーレル砦に居るフランス軍によって退けられた。24日、トゥーレル砦を嵐が襲来し、フランス軍は離散した為、トゥーレル砦は陥落した。その後、援軍を引き連れたジャン・ド・ブザックが到着し、ソールズベリー伯のイングラン軍を撤退させた。その時、ソールズベリー伯は負傷して戦死した。
11月、ベッドフォード公は、新たにサフォーク伯ウィリアムを総司令官に任命し、オルレアン包囲戦を続けた。サフォーク伯はオルレアン市民を飢えさす為、11箇所に外塁を築き、補給路を断つと、オルレアンは窮地に陥った。

この頃、フランス側ではラ・トレモイユが実権を握り、リッシュモンは宮廷から排斥されていた。

・ニシンの戦い/オルレアンの危機
1429年、クレルモン伯(ブルボン公シャルル1世)は、フランス軍及びスコットランド軍をブロワに集結させ、オルレアン解放に向かった。その後、クレルモン伯はイングランドのジョン・ファストルフ包囲部隊へ、パリから補給部隊が派遣される事を聞きつけると、補給部隊襲撃を決めた。一方、オルレアンからジャン・ド・デュノワや、ラ・イル、及びジャン・ポトン・ド・ザントライユらが加わった。2月、ルヴレ村でニシンの戦いが開始され、イングランド軍の勝利に終わった。やがて、クレルモン伯は敗北の責任を感じてオルレアンを離脱し、オルレアン城内の士気は下がった。

・ジャルジョーの戦い/ジャンヌ・ダルク
1429年、ロワール川以北のフランス領地は、ブルゴーニュ派とイングランド軍に占領された。3月、王太子シャルルはシノンの仮王宮でジャンヌ・ダルクと面会し、オルレアン救出の命を出した。その後、ジャンヌ・ダルクはイングランド軍の砦を攻撃し、5月にはオルレアンを開放させた。6月、王太子はロワール渓谷の奪還を決めると、オルレアンの東に位置するジャルジョーに進軍し、ジャルジョーの戦いで、サフォーク伯ウィリアムが率いるイングランド軍を破った。この戦いで、ジャンヌ・ダルクの活躍は目ざましかった。その後も、フランス軍は続けざまにロワール川沿いのモン=シュル=ロワール、ボージャンシーといった諸都市を攻略してロワール地方の制圧に成功した。

・パテーの戦い/王太子シャルルの戴冠
1429年6月、ボージャンシーが陥落した後、イングランド軍の指揮官ジョン・タルボット男爵とファストルフは直ちに反撃したが、モン橋の戦いで、ジャンヌとリッシュモンのフランス軍に破れ、イル・ド・フランス方面へ撤退した。その後、パテーの町近郊でフランスの追跡軍に捕まり、パテーの戦いで、イングランド軍は壊滅させられた。7月、王太子シャルルはランス大聖堂で戴冠式を行い。フランス王シャルル7世に即位した。

・パリ包囲戦/百年戦争
1429年8月、フランス王シャルル7世はブルゴーニュ公フィリップ3世に和平交渉を持ちかけたが、ブルゴーニュ派はこれを拒んだ上、パリを守るイングランド軍に援軍を送った。その後、シャルル7世は、ジャンヌとアランソン公ジャン2世が主張した通り、パリ包囲戦を決行する為、パリに進軍した。そして、パリ近郊に迫った時、ベッドフォード公ジョンが率いるイングランド軍とフランス軍が対峙し、シャルル7世はパリ近郊のサン=ロッシュの丘に本陣を構えた。9月8日、ジャンヌらはサン=トノレ門を強襲し、パリ包囲戦が始まった。
しかし、ジャンヌが足に負傷したことで、フランス軍はパリ北側の郊外に位置するサン=ドニまで撤退した。


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