【社会福祉】社会的スティグマとジェンダーロールに関する個人的見解

なんだか、生きづらい世の中ですね。

しんどすぎて、たまにくじけそうになりますね。

生きづらさについて、社会的スティグマとジェンダーロールについて考えてみました。

世間に誤解されて孤立する依存症

近年、覚せい剤取締法違反で芸能人や官庁職員が逮捕されるニュースが相次いで報道されている。

ワイドショーなどで面白おかしく取り上げられ、刑務所から出てくる前に完治させよ、というような暴力的な議論が笑いを交えながら展開されていることに戦慄を感じざるを得ない。

サイモン・フレーザー大学のブルース・アレクサンダー博士による有名な「ラットパーク」の試験で明らかになっているように、ネズミをモルヒネに耽溺させるのは、モルヒネという依存性薬物の存在ではなく、孤独で、自由のきかない窮屈な環境、すなわち「孤立」である、ということである。

このことはそのまま人間にも当てはまる。

薬物を使ったことがある人が必ず薬物依存症になるのかといえば、実は必ずしもそうではない。

たとえば酒などは、日本において宗教的にも深く文化に関わっているため成人したらほぼ全員が口にする機会がある。その後習慣飲酒になるか機会飲酒になるかは個人により様々だが、少なくとも依存性のあるアルコールを摂取することによりすぐに依存症が発症するわけではない。

では何が依存症にさせるのか?といえば、先に挙げた社会的な疎外感や孤独感ではないだろうか。

「社会的スティグマ」という社会的に望ましくないレッテルは、依存症という課題に直結していると考えている。

社会的スティグマが依存症からの回復を妨げている

社会的スティグマの観点からこの日本社会の不自由さに目を向けてみたい。

薬物を使用して警察に逮捕されると、犯罪者という耐えがたいレッテルを貼られて刑務所に収容される。一度踏み外してしまえば、「受刑者」「前科者」のいうスティグマを抱えて生きる人生から逃れることはできない。

なぜなら、学校や社会で間違った依存症教育が行われ、「1回でも薬物を経験すると、薬物の快感が脳に刻印付けられ、脳がハイジャックされてしまい、もう正常な判断はできなくなる」と『ダメ絶対』な教え込まれてきたからである。

実際はそうではなく、社会的孤立感や生きづらさから依存性薬物に頼り、依存から抜けられなくなったのであって、根本原因は人と人との繋がりの病であるにも関わらず、社会的スティグマを抱えさせられた薬物依存症者は社会的にさらに孤立した立場に追い込まれるのである。

このため、専門家のなかでは、薬物依存症の患者数が減っているのに再犯率は増えている現状を、「社会的スティグマに対する恐れから重症にならなくては捕まらないほど使用状況が悪化しており、逮捕後の社会復帰が困難な状況から再び孤立し薬物に手を出してしまうからだ」とする見方もある。

すなわち、社会的スティグマを背負わせるような現在のマスコミの誤った報道や学校での間違った依存症の理解と教育、社会における一般市民の無理解・無関心が依存症の問題をより根深くしているのではないか、と私は考えているのである。

社会が作り出したもうひとつの苦しみ「ジェンダーロール」

次に、DVやハラスメントに代表されるジェンダーの問題、性別によって社会から期待されたり自ら表現する役割や行動様式、すなわちジェンダーロールの問題がある。現代社会においてSNSで多くの怨嗟の声が聞かれ、男性からも女性からも憎しみと苦しみが表出してきている。

性差における議論は生物学的見地からアイデンティティとしての見地まで様々な切り口がある。

「わからないから遠ざける」という自己防衛的無理解が互いの耳をふさいでいることが最も大きな原因のひとつである。

我々は女も男も違うからこそそれぞれに魅力的であり、等しく尊厳があると思う。そのことを忘れて、バイアスを通してその人を判断しようと焦り、互いの尊厳を傷つけることに繋がっている不幸な状況だと私は感じている。

たとえば女性側には、今まで議論ではなく暴力や圧力で男性側にそうした尊い見解の相違を検討されず踏みにじられてきた悲しい歴史がある。私たちはその歴史に学び、違う価値観や生態をもつ相手を敬い、相手の立場を想像する力を身につけなくてはならない。

逆も然りで、「日本男児」に代表されるような男性像に縛られて社会的に自由さを失っている男性の苦しみや歪みに対して男性は自身の歪みや見えない苦しみを自覚する必要があるし、女性ももっと理解を深めることができる。

互いを異質なものとして非難するばかりでは歩み寄りなど成立しない。生きづらさを取り払っていけば、互いに自分らしく幸せに生きていけるのではないだろうか。

孤独感と無理解に満ちた世の中だからこその社会福祉

人は誰でも間違いを犯す。

そして孤独感は耐えがたいものである。

何らかの生きづらさを抱えていても、正しさを押し付けられ、他人には相談できないような社会的閉塞感が充満している現代では、そのような窒息しそうな社会背景が、さらに依存症やジェンダーロールの問題が深刻化しているように感じる。

依存症において違反者を厳罰化しても根本的な解決にはならない。

むしろ、厳罰化することでますます重症者を増やし、回復しにくくすることに繋がる。それは、社会的な恨みとなり犯罪の温床にもなりかねない。

ポルトガルでは依存性薬物について合法ではないが、罰を与えないようにしている。薬物依存症に苦しむ人に社会のなかで居場所をつくったら、治療に繋がる人が増え、10代の子供達の薬物使用が減り、全体についても、薬物に関連する問題が減った。

日本がこれから、平和で多様性を尊重するダイバーシティとインクルージョンを実現する、立派な人権国家を目指すなら、まずは社会的スティグマを背負わせる前に正義を叩きつけるのではなく傾聴しともに生きる術を模索する社会福祉的関わりが重要であると考えている。

そうした意味で、社会福祉士の役割は依存症やジェンダーロールという「孤独」に起因した社会問題の解決に寄与できる可能性が小さくないと考えて、期待している。

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