「私の従軍記」 子供たちへ

平成元年父の誕生日に贈ってくれた本、応召されて帰還するまでの4年間の従軍記を今感謝を込めてブログに載せてみたいと思います

この冬を越すことができるのでしょうか?

2022-11-06 16:18:37 | Weblog
11月になりました。今年もあと1か月、月日が経つのは早いものです
ウクライナの人々はこの冬をどう越すのでしょうか?寒がりの私は考えるだけで寒くなってしまいます。
今から夏になればとつまらないことを考えてしまいます






愚かな戦争

2022-10-10 16:58:09 | Weblog
今日、クリミアとロシアを結ぶ橋が壊れました!いつまで戦争をするのですか?
人も物も破壊して人類は愚かなことをしています!
宇宙全体から考えたならちっぽけな地球で争ってどうなるのか、考えてください
親たちが戦争で死んだり、不明になったりで平和の有難さが何故わからないのですか、情けないですね

早く戦争をやめて!!

2022-05-25 18:06:21 | Weblog
久しぶりに投稿いたします。今の時代に戦争がまた勃発するなんて考えられませんでした
ロシアの国土は無傷、一方ウクライナは焦土と化し、国民は犠牲者が増え、戦火を逃れてあちこちに…
2回の大戦で勉強をしたはずですが…良いことは絶対ないと、全世界がコロナで苦しんでいるのに
それ以上のとんでもないことになって…一刻も早く戦いは止めないと犠牲者は増え続けます
テレビを見るのが辛いです


7回忌

2015-07-18 17:14:28 | Weblog
 台風一過の今日は天気も良く、何事も無かったかのように…
先月、6月14日、熊本で父の7回忌を済ませました。

戦前、戦中、戦後を生きて、年をとるにつれ、だんだん円く、優しい父に…
もう少し、聞いておきたいこともありましたが、手記を読んで
また、母の話を聞いて大変苦労してきたんだな~と思いました。

世の中、今、いろいろ騒がしくなりましたが、世界中が、飢餓や戦争の無い
お互いが、助け合って行けたら、本当にいいんですが…

誕生日が来ます…

2013-10-28 11:14:02 | Weblog
 今日はとても良い天気です
もうすぐ亡くなった父の誕生日が来ます。
今ごろになれば、70歳の誕生を前にして逆に父からプレゼントされた
この「私の従軍記」の本を読み返して、大変な時代だったと…
そしてこの本を残してくれてありがたく思っています。

ようやく朝晩涼しくなりました

2013-08-28 10:53:24 | Weblog
8月ももうすぐ終わりです。これで今年の戦争に関する話題はなくなりそうです。
でも、この大戦でお亡くなりになって、まだお遺骨が戦場に残っていらっしゃる方々を
一刻も早く探すのは国の責任ではないでしょうか。
来年のお盆までに何とか多くの方々の霊を慰めて貰いたいものです。

読み難くなってすみませんでした

2013-02-24 15:36:51 | Weblog
 寒い日が続いています。今日は高槻市の鵜殿の葦原焼きが午前中ありました。

早いものでこの本を送ってくれてから24年も経ちました。
今でも時々読み直しています。
私にとって一番の宝です

   
   

   

一生を終わりました

2009-07-10 10:12:53 | Weblog
長い間ご愛読くださいまして有難うございました。
今年、平成21年(2009)6月14日、永眠いたしました。
戦争と平和…あらためて考えさせられます。

終戦  平和祈念日

2007-08-15 09:50:22 | Weblog
このブログの主は大正4年生まれで91歳。行動も随分遅くなりましたが
どうにか夫婦2人で暮らしています。
赤紙1枚で激戦地へと行かされた人達は戦死しても遺骨も戻らない事も多く、
又、野ざらしで収集されていないのも現実です。
厚生労働省も速やかに故郷に返して欲しいと思います。心が痛みます。
思うに父は運が良かったと思いますが、運、不運で片付ける問題ではありません。
戦争を知っている人達がだんだん少なくなり風化する前に、
もう一度戦争と平和についてみんなが真剣に考える時が今ではないでしょうか。
                              子より


故郷へ その2(最終)

2006-10-26 18:53:46 | Weblog
 小学校の前を通り、印鑰(いんにゃく)神社の横を曲がった。
 「お陰様で無事に生きて帰ることが出来ました」とお礼を言わなければ ならないなと思ったが、
敗残の身がなんとなく恥ずかしく、又今日は荷物運びの人も連れているのだから、
次の日にしようと決めて頭だけ下げて通り過ぎた。
 心の中では、なるべく人に逢わないようにと考えながら歩いていたが、
幸いに昼過ぎだったから人通りはなく、花岡で宮崎末彦さん1人に会っただけで家に帰り着くことが出来た。
 チズエ(妹)の手紙どおり、前庭の松の木はなかった。そこら辺りにコスモスの花が10株ばかり美しく咲いていた。
 「ただいま」と言って、4年ぶりに我が家の土間に立った。荷物運びの人は表の上がりかまちにリュックを下ろして腰を掛けた。
私は上着の物入れ(ポケット)からお金を出して「ご苦労さん」と言って渡した。その人(関本さん)は黙って受け取ると帰って行った。
 炊事場の方からアヤ子が出てきた。私の顔を見て黙って立っていた。しばらくしてから
 「父ちゃんが帰ってきたよ」 と、居間の方に向かって叫んだ。和子が出てきた。和子は私の顔に見覚えがあったらしく、
懐かしそうに近寄ってきた。続いて2人の子供が出てきたが、何か腑に落ちないような表情をして、
板戸の影から覗くような仕草をした。
 最近、この時のことを泰子に聞いたら、
 「何処のおじさんだろうか?今度のおじさんはなかなか戻らっさん」と思ったと言う。何しろ初対面のお父さんだから無理もない。
 双子と言えばスマトラのタケゴンに居た時のこと、ここでは加給品としてバナナが上がってくることがあった。
どうしたものか、その中に2本がくっついた双子のものが混じっていたが、
何故か誰もそれを取りたがらなかった。私が
 「これも1本に計算するのか?」と聞くと
 「そうだ」と言うので私が貰ったことが2,3度あった。
 そのうち家から手紙が届いた。その中に家族の写真が同封されていたが、双子の女の子供が写っていた。これを見て、中西達が
 「やはり、双子のバナナを食えば双子が生まれるんですかね」と言ったので
 「馬鹿な、しかし、そうかなあ」と皆で大笑いしたことがあった。
 チズエも出てきて、アヤ子と2人で
 「復員船が入ったことは新聞で読んだが、今度の船だと今日頃、帰って来るのではないか」とも思っていたと言った。
 上がりかまちに腰を下ろして、巻き脚絆を取り、軍靴を脱いで上がり、座敷の仏壇の父に
 「只今帰りました」と手を合わせた。 そして昼飯。 それが済んでから、居間でリュックを解いて、レーションを開けて缶詰やら菓子、ビスケットやらを取り出して子供にやった。
和子はすぐ懐いたが、2人はなかなかそばに寄ってきてくれなかった。
 そのうち私が帰ったという話で近所の人達が次々と訪ねて来て、苦労を労らってくれ、私は「留守中一家の者が大変お世話になりました」と、お礼を言って持って来た煙草を全部分けてやった。
 明くる日、庭に干してある洗濯物を見たら、みんな妙に黒ずんでいた。
 「何か黒いみたいだなあ」と言ったら、
 「何しろ石鹸の配給が少ないからこうなるんで、これでもよその家より白い方だから」と教えてくれた。
 「そうか」私はリュックの底を探して、作業隊での配給の洗濯石鹸やら、作業場で拾った化粧石鹸やらを取り出して渡した。それから洗濯物は目に見えて白くなっていった。こんなに石鹸に不自由しているのだったら、もっと手に入れてくれば良かったと思ったものだ。
 次は県の援護局に行き、軍歴表の提出。日本銀行でシンガポールで英軍の作業をしたときの賃金の支払いを受けた。
この金も小額ではあったが、当座は非常に為になった。

                        完

   これで「私の従軍記」は写し終えました。長い間、有難うございました。