カトリック信仰のラフスケッチ

 

 ※以下の記事(3回に分けて掲載)は、20年以上前に自分のホームページのために下書きしたものです。東日本大震災とコロナ禍を経験していないので現時点と社会的背景は異なりますが、最低限度の修正をしてアップしました。「信仰」と「宗教」はほぼ同じ意味で使っています。

 

 

 1  人間と信仰(上)     

 

 現代の日本では、とくに20世紀後半から、「宗教」というと何かうさんくさいものに感じられる傾向が強くなってきました。そのきっかけは統一教会の「霊感商法」や、オウム真理教が引き起こした一連の事件の影響も大きいのではないかと思われます。それまでは、一般的に、安直な宗教批判は分別のある人のすることではないという認識がありました。これは、憲法で保障された「信教の自由」を傷つけないようにする配慮だったように思います。もちろん、オウム事件以後それが否定されているわけではありませんが、人々の心理に「宗教は怖い」というイメージが以前にも増して、色濃く刻まれてしまったようです。また「マインド・コントロール」という言葉がはやり、「信仰」もしょせん同じものだと考えられていることも否めません。以前は、人間の心の向上のため、人生を正しく生きるため、真の幸福を得るために必要とされた宗教(信仰)が、現在では人間の心を狂わせる危険なものだと考えられるようになってしまいました。

 

 歴史を振り返ってみるとキリスト教批判は、とくに中世以降から次第に強まり、近世の啓蒙主義において顕著となりました。その後カール・マルクスは、「宗教は阿片だ」という名言?を残しました。ニーチェも「神は死んだ」とキリスト教に反旗を翻しました。19世紀を代表する思想家だった彼らもキリスト教に批判的でした。しかし、現代では、かつてあったようなキリスト教と思想家との対決といった図式ではなく、それ以上に多くの一般市民が、ごく自然に宗教を嫌悪するようになってきているわけです。

 

 あるヨーロッパ人が日本を訪れたとき、カトリック信徒の日本人が「日本のカテドラルを案内しましょうか」と言ったところ、その人は唾棄すべきといった感じで断ったそうです。彼もカトリック信徒なのですが、世間を賑わせている聖職者のスキャンダルが原因で教会に愛想がつきてしまったらしいのです。21世紀になり、この聖職者のスキャンダルは世界中で大問題となり、カトリック教会の凋落を表す出来事となりました。それ以降、拙稿「教会の聖金曜日的状態」でもふれたように、世界各地で教会離れ、キリスト教離れが顕著になりました。「今こそ、神の家から裁き時が始まる時です」(1ペト4:17)という聖句が強く響いてきます。

 

 このような時代において、キリスト教にはいったい何の価値があると言えるのでしょうか。キリスト教はもはや現代には通用しない、消え去るべきものなのでしょうか。否定的な情報ばかりが横行する今、われわれ信徒でさえも弁解すべき言葉を失ってしまっているかのようです。

 

 しかし、時流がキリスト教に向いているから信仰を告白し、そうでなければ黙っているというのは、福音的ではありません。パウロの「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」(2テモテ4:2)に照らされて、自分なりの信仰表明をしてみようと考えました。100人いれば100通りの表明があることになり、そのような多種多様な信仰告白がなされるようになればいいと思っています。

 

 

◇人間にとって信仰は必要なものか

 

宗教の普遍性

 人類と宗教の関係は、かなり古くからあったようです。人類に文明というものが誕生する以前から、たとえば死者の埋葬に際して、宗教心の現れとでもいえる一定の儀式らしきものがありました。それほど昔にさか上らなくとも、40~50年くらい前までは、まだまだ宗教は、人々の心の中に生きていました。神棚や仏壇はたいていの家にあったようですし、それに付随した行事も季節ごとに行われていました。欧米では、日曜日の礼拝にほとんどの信徒が参加していたほどです。

 

 つまり、東西問わず、宗教が人々の心から消えていったのは、人類の歴史から見てもごく最近のことであるといえるのです。反対に、宗教を信じるということは、人間にとってそれほど不自然なことではないと言えます。それなのに、現在の日本のように多くの人が無宗教の立場をとっているのは、人間の精神構造が「進化」した証拠なのでしょうか。現代社会を一瞥すると、かえって人間の心はすさんでしまっているように思います。

 

 現代は希望のない時代だと言われています。今世紀になり年間2~3万人という、過去にはありえなかったほどの自殺者が出ています。他人を信頼することができず、多くの人が孤独を感じています。何を信頼して生きていけばいいのか、何を目的に生きていけばいいのか、と不安を感じている人は少なくないはずです。

 

 また、以前ならば、おそらく数か月は世間を賑わせていたような事件が、最近では全くめずらしくなくなってきています。覚醒剤や麻薬なども、よほど人生から外れた人でないと手を出さなかったものですが、今では一般市民の生活圏にまで及んでしまいました。児童買春や幼児虐待、家庭内暴力などはいうまでもありません。道徳教育も混乱し、「なぜ人を殺してはいけないか」という問いに、倫理学者が真剣に取り組まなければならないほどになりました。

 

 ほかにも、官僚を含めたエリートと言われる人たちの汚職や不祥事など、人心の荒廃から起こった事件は枚挙にいとまがありません。彼らがまともな宗教団体に属していたら、このような事件は起こらなかったなどと言うつもりはありませんが、彼らが何らかの確固たる人生の指針を持って生きていたら、そのような残念な結果にはならなかっただろうと思います。

 

 もちろん、そういう信念はキリスト教からのみ与えられるわけではありません。しかし、やはり人間には何らかの信念、価値基準といったものが必要なのではないでしょうか。ある種の希有な能力のある人ならば、一人でオリジナルな価値観を生み出すことが可能かもしれませんが、多くの人には困難なことです。その意味でも、先人たちが築き上げてきた信仰の道を学ぶことは無駄ではないと言えると思います。

 

 

信仰の必要性

 宗教は、人間をさまざまな悪徳から解放したり、道徳的な指針を与えたりするものですが、それだけではありません。元来、宗教や哲学というものは、病気、死、苦、老いなど、われわれ人間がどうすることもできない限界にぶつかったときの真摯な探求心から起こったともいえます。それは普遍的な問いです。誰も逃れることができないものです。その意味で、人間は誰でも宗教性を持っているといえます。そしてその探求は、善く生きることにつながります。なぜなら、そのような問いと向かい合うことによって、人間は「生きる意味」を見出してゆくからです。

 

 テレビの討論番組である人が、現世御利益を説く新興宗教の信者に対して「むしろ、苦しみにあったときに、それを乗り越える力がほしい」と言っていましたが、それは適切な指摘だと思います。現世でどんなに事業がうまくいっても、どんなに健康に恵まれても、人間は自己の限界に決して逆らうことはできないのです。健康であってもいつかは死を迎えるわけですし、幸福であった人が突然不運に見舞われることもあります。しかし、人間が自己の限界に気づき、それに真剣に取り組んだときに、はじめて真の解放、真の幸福が訪れるといえるのではないでしょうか。それは、この世のさまざまな苦しみや悲しみを乗り越える力になるはずです。われわれは、その解答をキリスト教に見出しているのです。(「中」に続く)