カトリック信仰のラフスケッチ

 

 

  1 人間と信仰(下) 

 

◇キリスト教信仰について

 

キリスト教を信じるとは

 いつだったか、ある新興宗教の信者の友人から「キリスト教をやったら、どういう風になるのか」と尋ねられたことがありました。何かいいことが起こるのか、ということのようです。キリスト教は基本的に現世御利益を説かないので※註、どう答えようか迷いましたが、とりあえず以下のように答えました。──何かの宗教を信じることは、一つの判断基準を持つことになるので、それまで漠然と見てきたものに対し、多様で深い理解ができるようになった。また、心の平安や希望、救いの実感など、内面的な充実感を得ることができた──と。相手は「観念的で漠然としているな」と、わかってくれませんでした。うまく答えられなかったことが悔やまれます。

 

 ただ、その答えは単純なものではないので、後日補足しました。──自分はキリスト教を信じるようになって世界観が変わった。しかし同時に、今まで大して気にも留めなかったことが気になるようになったり、自分の内にも嫌なものを見るようになったりすることはある。たとえば、キリスト教を信じる以前の自分にとって、世界は白黒で無臭の状態だと感じられたとすれば、キリスト教を信じるようになってからは、世界はカラーで匂いが感じられるようになった──というようなことを話しました。

 

 つまり、カラーで見えるようになって世界の美しさはわかるようになっても、今まで形がよくて気に入っていたものが、実はそれほどきれいではなかったり、あるいは反対に、小さいのであまり気にも留めていなかったものがとても美しかったりと、価値の変換が起こるわけです。また、形や大きさが良いと思っていたものが、実は悪臭を放つものであったというような、新しい発見もあります。

 

 そのような視点の変換は新鮮なものですが、今まで働いていなかった嗅覚によって「悪臭を感じる」という不快な要素も加わってくるのです。その悪臭は、自分にも当然ありえます。ですから信仰は、楽しく愉快な要素ばかりを人生にもたらすのではありません。われわれが克服しなければならない課題も示されるわけです。

 

 キリスト教は、立身出世に役立つからとか、そういう現世御利益的理由で信じるのではなく、それが真理であるがゆえに信じるのです。ここで、真理とは果たして認識できるのかといった議論には立ち入りませんが、キリスト教は「わたしは、道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)と言われるイエスに基礎を置きます。損得ぬきでイエスに従う決意が必要になります。イエスは、自分の弟子に次のように語っています。

 

 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思うものは、それを失うが、わたしのために命を失う者はそれを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」(マタイ16:24-26)。

 

 ※註 現実問題として、病気が治らないので藁をもすがる思いで教会を訪ね、信仰を持つようになり、さらに病気も癒されたということもあります。また、事業に失敗したり、家族が崩壊するという困難の中で信仰を求め、それらの問題が解決した、ということもあります。ただ、大抵のキリスト教は、そういったことを強調することはありません。

 

 

信仰とは、単なる弱さか

 キリスト教は“無知な一般大衆が盲信する弱者の教え”だという声があります。確かに、キリスト教は「人間は未完成であり、限界を持つ」と捉え、人間の弱さを認めることを前提にしています。しかし、同時にキリスト教徒は人生における「十字架」の存在を認めなければなりません。キリスト教を信じることで霊的な救いを得ても、富や権力に対して何の約束もされないばかりか、己の十字架を背負う覚悟を宣言しなければならないのです。

 

 人間は誰でも自分の足りない点や弱さは見たくないものです。それを直視することは勇気です。そう考えれば、キリスト教徒は強者ではないにしても、勇気を持たなければならないのです。神の光に照らされて自分自身を率直に振り返ることが必要となります。信仰的に言えば、自分が原罪を有する罪びとだと認識しなければなりません。それを認めるところから、キリスト教的生活は始まっていくのです。

 自分の欠点や足りなさを認めることによって、神の働きによりそれが修正されていくわけですが、これはキリスト教の救いの一側面です。

 

 信仰面においては強さも存在します。歴史に残る聖人たちは、人間の生き方として非常な強さを見せました。しかしそれは、究極的に神の恵みによるものでした。キリスト教ではそのように理解します。聖パウロは、神の恵みは「弱さの中でこそ十分に発揮される」(2コリント12:9)と書いています。なぜなら人間の弱さの内にこそキリスト(救い主)の力が働くからです。弱さを認めることなしには、キリストは働かれません。自分の弱さを認めず、自力救済をしているかぎり、キリストを必要としていないことになるからです。自分で泳げる自信のある人が水の中で助けを呼ばないのと同じです。

 そして、キリスト教の救いとは、イエス・キリストとの人格的な交わりの中で生まれるので、キリストに救いを求めることから始まります。救い主が共にいてくれるためには、自分の弱さを知り、それを認めることが前提となるのです。

 

 歴史上、信仰によってイエスを救い主だと告白した人々は、命を賭けて真理を証しし、殉教することさえ厭いませんでした。古代のローマ帝国迫害下のキリスト教徒や、日本のキリシタンたちもそうでした。また、マザー・テレサに代表されるような奉仕活動に専念する人たちも数多く輩出しました。彼らの超人的な行動は、弱さの中で発揮された神の恵みの力だと言えるでしょう。だからこそパウロと共に「だから、キリストがわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(2コリント12:9)と言うことができるわけです。われわれもまた、自己の限界を認めながら、それぞれの道を神の恵みの内に歩んでいくのです。

 

 

宗教はかえって人間を悪くするのではないか

 一番初めにも書きましたが、20世紀の半ばを過ぎてから次第に人々は宗教に対して非常に厳しい見方をするようになりました。カルト教団が巻き起こす事件の数々や、既成宗教の堕落などが目に余るようになり、人々の宗教観が大きく変わってしまったからです。多くの善意の人が「宗教は危険だ。そんなものを信じない方が良い」と考えています。歴史を見ても、宗教戦争、魔女狩り、少数民族の支配などのマイナスの側面ばかり強調されるので「これならキリスト教などない方がかえって良かったのではないか」という印象を持っているのでしょう。

 

 しかしこれでは、選挙権を放棄している人が、「政治があるから戦争がある、党派抗争や金権政治が生まれる。政治などない方がいい」と言うのと同じで、消極的な生き方を肯定することになってしまいます。つまり、良い政治が可能であることを否定してしまうことになるのです。少なくとも、政治に参加する人は、現実の政治が多くの問題を抱えているからこそ、少しでも社会を良くしようとしているに違いありません。

 

 政治と宗教では次元が異なりますが、形だけの信徒でなければ、宗教を信じることによって、少しでも良い人間となろうとしています。一人ひとりは非力ですが、世の中に一人でも多くのガンジーやマザー・テレサ、キング牧師のような人が輩出すれば、世界は必ず変わるのではないでしょうか。少なくとも自分自身の人生に対して傍観者となるような生き方を選択してはいません。キリスト教は、それを信じたら自動的に人間が完成されると言うのではなく、完成に至る道が指し示されるのです。

 

 過去の歴史において、キリスト教の良さが現れたことも幾度となくありましたが、本来の教えを逸脱してしまうこともありました。しかしキリスト教徒は、今一度魔女狩りを行おうとか、十字軍を興そうとか考えているわけではありませんし、人類の歩みと同じように、過去から学びながら進んでいっています。

 

 もしも、キリスト教を名乗る教派の教えを信じることによって、その人が本来の人間性を失ってしまうようであれば、その教派は本当のキリスト教とは言えませんし、何らかの欠陥がそこにあるに違いありません。そのような場合は、批判されてしかるべきと思いますし、間違いは改めなくてはならないでしょう。

 何よりも、一人の人間として、キリストに従って生きるということにキリスト教の信仰は成立しているので、常にこの原点に立ち返るべきだと思います。

 

 

宗教は怖いものか

 宗教が、本来の人間性を超えた「何か」を人間に与えるのは、確かです。先にも挙げた例ですが、古代ローマ帝国迫害下のキリスト教徒たちや、日本のキリシタンたちは、信仰を捨てるよりは拷問による死を選びました。これは、通常の人間の選択からはむしろ逆です。死んだら元も子もないのですから、命より大事なものはありません。この選択は、無宗教の人には奇異に映るでしょうし、権力者側には得体の知れない感じを与えたことでしょう。つまり、彼らがこの世の尺度を超えた「何か」を基準に生きていることを感じさせるからです。そうだからこそ、よく聞かれる「宗教は怖い」という反応も生じてくるわけです。

 

 迫害による殉教だけでなく、異国の地で現地の人を助けるために自分の人生を捧げる多くのシスターたちの選択も、いわば時間をかけた殉教といえるでしょう。このような行動は、その「何か」がなければ不可能です。このような生き方は、人間の通常の本性を超えたものですが、しかし日常的な人間性の在り方を超えているがゆえに、かえって人間性の最高の状態を示していると言えるのではないでしょうか。これを恐いとか、あるいは魅力的に思うかは各人の判断だと思います。

 

 また、宗教団体の組織力を恐れる人もいるかもしれません。しかし、現代のキリスト教に限って考えれば、カルト教団のような暴走をしたり、非人道的な命令が下るなどということはあり得ないでしょう。カトリック教会を例にとっても、バチカンから教皇が出す指導的な文書(回勅、書簡など)は、信仰的な分野における教導でしかありません。

 

 

現代社会における信仰の意味は・・・

 これまで日本では、多くの人が会社組織を生きるための最高の権威として位置づけていました。バブルの崩壊以来変化してきたようですが、戦後の日本では「会社教」とでもいえるほど、それに信頼していました。21世紀に入り、仕事中心の生き方が疑問視され始めました。自分とは何か、自分は何をすべきなのか等々、自分自身に問いかけることが必要だと感じられるようになったのではないかと思われます。やはり、物質中心主義、消費主義の影響下の人生観には限界があるのではないでしょうか。

 

 それでも多くの人は「キリスト教を信じたからといって、経済的に救われるわけではない」と思うかもしれません。確かにその通りですし、キリスト教は、日本人の生活環境が変わり、欧米並みにバカンスを楽しめるようになれば、すべての問題が解決すると考えているのではありません。また、社会変革を促しているのでもありません。ただ、永遠という観点から生きる意味を見出して日常の苦痛に耐えるのと、そうでないのとでは雲泥の差があるのではないかと問いかけているのです。信仰とは、現実逃避ではありません。現実に深く沈潜しながら、消えることのない希望を持ちつつ生きることです。それは、信仰が滅びるものに期待をかけているのではなく、永遠なるもの、すなわち「神」に信頼しているからこそ可能なのです。

 

 蛇足ながら、「キリスト教は観念的な信仰であって、社会的には何も役に立たない」という誤解がありますが、そうではなく、ここでいう“希望を持って生きる”とはすべてを神頼みにして何もしないことではありません。多くのキリスト教徒が、信仰心から、あるいは人道的な見地から、社会的なさなざまな分野の運動で活躍しているのは周知のことです。

 

 

 また、幾度もふれましたが、キリスト教は、いわゆる現世御利益宗教とは異なります。キリスト教を信じたことによって人間の欲を満たせるわけではありませんし、またキリスト教は「不幸」や「因縁」を追い払うような呪術的なものを売りにしているわけでもありません。真理に基づいた魂の救いを一番大切なものだと考えています。

 

 さらに言えば、キリスト教を信じることで、その人から自動的にすべての苦しみが消え去るわけでもありません。ただ、苦しみの意味を最も信頼する存在である「神」に問いかけます。つまり祈りです。人間は、祈ることによって、魂の深みにおいて支えらえ、覚悟と希望を保つことができるのです。聖書には「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(1コリント10:13)と書かれています。イエスは神を「父」として語り、その神に信頼するように語っています(マタイ6:25-34)。

 

 また、旧約聖書の「詩編」には、神に対するイスラエルの民の「嘆き」が多く歌われていますが、彼らが神に嘆くことができるのは、神に対する信頼があるからです。神は、人間の嘆きを受け止めてくれる近しい存在として語られています。

  「わたしの神よ、わたしの神よ。なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きの言葉も聞いてくださらないのか。わたしの神よ。昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない」(詩編22:2-3)。

 

 日本人の感覚では、神さまに文句を言っているようで不敬な感じがするかもしれませんが、詩編ではこの嘆きは、賛美に変わります。「だが、あなたは聖所にいまし、イスラエルの賛美を受ける方」(詩編22:4)というように。もし、神が存在し、その究極的な存在が身近なものとなれば、生き方に「賛美」が加わります。この「賛美」とは神に対する賛美ですが、それは生きる希望から出てくるものです。この詩編を書いた人は、本当にそういう信仰を持っていたはずです。彼のように、希望を見失った現代社会において「嘆き」の中からでも「賛美」が出てくるような、そんな生き方ができれば・・・と思います。

 

 

終わりに

 キリスト教になじみのない方には、わかりにくかったかもしれません。説明不足の点が多かったのは否めませんが、ご指摘を受けながら修正していきたいと思います。なにより自分の未熟さを痛感します。また、「永遠のいのち」のような究極的な救いについては、別の機会でふれる予定です。

 キリスト教を前提にしているため、説明なしに「神」が登場してしまうので、具体的なイメージがつかめなかったかもしれません。そこで次回は、キリスト教の言う「神」とは何なのかについてふれてみたいと思います。

 

------------------------------------------------

 この「下」は、かつて書いた下書きの時と社会情勢が大きく異なってしまったため、かなりの文章を差し替えました。しっくりしなくなってしまったかもしれません。今後も読み返しながら、修正していくつもりです。