2019/9/24(火) 晴
台風の被害に遭われた方には、お見舞い申し上げます。
台風17号は九州北部を防風圏内に巻き込みながら通過していった。
かなりの強風に怖い思いをしたが、幸いかな我が家に被害は無かった。
そこで、台風一過の青空のもとポタリングに出た。
目的地は、前回目的地にしようと考えていた山鹿市以遠の豊前街道とする。
山鹿市以遠の豊前街道は、和水町、南関町を通り筑後の国(福岡県)に繋がる。
今日は、そのうちの山鹿市鍋田~和水町平野まで行った。
熊鹿ロードを北へ走る。稲穂も頭を垂れ、例年の如く真っ赤な彼岸花(写真1参照)が咲いている。
一ツ木辺りでは、ホシアサガオ(写真2参照)も咲いている。
自宅出発から約2時間、山鹿市鍋田の熊鹿ロード終点(写真3参照)に着いた。
豊前街道は、鍋田横穴群の前を市立博物館方向に上がる(写真4参照)
博物館入り口手前の追分を左方向に下る(写真5参照)
下り坂の途中に「七里木跡」の標柱(写真6参照)が倒れていた。
根元が腐食し、台風で倒れたようだ。
それにしても新町1丁目御門から28kmとは、熊鹿ロード34kmと比較すると、曲がっているようだが最短コースを選択していることになる。
国道443を横断し車坂の入り口の景観(写真7参照)
上り坂の途中に「政府軍台場跡」の標柱(写真8参照)がある。
坂を上がり切ると畑地が広がる(写真9参照)
群境碑の手前に和水町の「西南戦争山鹿口の戦い」の説明板(写真10参照)がある。
江戸時代細川藩が栽培を奨励した櫨は、大木(写真11参照)になっている。
山鹿・玉名群境の碑(写真12参照)
再度和水町の説明板(写真13参照)がある。
藩政時代の櫨並木(写真14参照)が残っている。
山鹿には精蝋所があったという。
「西南の役薩軍の墓」の標柱(写真15参照)がある。が、墓所は見つけられなかった。
「豊前街道永ノ原」の碑(写真16参照)。関西三加和会とある。
豊前街道腹切坂の下り入り口(写真17参照)
復元された道でよく整備されている。
腹切坂の説明板(写真18参照)
腹切坂途中を振り返って(写真19参照)
腹切坂上り入り口(写真20参照)
豊前街道概略図と主な地名の由緒の説明板(写真21参照)がある。
熊本県指定史跡下岩官軍墓地(写真22参照)
説明板(写真23参照)では、134基の墓碑があるという。
光行寺入り口(写真24参照)
大きな山門(写真25参照)
由緒書(写真26参照)では、室町末期天門7年の創建という。元は禅宗であったが、細川藩時代に沢村大学の知行地ということで真宗の寺になったとある。
八里木跡とヒジ曲り上り口(写真27参照)
八里木跡とヒジ曲りの説明板(写真28参照)
少し上った所で肘曲がりのように右に曲がり、また少し進んで左に曲がる(写真29参照)。
平野に下った所に豊前街道説明板(写真30参照)があった。
この先で道を見失い、国道443に出てしまった。時間も午後2時近いので、本日はここまでとし、南関町「農家直売所やさい畑」で弁当を買い昼食とし、帰路に就く。
今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)45km→南関町農家直売所やさい畑35km→熊本(自宅)
所要時間8時間(実6.5時間) 総計80km 走行累計29,656km
自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。
コメント一覧
Trip-Partner スカウトチーム
最新の画像もっと見る
最近の「肥後国近世史跡文化財探訪記1」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
- 熊本から山と自転車のブログ索引(24)
- 残しておきたい自転車日記(93)
- トレッキング・ウォーキング記(69)
- 日帰り登山・ハイキング日記(58)
- 公園・歴史公園・資料館・博物館探訪記(62)
- 熊本の湧水探訪記(36)
- 熊本の名勝・天然記念物探訪記(56)
- 熊本の近代史跡・文化財探訪記(40)
- 西南戦争史跡探訪記(31)
- 肥後国(熊本)石橋探訪記(41)
- 放牛石仏(地蔵)探訪記(30)
- 肥後国六地蔵探訪記(49)
- 肥後国近世史跡文化財探訪記1(48)
- 肥後国近世史跡文化財探訪記2(42)
- 肥後国中世城跡探訪記(27)
- 肥後国中世史跡・文化財探訪記(58)
- 山鹿・菊池・合志三十三観音霊場巡礼記(28)
- 肥後国神社・仏閣探訪記(97)
- 肥後国古代史跡・文化財探訪記(31)
- 肥後国古墳探訪記(144)
- 肥後国古代遺跡・貝塚探訪記(19)
バックナンバー
人気記事