大和徒然草子

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キリスト教伝道者となった真珠湾攻撃総隊長、淵田美津雄(3)

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皆さんこんにちは。

真珠湾攻撃隊の総隊長、淵田美津雄をご紹介しています。

 

日中戦争が泥沼化する中、中国、東南アジアへの日本軍の進出をめぐり、日米は一触即発の緊張関係となっていました。 

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1941(昭和16)年11月26日、給油艦6隻を含め30隻を超える大艦隊が択捉島単冠(ひとかっぷ)湾を出航。

一路真珠湾を目指します。

 

トラ・トラ・トラ

現地時間の12月5日、極秘裏に択捉島を発した第一航空艦隊は、アメリカの哨戒網や民間商船に発見されることなく、ハワイの北700浬に到達しました。

この時点で、ハワイに配備された米軍哨戒機の哨戒圏内に入り、この地点で艦隊は最後の給油を行い、随行してきた補給艦隊と分離しました。

既に12月2日に、大本営から「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の暗号電文を受け取り、攻撃日が12月8日(現地時間12月7日)と決していました。

攻撃前日の現地時間12月6日には、山本五十六連合艦隊司令長官からの訓示が電報で伝えられ、艦隊の全部隊員に伝えられました。

「皇国の興廃繋(かか)りて此の征戦に在り、粉骨砕身各員その任を全うせよ」

 

真珠湾空襲を翌日に控え、淵田は何とかもう一日、発見されないようにと願っていましたが、ついに米軍やその他商船に発見されることなく、6日の夜は更けていきました。

そして迎えた現地時間12月7日、午前5時30分。

淵田は、赤城艦橋の作戦室に上り、南雲忠一隊司令長官に「長官、行ってまいります」と敬礼して告げました。

南雲は「おう」と応じてソファから立ち上がると、「たのむ」と一言発して、淵田の手を堅く握りました。

その後、南雲を先導しながらタラップを降り、搭乗員待機室に向かい、赤城艦長長谷川喜一大佐の「所定命令に従って出発」との命令一下、淵田以下、搭乗員たちは搭乗機に向かっていきました。

現地時間6時。まだ空は暗く、時化で大きく船が揺れる中、オアフ島の真北、230浬地点から淵田が率いる第一波攻撃隊183機は6隻の空母から続々と飛び立ちます。

15分で集合を完了、進撃隊形を整えたうえで、淵田はオアフ島に針路を向けました。

淵田の搭乗する総指揮官機を先頭に、高度3000mで攻撃隊は雲上飛行します。

総指揮官機は三座式で、淵田は中央の偵察席に座乗して全体指揮とナビゲートを担当していました。

6時30分となり、日の出を迎え、東の空から大きな太陽がのぞいてきます。

北風が強く、追い風となるため、予定より真珠湾到着が早まりそうだと考えた淵田ですが、雲が厚くて海面が見えず、偏流を測定しづらいため、総指揮官機にだけ据え付けられたアメリカ製のラジオ方位探知機「クルシー」を淵田は使ってみることにしました。

レシーバーを耳にして、スイッチを入れ、ダイヤルを回すと、レシーバーから聞こえてきたのは軽快なジャズのリズム。ホノルル放送の電波でした。

 

傍受した電波から発信源の方位を探り、針路を修正できたものの、眼下に広がる分厚い雲に、淵田は不安を感じます。

レーダーなどないこの時代、雲で地表が見えない中の空襲は非常に困難なものでした。

そんな中、クルシーのレシーバーから聞こえてきたのは、ホノルル放送の天気予報、なんと航空気象が流れてきたのです。

オアフ島は半晴。山に雲はかかっているが雲の高さは1000m。視界は良好とのこと。

このような偶然があるものか、最も欲しい情報が最も欲しい時機に得られた淵田は、「ついてるな」と思うとともに、空襲の成功を確信しました。

 

やがて雲の切れ間から、海岸線の波打ち際が淵田の視界に入ってきました。

航空図から、オアフ島北端のカフク岬と判断した淵田は、海岸線に沿って島の西側を進むよう、操縦席の松崎大尉に指示します。

いよいよオアフ島に到達し、「展開下令」の時機を迎えました。

目的地まで、各攻撃機は一つの集団となって編隊飛行しますが、突撃態勢に入るときには爆撃機雷撃機といった各隊によって攻撃方法が違うために、個別に展開していくことになり、この指示が展開下令となります。

この展開下令のとき、「奇襲」とするか「強襲」とするか、淵田が判断することになっていました。

敵に発見されていないと判断すれば「奇襲」、敵が迎撃してくると見れば「強襲」です。

海岸線しか見えない状況ですが、雲間から迎撃機の姿は確認できませんでした。

奇襲で行けそうだ。

そう判断した淵田は、風防を開いて信号拳銃を下方に1回発射しました。

「奇襲」を示す展開下令でした。

時に7時40分。淵田の展開下令に従って、各隊はそれぞれの突撃態勢に入っていきます。

 

淵田の眼下についに真珠湾が見えてきました。

双眼鏡で注視し、停泊する軍艦を追います。

一つ、二つと数え、予想通り8隻の戦艦を確認した淵田は、時計を見ました。

7時48分。攻撃予定時刻は8時でした。

淵田は後ろに座る電信員の水木兵曹に振り返って告げました。

「水木兵曹。総飛行機あてに発信、全軍突撃せよ」

淵田の指示に、水木は電鍵を叩き、突撃を示す「トトト」を全攻撃機に向けて連送しました。

時に現地時間12月7日午前7時49分。

4年にわたって繰り広げられた凄惨な戦いの幕が開いた瞬間でした。

 

全軍突撃を下令した後、淵田は直率する水平爆撃隊を誘導して、バーバース岬に回りました。

バーバースには米軍の航空基地がありましたが、飛行機は1機も確認できません。

また、真珠湾の方向からも空中戦闘や、対空砲火も見えません。

どうやら奇襲は成功したらしい。

まだ真珠湾で実際の攻撃は開始されていませんでしたが、真珠湾の奇襲攻撃成功とともに太平洋上に展開する日本の陸海軍諸隊が一斉に行動を開始することになっていました。

奇襲にさえ成功すれば、戦果を挙げる確信があった淵田は、奇襲成功の報告をいち早く太平洋でその報を待つ友軍に伝えようと考え、再び電信員の水木に告げました。

 

「水木兵曹、甲種電波で発信、我奇襲に成功せり」

 

待ってましたとばかりに、水木が電鍵を叩き、奇襲成功を示す「トラ」連送、「トラ・トラ・トラ」が淵田の搭乗する総指揮官機から発信されました。

時に7時53分。この「トラ」連送は、赤城の中継を待たず、なんと東京の大本営、広島湾に停泊する連合艦隊旗艦長門でも直接受信されました。

その報は瞬く間に太平洋に展開する日本陸海軍に伝えられ、 太平洋戦争緒戦における日本の電撃戦が開始されることになったのです。

 

真珠湾攻撃

 

さて、奇襲成功の一報を打電した淵田でしたが、真珠湾空襲の目的であるアメリカ太平洋艦隊の撃滅は、まだこれからという状況です。

淵田は双眼鏡を手にして座席に立ち、四方を俯瞰しつつ戦闘指導に乗り出しました。

まず、敵航空基地への攻撃を担当する翔鶴隊の降下爆撃機が、真珠湾の東にあるヒッカム飛行場、真珠湾内に浮かぶフォード島の飛行場を、瑞鶴隊の降下爆撃機真珠湾北西のホイラー飛行場を爆撃しました。

爆撃の黒煙が上がる中、村田少佐率いる雷撃隊が停泊中のアメリカ太平洋艦隊に、雷撃を開始。村田が放った初弾の魚雷が戦艦ウェストバージニアに命中して最初の水柱を上げたのは午前7時57分のことでした。

その後も次々と雷撃機が魚雷をアメリカ太平洋艦隊の主力戦艦群に命中させ、真珠湾にいくつもの水柱が上がるのを淵田は確認しました。

当初作戦通りに事が進み、一つも修正を命じる部分がないことに満足した淵田でしたが、いよいよ自身が直率する水平爆撃隊の出番となります。

目標は真珠湾中央に浮かぶフォード島東側に2列で停泊している戦艦群のうち、魚雷の届かない 内側の戦艦群でした。

「水木兵曹、水平爆撃隊へ、ツ連送」

ツ連送は各攻撃隊への突撃下令です。

5機編成の10個中隊から成る水平爆撃隊は、単縦陣となって真珠湾へ針路をとりました。

ここで中隊の先頭を爆撃嚮導機に譲り、淵田が所属する第一中隊は、爆撃高度3000mで真珠湾に突入しました。

 

真珠湾に入るや、猛烈な対空砲火が閃きました。

奇襲攻撃開始からわずか5分。

休日の朝、完全に不意を衝かれた形のアメリカでしたが、その反撃の素早さに淵田は、アメリカも用意周到な臨戦態勢にあったと感じました。

激しい対空砲火に淵田は「これはやられるわい」と思い、首をすくめていましたが、砲弾が炸裂する中、総指揮官機がぐらりと揺れます。

弾片が命中して、操縦索が損傷し、切れかけていました。

淵田は操縦席の松崎大尉に、操縦索が切れかけているから、急激な操作は控えるように指示しました。

いよいよ攻撃目標の戦艦ネバダを目前としましたが、先頭の嚮導機は断雲に遮られて照準を合わせられず、爆弾を投下できませんでした。やり直しです。

再びあの弾幕をくぐり抜けなきゃならんのかと、内心やれやれといった淵田でしたが、せっかく真珠湾まで運んだ爆弾を、当たらないのをわかって落とすわけにはいきません。

再度、爆撃コースに入ろうと、淵田らの第一中隊が大きく右旋回する中、後続の空母加賀所属の第二中隊が、戦艦アリゾナに向けて爆弾を投下し、水平爆撃の口火を切りました。

この攻撃で巨大な爆発が発生したのを、機上で淵田は確認します。

真っ赤な炎と黒煙が上空500mまで立ち昇っていました。

淵田は火薬庫へ誘爆したと直感しましたが、はたして第二中隊が放った800キロ徹甲爆弾がアリゾナの二番砲塔横を貫通し、前部主砲弾火薬庫に誘爆して大爆発を起こしたのです。

アリゾナ真珠湾空襲で最大の犠牲者1102名とともに爆沈し、現在はアリゾナ記念館の下に静かにその姿を横たえています。

 

戦闘空域一帯に黒煙が立ち込める中、淵田は双眼鏡で敵戦艦の状況を偵察しました。

北から、一番北のネバダは火災を起こしているが、出動の気配あり。二番目のアリゾナは、大爆発を起こして爆沈し、三番目外側のウェストバージニア、内側のテネシーは大火災を起こしている。四番目外側のオクラホマは魚雷攻撃を受けて転覆していたが、内側のメリーランドは健在の様子。

淵田は標的をメリーランドに定め、第一中隊はメリーランドを爆撃、1発が命中しましたが、致命傷とはならず、被害が軽微だったメリーランドの乗員は隣で転覆していたオクラホマの救出作業に努めました。

 

帰還

 

午前8時54分、第一波攻撃が終了を迎える中、島崎重和少佐率いる第2波攻撃隊が、真珠湾への攻撃を開始しました。

淵田は第一波攻撃隊の各機を母艦へ帰投させるとともに、自身はそのまま真珠湾上空にとどまり、戦闘指導と戦果偵察を続行しました。

真珠湾上空に3時間余りとどまり、その間、敵航空機による迎撃はついに1度もなく、航空基地の爆撃で、敵の航空兵力は壊滅したと淵田は判断しました。

敵艦船の損害については、そもそも浅い真珠湾では、船は完全に沈み切らないので、沈没したのか大破しているのかの区別が判然としませんでした。

午前10時半、戦闘が収束し、次の第2次攻撃の目標を見定めた淵田は母艦に帰投することを決め、操縦席の松崎大尉に引き上げを命じます。

この時、黎明の赤城発艦からすでに4時間半。

淵田の搭乗する九七式艦上攻撃機の航続時間は5時間で、常識的には燃料が足りませんが、淵田は「何とかたどり着ける」と楽観視していました。

経験上、性能には「遊び」(余裕)があるという肌感覚からの楽観かとは思いますが、高級将校の判断としてはいささか軽率にも見えます。

 

淵田は戦場に残った友軍機と合流しつつ、オアフ島の北190浬まで南下していた母艦赤城へ無事到着を果たしました。

淵田の期待を点検した整備士は、燃料がほぼ空だったことに顔を青くしたのでしょう。

「総隊長、燃料はかっきりでした。もう少し早く帰ってもらわんと、危ないですよ」

と、淵田に言いましたが、淵田は「戦争だよ。燃料がなくたって飛ぶよ」と答え、整備員たちは首をすくめて呆れたようです。

 

 赤城に戻った淵田は、発着艦指揮所で帰還した各航空隊長から戦果の目撃情報をまとめていると、すぐに艦橋に上ってくるようにと伝えられました。

艦橋では艦隊司令の南雲が待っており、「戦果はどうだったか」といきなり尋ねました。

淵田としては詳細な戦果情報をまとめていたところでしたが、現状彼が知りうるところの戦果を南雲に伝えました。

戦艦4隻の撃沈は確実で、戦艦4隻は大破。

敵航空機による迎撃はなく、航空基地への攻撃で壊滅したものとみられる。

奇襲攻撃開始から5分で対空迎撃してきたことから、敵も臨戦態勢にあると認められる。

南雲は淵田の報告を聞くと、

「隊長、ご苦労だった」

と、満足そうに、その労をねぎらいました。

 

報告を終え、淵田は発着艦指揮所に戻りましたが、飛行甲板では第2次攻撃に向けた準備が行われていました。

淵田も戦闘配食のぼた餅を頬張りながら、次の出撃に備えていました。

俄然、反復攻撃を加えてオイルタンクや修理工廠を破壊し、後々の戦局をさらに好転させようという考えです。

しかし、第一航空艦隊は、当初の予定通りもと来た航路を引き返し、帰還に決しました。

現場レベルでは、淵田同様、現在の勢いに乗って、反復攻撃を実施すべきという意見も多く、次席指揮官である三川軍一中将から再攻撃の具申も受けていたものの、当初からこの賭博的な真珠湾空襲に反対だった南雲は、当初の目標を達成した時点で、虎の子の艦隊を無傷で帰還させることを第一と考え、第2次攻撃を加えることなく、帰還の判断を下したのです。

主力戦艦の撃滅は達成したものの、空母を取り逃がしたことに不足を感じていた参謀の源田実大佐は、数日海域にとどまって、敵空母を撃滅する案を南雲に上申しましたが、南雲はこれを却下しています。

 

南雲の判断については、淵田自身非常に批判的で、後世「慎重すぎた」と批判する向きも少なからず見受けられますが、給油に不安があり、アメリカの反撃態勢も不透明な中では常識的な対応で、間違いとは決して言えないでしょう。

 

こうして太平洋戦争は始まりました。

真珠湾攻撃は、日本にとっては多くの幸運が重なってようやく成功した、のるかそるかの賭博的な作戦でした。

そのため、一部には、アメリカは真珠湾攻撃を予想していたというような説も見受けられます。

しかし、これは結果から後付けした説でとるに足らないかと思われます。

というのも、開戦直前の1941年11月26日、アメリカ海軍はアジア太平洋海域に展開する潜水艦部隊に、日米開戦となった後は、日本の船舶に対して「無制限潜水艦戦」の実行を極秘裏に指令していますが、この対象海域は、フィリピンを中心とする日本の南方作戦が行われた地域で、ハワイ近海は含まれていないのです。

戦前において既に日本の行動を警戒していたアメリカが、まったくハワイ近海を警戒した様子がなく、当記事の参考文献とした淵田美津雄自叙伝の編者で、アメリカ公文書館で米軍の無制限潜水艦戦に関する資料を発見した中田整一氏も「まさかハワイが奇襲されるとは予想していなかった傍証にはならないだろうか」と述べたとおり、当時の常識を踏まえても妥当性のある考えと思います。

というのも、当時、日米が戦うとなれば、米海軍が日本に向けて侵攻し、それを日本海軍が迎え撃つという図式は、日本側だけでなく、アメリカ側も想定しているいわば常識でした。

その常識は、アメリカの軍艦は、長駆日本まで攻め込めるよう、スピードよりも航続距離を第一に設計されており、対する日本は迅速な迎撃を可能とするよう、航続距離よりスピードを重視した設計で建造されていることからも明らかです。

 

日本海軍には、ハワイまで攻撃をかける航続能力がないという常識と、航空機は艦隊決戦の主力ではないというこの二つの常識を破ったことが、真珠湾攻撃とその戦果を拡大させた大きな要因であったといえるでしょう。

しかし、アメリカが開戦前に、戦時国際法違反である無制限潜水艦戦を日本に対し仕掛けようとしていたことは興味深い事実です。

戦後、日本への無制限潜水艦戦は国際法違反の真珠湾攻撃への報復というのが、米軍の公式な説明でしたが、結局それは後付けに過ぎなかったことがわかる事例と言えるでしょう。

勝つために手段を択ばない戦争のリアリズムを感じずにはいられませんが、これはその後の住宅地を狙った焼夷弾による日本各都市への空襲や、原爆投下といった行動につながっていくことになるのです。

 

 参考文献


淵田さん自身が最晩年に書かれた自伝です。太平洋戦争を海軍の中枢から見つめた氏ならではの新事実も含め、読みごたえのある一冊です。