大和徒然草子

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大和一向一揆。戦国大和の宗教戦争

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皆さんこんにちは。

 

一向一揆というと、加賀一向一揆長島一向一揆、歴史マニアの方なら三河一向一揆などが有名ですね。

興福寺の勢力が強かった奈良、大和国とは一見無縁のようにも見えますが、実は興福寺や筒井氏をはじめとする国人達と本願寺門徒たちの、激しい闘争が繰り返された地であることをご存じでしょうか。

大和における浄土真宗

さて、大和国といえば、古代からの仏教勢力が、精神世界だけでなく世俗権力としても大きな力を振るっていたことで知られます。

特に平安末期から中世にかけては、興福寺が事実上、大和の支配者として君臨していました。

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このような大和にあって、鎌倉新仏教の浄土真宗が入り込む余地などないかに見えますね。

浄土真宗の草創期である鎌倉時代、やはり奈良盆地での布教は難しかったようで、浄土真宗大和国内では 主に吉野以南の地で教線を伸ばしていきます。

 

大和における浄土真宗布教の嚆矢は、1208(承元2)年、親鸞の弟子、聖空が下市(現奈良県吉野郡下市町)の藤谷に念仏道場を興し、藤谷山雪ノ坊としたことに始まります。

その後本願寺三世で、大谷廟を寺院化して、事実上本願寺の開祖となった覚如の子、存覚後醍醐天皇の吉野遷幸にあたって下市に小道場を作りました。

のちに蓮如によって、吉野門徒の拠点となる願行寺がこの地に建立されることになりますが、鎌倉から南北朝期にかけての浄土真宗は、下市からさらに南の丹生村(現下市町南部)、西吉野(現奈良県五條市)へと教線を伸ばしていきました。

やはり、興福寺が睨みを利かせる奈良盆地、国中(くんなか)地方へは、この時点では入り込むことが難しかったようです。

 

大和国へ本格的に浄土真宗の教線が拡大するのは、先にも述べた本願寺八世の蓮如の時代です。

蓮如による浄土真宗の布教、すなわち本願寺の進出が、どうして大和国で可能となったかといえば、蓮如が時の興福寺の最高権力者である大乗院門跡経覚と、強力なコネクションが持っていたからでした。

経覚の母は大谷家出身で蓮如の父、存如と女兄弟であり、二人は従兄弟の関係にあったのです。

そのため、蓮如自身も経覚を師として、そのもとで学び二人の関係は非常に親密でした。

このコネクションを梃子として、蓮如は驚くべきことに奈良南郊に藤原道場という念仏道場を開きます。

興福寺のおひざ元で新興宗派が道場を開くのは、当時至難の業であったと思いますが、大乗院門跡経覚との太いパイプのなせる業といえるでしょう。

しかし経覚の死後、この藤原道場の記録はぱったりと途絶えます。

おそらく藤原道場を快く思わない興福寺によって消滅したとみられますが、経覚とのコネがあっての道場であったことが、非常によくわかる事例ですね。

 

さて、蓮如大和国で本格的に教線を拡大したのは、先にも述べた吉野地方でした。

1468(応仁2)年、かつて存覚が開いた下市の秋野の地に道場を興し、1493(明応2)年には娘婿の勝恵を住持に据え、1495(明応4)年には同地を願行寺として、吉野門徒の中心地とします。

※願行寺についての詳しい記事はこちら。

 

1476(文明8)年には上市(現奈良県吉野郡吉野町)の飯貝に本善寺を建立。末子の実孝をその住持としました。

※本善寺についての詳しい記事はこちら。

 

下市、上市ともに吉野川沿いの交通の要衝であり、当時市場町が形成されていましたが、願行寺と本善寺の登場により、後世両町は寺内町的な発展を遂げることになります。

 

大和天文一揆

興福寺の直接的な圧迫がなく、金峯山寺との緊張関係はあったものの、順調に教線を伸ばした吉野に対し、奈良盆地における本願寺の進出は、どのようなものだったのでしょう。

1456(長禄2)年に、興福寺のお膝下である奈良の南北郷本願寺門徒の取り締まりが行われ、1481(文明13)年にも、門徒取り締まりについて興福寺で集会が開かれたと記録されています。

興福寺による厳しい取り締まりが、奈良近郊で行われたことは、ゆっくりとですが着々と本願寺が、その教線を南都近辺に伸ばしていったことを裏付けるものでしょう。

消息がよくわからないものの、1495(明応4)年には、奈良西郊の平松(現奈良市平松)に平松道場が存在していたようで、じわじわと南都周辺にも本願寺の勢力が伸びていたと考えられます。

 

両者の緊張が少しずつ増していく中、本願寺門徒興福寺が、ついに正面から軍事衝突を起こすことになります。

1532(天文元)年7月に勃発した大和天文一揆です。

 

当時、畿内では天文の錯乱と呼ばれる管領細川晴元三好元長三好長慶の父)、畠山義堯の争いが勃発しており、細川晴元の求めに応じて、本願寺は仇敵である法華宗の強力な庇護者であった三好元長討伐を決め、畿内各地で一向一揆が蜂起します。

武家同士の争いに宗教勢力である本願寺が軍事介入したのです。

一揆軍は破竹の勢いで進撃、なんと三好元長と畠山義堯をともに自害に追い込みます。

この大勝利に、一揆内では法華宗以外の他派も排除すべきという声が沸き起こりました。

この時、その標的となったのが大和国だったのです。

天文の錯乱においては、筒井順興が畠山勢の援軍として、河内に遠征していたのですが、河内飯盛山城の戦いで一揆軍と交戦、筒井勢は散々に打ち破られて、大和に後退していました。

一揆軍は三好元長、畠山義堯を倒し、筒井勢を大和へ敗走させた余勢をかって、興福寺とそれに与する筒井、越智両党を滅ぼさんと、本願寺首脳部の静止命令も無視する形で大和へと乱入します。

それに呼応する形で、それまで興福寺に抑圧されてきた南都周辺の門徒たちも一斉に蜂起、 河内から乱入した一揆軍と合流して南都に進撃しました。

 

興福寺への復讐に燃える一揆軍は、同年7月から8月にかけて、興福寺塔頭寺院の多くを焼き払い、春日大社へも乱入して多くの社家の住居を破壊します。

宝蔵から宝物を略奪するだけでなく、猿沢池の鯉や春日大社の鹿も食い尽くされたと伝わるなど(おそらく兵糧にされちゃったんでしょうね)、一揆軍は南都で暴虐の限りを尽くし、8月の初めには、高畠を除いてほとんどの堂宇が焼き払われました。

 

南都奈良を破壊しつくしたあと、一揆軍は南下して、越智氏の守る高取城の攻撃を開始します。

大和全土で猛威を振るう一向一揆に対し、興福寺を中心として、ついに大和国人たちが立ち上がることになります。

普段は激しく対立するものの、外敵が現れると一味同心するのが大和国人たちの大きな特徴ですが、この時も普段は不倶戴天の敵である筒井と越智の両党が手を結びました。

堅牢な高取城の構えを頼りに、猛攻を仕掛ける一揆軍相手に越智軍が善戦する中、筒井順興、十市遠治が後詰に来援して一揆軍を挟撃したのです。

大和国人衆のこの攻勢に一揆軍は大敗。吉野へ落ち延びました。

8月下旬に力を盛り返した一揆軍は再び北上し、吐田郷(現奈良県御所市)で越智軍と交戦しますが、ここでも大敗。

大和国における一向一揆は、興福寺方の大和国人衆によって鎮圧されました。

 

一向一揆に参加した大和国内の郷は罰として焼き払われ、本願寺門徒は追放。

こうして、天文元年に勃発した興福寺一向一揆の対決は、興福寺の勝利に終わりました。

 

寺内町の興亡

天文大和一揆のあと、興福寺により奈良における本願寺の布教は永代禁制となりました。

しかし本願寺側も大和への進出をあきらめていません。

一揆の翌年1533(天文2)年には、早くも今井(現奈良県橿原市今井町)に道場が開かれるなど、中和以南を中心に教線伸長の動きを見せます。

この動きに、興福寺の側も弾圧を強め、今井道場は一乗院国民の越智氏によって幾度も破却されました。

 

その後も本願寺の大和進出の動きは、なかなか衰えず、1538(天文7)年、本願寺が幕府から税金や諸公事免許、徳政令の適用除外などの特権が認められると、本願寺の拠点構築は再び加速します。

石山本願寺に付与された特権が、本願寺傘下の寺院にも同様に認められるという考え(「大坂並」)から、いわゆる寺内町大和国にも形成されていくのです。

阿弥陀如来への「信仰」よりも、本願寺の持つ世俗的特権が、寺内町形成の大きな要因でした。

寺内町では幕府その他の公権力から租税されることなく、また、債務放棄を強制される徳政令も適用されないため、多くの中小の武士や商人たちが本願寺に与して集まり、大和でも同様の動きが巻き起こります。

本願寺寺内町の持つ経済的特権は、とうてい興福寺側や、興福寺に与する国人たちには受け入れがたいもので、本願寺興福寺の対立は一層激化します。

ここに至って両者の対立は、信仰の対立というより、より世俗的な利害の対立という側面が、非常に強くなっていました。

 

1546(天文15)年には御所に常徳寺が開山されるなど、大坂石山本願寺本願寺の一大拠点となっていた下市、上市といった吉野川流域を結ぶ中和地方を中心に、布教拠点が着々と築かれていきました。

1559(永禄2)年になると、松永久秀による大和侵攻が本格化し、国人層の力が弱体して興福寺の圧迫が弱まります。

国人たちによる本願寺道場の取り締まりが弱まる中、興福寺も国人たちに取り締まりを厳しく督促し、自領内の本願寺道場を取り締まろうとしない楢原氏に対して、興福寺は「名前を籠めて」呪詛するなどの懲罰を与えていますが、思うようには進まなかったようです。

ちなみに大和に侵攻した松永久秀も、興福寺の機嫌をとって支配を円滑に進めるためか、本願寺の道場の破却を実施しています。

久秀自身、熱心な法華宗徒でしたから、本願寺の道場は破却は望むところでもあったでしょう。

 

しかし、松永久秀の大和乱入によって、国人を通した興福寺の大和支配は確実に弱体化し、この間隙を縫うようにして、今井道場を中心に形成されたのが、大和最大の寺内町今井町でした。

今井町については以下の記事でもご紹介しています。

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興福寺の抑圧をようやく跳ね返しつつあった大和国本願寺門徒たちでしたが、彼らの前に立ちはだかったのが織田信長でした。

1570(元亀元)年、石山本願寺松永久秀三好三人衆らに呼応して反信長勢力として蜂起すると、今井町本願寺信長との対決姿勢を露にします。

1574(天正2)年4月、信長に服属した筒井順慶が、その命で河内へ出兵すると、大和国内の反筒井勢力である一部の国人たちが、蜂起しました。

これに呼応する形で今井町のリーダーであった今井(河瀬)兵部も蜂起し、本格的な戦いが今井町近辺で繰り広げられることとなります。

 

今井町には明智光秀とその与力となっていた筒井順慶が攻め込みました。

(「麒麟がくる」で描かれるかは微妙なところですね。※実際描かれませんでした。やっぱりねという感じですが残念、、)

今井町は激しく抵抗して、織田勢の攻撃を1年にわたって跳ね返し続けます。

しかし、他の本願寺の拠点が次々と陥落していく中、今井町も和睦の方向に傾き、1575(天正3)年11月、堺の豪商津田宗久の斡旋により、武装解除を条件に降伏しました。

この和睦で、いったん今井兵部は今井郷を退去し、今井御坊は閉鎖されたものの、今井郷には引き続き「萬事大坂同然」として、大坂と同じく自治的な検断権(警察、治安維持、刑事裁判権)が認められます。

この措置は、他の本願寺門徒寺内町に比べて、非常に寛大なものでしたが、経済的特権を担保する検断権さえ認めれば、今井郷は従属すると踏んだ信長の読みもあったのでしょう。

事実、以後、今井郷は織田、豊臣、徳川と三代にわたる天下人に、常に従うことになります。

 

今井を服従させた信長の矛先は、吉野に向かいました。

1578(天正6)年、信長の命を受けた筒井順慶は、下市の願行寺、飯貝の本善寺を焼き討ちにして、大和南部の本願寺勢力を完全に壊滅させました。

こうして大和国における一向一揆は終焉を迎えたのです。

しかし、一向一揆は止んだものの、今井をはじめとした本願寺寺内町は発展し、特に今井町に至っては、その後の豊臣、徳川の時代に大きく発展。

自治経済都市として飛躍していくことになりました。

 

一方、興福寺は、松永久秀筒井順慶を中心とした、武士による一円知行化が大和国内で進む中で、寺領をほぼ喪失。

豊臣秀長の大和入りで大和国の豊臣家直轄領化が進むと、わずか2万石あまりの寺領を残して零落します。

このため、興福寺門前町である南都・奈良の大和における経済的プレゼンスは大きく低下し、替わって今井町が勃興。

「大和の金は今井に七分」とうたわれたように、大和国の経済中心地は、江戸時代には今井に移り、奈良が再び大和地域の経済中心地の地位を取り戻すのは、明治以降となります。 

現在の奈良を形作る

興福寺大和国における本願寺勢力も、宗教権門としては、結局のところ織田信長をはじめとする武家によって抑え込まれてしまいました。

ともに武装解除され、お互い相争うことはできなくなったのです。

しかし、その後も両者は、それぞれに発展の道をたどります。

 

今井をはじめ、高田、田原本、下市といった寺内町は、経済都市として栄え、地域経済の中核都市となる道を歩み、現在の中南和地域各市街のルーツとなりました。

 

一方、興福寺などの伝統仏教勢力は、多くの寺領失い、檀家もいなかったことから、広く全国から参拝者を呼び集めるよう「名所」化への道を歩みます。

南都の興福寺東大寺斑鳩法隆寺長谷寺、吉野金峯山寺が、観光名所として全国から一般庶民の参拝者を集めるようになるのは、江戸期以降の現象です。

その背景には、各寺院がかつてのように寺領からの収入だけでは、経営がなりたたなくなった状況が、大きく影響していたのです。

そして、このような伝統寺院の動きは、そのまま現在の観光県、奈良につながりました。

 

このように、戦国大和を二分した興福寺をはじめとした伝統仏教勢力と本願寺勢力は、それぞれに現在の奈良県の姿を形作る、大事な要素となったのです。