身の回りの動物たち | 記憶の欠片(ピース)

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病気がちで、甲斐性のないおっさんのブログ。
小説・ショートショートを書いていましたが、気力が失せたため、思い付きでいろんなことを書いています。

わたしの住んでいる団地は中央に公園があり、周辺にもちょっとした林と公園がポツポツと点在している。その上に農家もあって、少し行けばけっこう大きな古い墓地もある。横浜というと日本有数の大都市の一つなのだが、こうしてみると中心地から外れればたいした田舎だと思わされる。

 

この辺りでは「地域猫」の制度が施されていて、野良猫は捕獲されて不妊の処置が施され、また同じ地域に放たれる。

ゴミをあさったりするだろうけれど、これ以上は猫の数は増えないと云うことで地域住民と折り合いを付けているわけだ。まあ、猫と人の立場が逆だったから、こんな厳しい折り合いの付け方は無いだろうけれど、地球上で生きる力関係のなせる技で、これ双方が手を打つのが妥当という処置なのだろう。

 

そんな地域猫の処置もこの辺一帯では一段落したようだ。以前は野良猫への餌やりに強い抗議があったと思うが、今は定時に堂々と餌やりのためにやって来て猫が集っている姿がよく見られる。

野良猫は寿命は飼い猫の半分以下と聞いた覚えがある。単純に考えると、数年で今いる猫たちはすべて寿命を迎えると云うことになる。もはや余生を送っていると考えて差し支えない。

 

彼ら猫もきっと中には病気を抱えていたりする者もいるだろう。そもそもの寿命を考えると辛く厳しい身の上で、最近はそういう彼らを見ていると、自分の生き様とオーバーラップすることが多い。むしろ、愛情を持って食べ物を施してくれる人々がいる、じゃれ合う友もいる。羨ましいとさえ思う。

 

人が路上で寝泊まりしていれば、排除されることもある。「ふつうの人間なら、そうはなるまい」というその「ふつう」に手が届かないと世間から脱落してしまう。

「死んだなら たった五両と笑うべし 生きていたなら 二分と貸すまじ」という川柳のような歌が古くからあるが、人間生きているうちは、必死にもがいてでも「ふつう」にとどまっていないと、まともに扱ってもらえないのだ。

 

と、こんなことを書いて本題に入りたい。

野良猫など、たいした迷惑にもならないし罪も無いとわたしは思っている。

それよりむしろ、カラスとハトの去勢でもしたらどうかと思う。

彼らはとにかくうるさいし、ゴミをあさるのはほとんどカラスだ。猫はむしろ積極的に人に養われている。ここら辺が愛玩動物としての立場の差だろう。無条件に愛されるというのは得な体質なのだ。カラスを愛しているというひとは、ごくわずかであろう。

カラスとハトは知らないうちに飛来してベランダに自らの巣を作ろうとすることもしばしばだ。団地の中には、ベランダがすっかり彼らのたまり場になっている部屋も散見される。

カラスの鳴き声がもの悲しく感じたのは遠い昔のこと。今は、なんとも不敵な面構えの黒い奴らに見えるのだ。