預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

奇跡の意味(ダニエル6:16~23)

6:16 そこで、王が命令を出すと、ダニエルは連れ出され、獅子の穴に投げ込まれた。王はダニエルに話しかけて言った。「あなたがいつも仕えている神が、あなたをお救いになるように。」
6:17 一つの石が運ばれて来て、その穴の口に置かれた。王は王自身の印と貴人たちの印でそれを封印し、ダニエルについての処置が変えられないようにした。
6:18 こうして王は宮殿に帰り、一晩中断食をして、食事を持って来させなかった。また、眠けも催さなかった。
6:19 王は夜明けに日が輝き出すとすぐ、獅子の穴へ急いで行った。
6:20 その穴に近づくと、王は悲痛な声でダニエルに呼びかけ、ダニエルに言った。「生ける神のしもべダニエル。あなたがいつも仕えている神は、あなたを獅子から救うことができたか。」
6:21 すると、ダニエルは王に答えた。「王さま。永遠に生きられますように。
6:22 私の神は御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の害も加えませんでした。それは私に罪のないことが神の前に認められたからです。王よ。私はあなたにも、何も悪いことをしていません。」
6:23 そこで王は非常に喜び、ダニエルをその穴から出せと命じた。ダニエルは穴から出されたが、彼に何の傷も認められなかった。彼が神に信頼していたからである。



 ダニエルがライオンに喰われなかったのは「神に信頼していたから」だと聖書は言う。では、迫害を受け、ライオンに喰われて死んでいった初代教会の信徒達は、神に信頼していなかったということだろうか。それは誰もが感じる疑問であろう。


 それではということで、ダニエルの為に王が断食祈祷した記事を見つけて「執り成しの祈りが秘訣だ」と考えるかもしれない。確かに、ペテロも教会の祈りによって牢獄から解放された(使徒12章)。しかし、では、その直前にヤコブが殺されたのは何故か。ペテロも最終的には殉教した。パウロは「死ぬことも益」(ピリピ1:21)と言っている。ならば何故、ダニエルのときには神はライオンの口を閉じたのか。そして、どうすれば今もその様な奇跡・助けを得ることが出来るのか。その様に考えるのが人情なのだろうとは思う。


 しかし、そもそも、旧約の奇跡を再現しなければならないという理由は無い。旧約はシルエットであり、そこに記された出来事の意味は新約にある。獅子とは、クリスチャンを地獄に引きずり落そうとするサタンのことだ(Ⅰペテロ5:8)。


 その方法は、神への信頼をぐらつかせることである。だから「堅く信仰に立て」と続く9節で言う。つまり、神への信頼が獅子(サタン)の牙から脱出する道だということだ。ダニエル書は、それを教えるのであるだからダニエルは偶像礼拝を拒んだ。獅子の穴に投げられると分かっていても、だ。それほどに神に信頼していたのである。そして救われた。ダニエル自身の言葉によれば「私に罪のないことが神の前に認められたから」だ。真の神のみを礼拝し信頼する、それが「信仰による義・救い」のシルエットなのだ


 とにかく、旧約の奇跡を再現する必要は無い大切なのは、その奇跡の意味を知るということなのだ。それは「神の前に罪が無いと認められた者は滅びの穴から救われる」ということだ。また、シャデラク達がそうであったように、神を信じる者が地獄の炎に焼かれることは無いということである。


 それが「信仰による救い」であり、その約束は必ず実現するその信頼を神に置け、ということだ。そうすれば、ダニエルの様に、何の傷も無い(新しい)体で、天国で、生きる者となる。

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