青いお空の底ふかく、

海の小石のそのように、

夜がくるまで沈んでる、

昼のお星は目に見えぬ。

見えぬけれどもあるんだよ、

 見えぬものでもあるんだよ。

 

散ってすがれたたんぽぽの、

瓦のすきに、だァまって、

春のくるまでかくれてる、

つよいその根は目に見えぬ。

 見えぬけれどもあるんだよ、

 見えぬものでもあるんだよ。

(星とたんぽぽ)

 

東日本大震災の影響でテレビCMが自粛された際に、金子みすゞという詩人を知った人も多いのではないでしょうか。

 

金子みすゞの「星とたんぽぽ」という作品に登場する、目に見えないけれど確かにあるという視点は、仏教を知る上で、とても大切なものの見方です。

 

経済が、科学が、医学が、急速に発達した現代を生きている私達は、目に見えないものを信じるということが、とても苦手です。

 

学習する人工知能、遺伝子の組み換え、クローン技術、人の作り出した技術は、神の領域と呼ばれていた分野にまで手を伸ばしています。

 

人の可能性は無限大。人にできないことはない。この世のありとあらゆる謎は、人が進化していく過程で全て解き明かされる。


山や海に神が宿ると信じていたのは、人の技術が未熟だった頃のおとぎ話。あらゆる技術が発達した現代で、そんなことを言っていたら笑われる。


これまで人が解き明かしてきた目に見える成果こそ、信じるに値する価値あるものだ。そう、誰もが信じて疑いません。

 

そのような現代を生きている私達が「目に見えないけれど確かにある」という話を聞くと、途端に、心の中は疑いの気持ちで一杯になります。

 

目にも見えない。科学的な裏付けもない。そんな何だか分からないものを盲目的に信じ込ませるなんて、これは怪しげな宗教勧誘に間違いない。絶対に関わってはいけない。そんなアラートが、心の中で鳴り響くのではないでしょうか。

 

しかし、目に見えないけれど確かにあるという視点を持つということと、何だか分からないものを盲目的に信じるということは、まったく違うことなのです。

 

何がどう違うのか。

 

親鸞聖人が残した言葉の中に、その違いを知るヒントが隠れています。

 

【原文】

善悪(ぜんあく)(ふた)つ、(そう)じてもって存知(ぞんち)せざるなり。その(ゆえ)は、如来(にょらい)御心(おんこころ)()しと(おぼし)()(ほど)()りとおしたらばこそ、()きを()りたるにてもあらめ、如来(にょらい)()しと(おぼし)()(ほど)()りとおしたらばこそ、()しさを()りたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫火宅無常の世界は、よろずのことみなもって、そらごと・たわごと・真実まことあることなきに、ただ念仏ねんぶつのみぞまことにておわします。

歎異抄(たんにしょう)

 

【意訳】

親鸞は、何が善いことで何が悪いことなのか、まったく分からない。なぜなら、本当の善悪というものは、仏から見て「これが善である」と思うことが善であり、仏から見て「これが悪である」と思うことが悪なのである。仏から見て「これが善である」「これが悪である」と思うことを知り抜いているのであれば、善悪を知っているとも言えるだろう。しかし、燃えている家の中にいるような不安な世界で、煩悩まみれの人間のすることは、全て、そらごと・たわごとばかりで、真実など何もない。ただ一つ、南無阿弥陀仏の念仏のみが、まことである。

 

煩悩具足の凡夫である私達は、何が善いことで何が悪いことなのか、大人になれば善悪の判断くらいできて当然だと思っています。

 

もしも全ての大人が善悪の判断を正しくできているのであれば、どうして、この世界から争いが無くならないのでしょうか。

 

何が善いことで何が悪いことなのか分かっているのであれば、全ての大人が善いことをしていればいいはずです。全ての大人が善いことをしている世界に、争いが存在するでしょうか。

 

しかし、現実の世界は争いのオンパレードです。

 

上司は部下の不出来を叱り、部下は上司の能力不足を愚痴ります。妻は夫への不満を抱え、夫は妻への興味を失い、夫婦喧嘩の火種は尽きることを知りません。

 

この土地は誰のもの、この財産は誰のもの、この役職は誰のものと、自分の権利を確保する所有権争いの数を数え上げたらキリがありません。電車の座席から国のトップを決める選挙まで、私達の毎日は所有権争いの連続です。

 

そのような争いは、いつしか国同士の大きな対立へと発展し、戦争という悲惨な結果を生むことさえあるのです。

 

そのような争いばかりの世界を生きている私達は、本当に、善悪の判断を正しくできているのでしょうか。

 

煩悩具足の凡夫である私達は、単に、自分にとって都合の良いことを善と呼び、自分にとって都合の悪いことを悪と呼んでいるだけなのです。


それぞれが、自分の都合に合わせた判断基準で善悪を主張すれば、争いが起こるのは当然です。

 

この世界にある争いの大半は、善と善の戦いです。善と悪が戦っているのではありません。そして、善と善が戦っているからこそ、争いは、より激しく悲惨なものになるのです。

 

悪いことをしているという自覚がある時には、人は多かれ少なかれ後ろめたさを感じます。後ろめたいことをする時には、迷いやためらいといった感情が付いて回ります。そうなると人は、思い切り行動するということができなくなります。遠慮したり、躊躇したりするのです。

 

しかし、善いことをしているという自覚がある時には、人は迷いやためらいといった感情を持ちません。善いことをしている時の行動には、手加減というものがないのです。人が大きな過ちを犯してしまう時というのは、往々にして、自分こそが正義のヒーローだと自惚れている時なのです。

 

煩悩具足の凡夫である私達は、いつもいつまでも自惚れながら生きています。


この世界のありとあらゆることは、自分の目に見えて、自分の理解の範疇に収まるのだと信じて疑いません。そのように自惚れているからこそ、自分の目に見えないもの、自分の理解の範疇を超えたものが、全て等しく嘘に思えるのです。

 

しかし、本当のところはどうでしょうか。

 

たとえば、私達はどうして今の両親の子として生まれたのでしょうか。70億以上もいる人の中で、どうして今の両親の子として生まれてくる必要があったのでしょうか。それが単なる偶然なのであれば、どうしてそんな偶然が起こったのでしょうか。

 

私達は、今こうして自分が生きている理由さえ、はっきりと説明することができないのです。そのような私達の目に見えるものが、本当に、この世界の全てなのでしょうか。

 

親鸞聖人は、何よりも自分自身が煩悩具足の凡夫であって、仏の知恵など望みようもない愚かな存在であるという確かな自覚を持っていました。そのような自覚があったからこそ「親鸞は、何が善いことで何が悪いことなのか、まったく分からない」と告白しているのです。

 

自分の限界を突きつけられ、人の非力を思い知り、自分こそが正義のヒーローだと自惚れていた心がポキリと折れた時、本当のことが見えてきます。

 

お釈迦様が人としての命を終えられる間際、弟子の一人が、こう尋ねました。

 

「お釈迦様が生涯をかけて説かれた教えを、一言で表すとすれば、どのようなことでしょうか?」

 

その問いに対して、お釈迦様は、こう答えます。

 

仏教(ぶっきょう)は、(ほう)(きょう)なり。

 

仏教は、自分を映す鏡です。

 

仏教を、真剣に聞き抜いていけば、必ず、自分の都合でしか物事を見ることができない、愚かな自己の姿を目にします。

 

それは法の鏡が映し出す、真実の自己の姿です。

 

私達は、仏教という法の鏡を通さなければ、決して真実の自己の姿を知ることができません。

 

真実の自己の姿を目の当たりにすることで、自分こそが正義のヒーローだと自惚れていた心がポキリと折れます。その時に人は、真実の自己の姿を知らせてくれた広大な仏の知恵に出会うのです。

 

それは、何だか分からないものを盲目的に信じるという曖昧なものではありません。それは、目に見えないけれど確かにあると、はっきりと分かるものです。

 

それが目に見えないのは、私達が煩悩具足の凡夫だからです。

 

もしも、仏の知恵が私達の理解の範疇に収まるのだとすれば、それは私達が仏と同等の知恵を手に入れた時でしょう。同等の知恵がなければ、同じように理解することはできません。

 

それは煩悩具足の凡夫である私達には望みようもないことです。しかし、そのような煩悩具足の凡夫であればこそ、救わずにはいられないのが、仏の知恵であり、仏の慈悲であり、南無阿弥陀仏なのです。