【原文】
慈悲に聖道・浄土の変わり目あり。聖道の慈悲というは、ものを憐み悲しみ育むなり。しかれども、思うが如く助け遂げること、極めて有りがたし。浄土の慈悲というは、念仏して急ぎ仏に成りて、大慈大悲心をもって思うが如く衆生を利益するをいうべきなり。今生に、いかに愛おし不便と思うとも、存知の如く助け難ければ、この慈悲始終なし。しかれば念仏申すのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にて候べきと云々。
【意訳】
親鸞聖人は、このように仰っていました。
仏の慈悲と言っても、聖門道と浄土門とでは、その性質に違いがあります。
聖道門の人は、自分の力で修行をすることで、全ての煩悩を絶やし尽くし、さとりをひらくことを目指します。
そのような人の慈悲とは、さとりをひらいた自分の知恵によって、全ての命を救い取ることを言います。しかし、自分の力でさとりをひらくことも、その知恵によって思い通りに人々を救うこともままならないのが、この世という場所です。
浄土門の人は、南無阿弥陀仏の念仏の功徳によって信心を得て、極楽浄土へ往生し、さとりをひらくことを目指します。
そのような人の慈悲とは、極楽浄土で仏に成った後、再び、この世に戻ってきて、自由自在に人々を救うことを言います。
この世で、どれだけ憐れだな、気の毒だなと思ってみても、仏の知恵を持たない私達には、どうすることもできません。
そんな私達であっても、南無阿弥陀仏の念仏をすれば、その功徳が、自分の耳に聞こえ、他人の耳にも聞こえます。それこそが、いつの時代も変わることのない広大な仏の慈悲なのです。
【補記】
どんな人にでも、大切な人の一人や二人はいるものです。
たとえ天涯孤独の身であっても、生きている限り、自分から離れることはできません。
自分から離れることができないということは、自己愛から離れることができないということです。
自分のことを肯定して生きていても、自分のことを否定して生きていても、仏方の目から見れば、それらは等しく、自己愛に捕らわれている愚かで憐れな姿です。
プラスの働きを持っていても、マイナスの働きを持っていても、磁石が鉄を吸い付けるように、自己愛から離れることができない私達の身には、常に迷いと苦しみが付いています。
仕事で成功したい、恋人が欲しい、悲劇のヒロインになりたいと、何でもかんでも自分の思い通りにしたいという自己愛の炎に焼かれて、我が身のことさえままならないのが、煩悩具足の私達です。
そのような私達が、慈悲の心を起こしてみたところで、自由自在に人々を救うことなど、とてもできるものではありません。
それが、どれほど大切な人であっても、その人に成り代わって、人生の痛みや苦しみを引き受けてあげることはできません。
残念なことに、それが、この世の現実です。
そのような世界を生きている私達だからこそ、親鸞聖人は、人の慈悲ではなく、仏の慈悲を人生の頼みとしなさいと勧めているのです。
阿弥陀仏が完成させた南無阿弥陀仏という仏の慈悲は、私の耳にも、あなたの耳にも聞こえるように、いつでもすぐ側に用意されているのです。