山梨県身延町・甲斐金山遺跡(中山金山)を訪ねるー   “武田家の隠し金山”を求めて登山する(2) | 名宝を訪ねる ~日本の宝 『文化財』~

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甲斐の名将、武田信玄と、その武田家の財力を支えた“甲州金”。

 

 

その金を算出していたとされる武田家の隠し金山―――。

 

 

前回、紹介した黒川金山のほかに、大規模に金を採掘していた金山が甲斐国内にありました。

 

それが中山金山です。

 

 

ここもまた、標高約1500m付近の人里離れた場所となり、黒川金山よりやや後に発掘調査が行われました。

 

その成果から、黒川金山遺跡と共に「甲斐金山遺跡」として国指定史跡となりました。

 

 

 

やはり登山の装備が必要な山の上の遺跡です。体力的には厳しいですが、黒川金山に行ったなら中山金山も行きたい!

 

 

そう思ったため翌月、中山金山も訪ねました。

 

 

以下の記事は2017年11月の訪問時に実見したことをもとに記載しています。

 

黒川金山同様、地元の情報をよく調べて訪問されることをお勧めします。

 

また、遭難等のリスクについてはご自身の責任でお願いします。

 

 

中山金山は日蓮宗総本山、身延山の近く、信玄の隠し湯で有名な下部温泉から登っていきます。

 

なお、下部温泉には中山金山の発掘調査結果を専門的に展示している「甲斐黄金村・湯之奥金山博物館」があり、金山に行く前にぜひ立ち寄っていただきたいと思います。

 

 

ただ、残念なことに私が行ったときは休館日でした(休館日:毎週水曜日)。

 

 

車で温泉街を抜け、県道“湯之奥上之平線”を山奥へどんどん登っていきました。

 

やがて最奥の集落、湯之奥集落にたどり着きます。

 

下部温泉の奥にあるから“湯之奥”、なるほど納得です。

 

 

ここには重要文化財「門西家住宅」があり、金山にも関係があるとのことで帰りに立ち寄りたかったのですが、管理をされている門西さんの御一族の方が体調を崩していたとのことで現在、見学できなくなっていました。

 

またもや残念です。

 

 

やがて県道は終点になり、林道に接続します。

 

道は幅が狭くなってどんどん山へと登っていきました。

 

この林道“湯之奥猪頭線”は、静岡県側とつながっています。

 

山梨県と静岡県の県境に差し掛かる手前に看板が見えてきました。

 

「毛無山の中山金山」と書かれていました。

 

 

「毛無山の中山金山」解説

 

 

ここに車3台分ほどのスペースがあります。

 

ここに車を止めて登山の準備をしました。

 

ここに、登山届を提出できるポストがありました。

 

もちろん、今回も登山届を用意してきましたので、ここに提出します。

 

 

毛無山登山口

 

 

ここから、中山金山を目指して歩いていきます。

 

毛無山、山梨の百名山なんですね。

 

結構、なだらかな登りが続きます。

 

 

登山道の途中にあった“山の神”

 

 

しばらく登っていくと“山の神”の標識がありました。

 

山の神様を祭る石碑があるんですね。

 

 

そろそろ着くのかな?と思いつつ、さらに登っていきます。

 

 

だがやがて、それが間違いだったと分かります。

 

黒川金山を訪ねた後だったので、やはり遺跡を示す標識などはないんだろうと思って登ってましたので、ちょっと視界が開けたら「到着した!」と勘違いしてしまったのです。

 

持って行った地形図と全く違う地形なので、すぐに勘違いと気付いたからよかったですが、山中での勘違いは遭難につながるので要注意です。

 

 

山の神から、登りが急にきつくなりました。

 

それらしい地形が全く見えてきません。

 

 

登り始めて約2時間、中山金山の看板が山中に静かにたたずんでました。

 

 

中山金山の解説

 

 

「お、やっと近づいたんだな。まだ登るのかな?」

 

と思ったら、そこが金山の入り口でした。

 

いきなり尾根の上から精錬場テラス群と女郎屋敷テラスが両手に見えたのです。

 

道中で一度勘違いしたところだったので、気構えていました。

 

「あれ!?なんか着いちゃったんですけど!?」

 

 

中山金山居住域図(旧下部町の資料を加工してます)

 

 

中山金山は広大な面積が史跡に指定されています。

 

金山沢という谷の両岸斜面一帯に広がる、居住域だったと考えられているテラス群のあるエリアと、その北の尾根を隔てて採掘域だったと考えられている露天掘りや坑道跡が残るエリアに分けられます。

 

到着したのは、そのテラス群のエリアでした。

 

 

というわけで、まずは女郎屋敷テラスから見ていきました。

 

ここは中山金山のテラス群でも、大名屋敷と並んで広いテラスです。

 

その名の通り、鉱夫たちを相手にしていた遊郭があったとの伝説があります。

 

 

この辺りで標高1450mほどだそうです。

 

黒川より高いじゃないですか。またも随分と登ってきたものです。

 

 

女郎屋敷のテラス

 

 

土に埋もれていますが石垣が残っていまして、人工的につくられた平場なんだと分かります。

 

 

女郎屋敷テラスにあった石垣の跡

 

 

ただ、発掘調査では遊郭などがあった遺物は見つかっておらず、むしろ鍛冶作業に関わる遺物が見つかっており、やはり遊郭の存在は伝説に過ぎないようです。

 

 

そして、その名も“精錬場”テラス群です。

 

ここは小さな段々となったテラス群が斜面一帯に作り出されていて、遺跡というより風化が進んだ廃村のような、生活感の残渣のようなものを感じます。

 

 

精錬場(尾根の上から)

 

 

ここではピットや石積みといった遺構が見つかっています。

 

また、炭焼き窯も近くにあり、同時に調査されています。

 

精錬場の名の通り精錬に関連する作業場と考えられ、小屋のような建物があったのだろうとされています。

 

 

生活や作業の中心地だったようで、こんな↓立派な石垣もありました。

 

 

精錬場にあった石垣

 

 

精錬場北側のテラスと石組

 

 

精錬場の石垣跡

 

 

金山沢右岸を見ると、状態の良い石垣群が見えます。

 

こちらには坑道が一か所残っています。

 

入口が狭く、今回は坑道内に入りませんでした。

 

 

金山沢右岸のテラス群と石垣

 

 

ココでの見どころはこれ!↓

 

「石河権兵衛の供養塔」

 

 

「石河権兵衛の供養塔」と呼ばれてます。

 

中山金山は石造物が多く残されています。

 

そのうちの一つで仏像の光背のような形状をしており、表面中央には「為花景宗春菩提」、右側面に「元禄三午庚正月」(元禄3年は1690年)、左側面に「富士北山村 石河権兵衛家」とあります。富士北山村は現在の静岡県富士宮市にあたり、日蓮宗本山の北山本門寺があります。

 

この供養塔は来歴のわかる石塔なので、注目されています。

 

 

 

さらに、斜面を上がっていくと七人塚と呼ばれるテラスがあります。

 

ここにも石造物が残されています。

 

 

七人塚

 

 

石殿

 

 

宝篋印塔と供養塔

 

 

そのやや下には石殿の屋根も転がっています。

 

宝篋印塔と板碑型石塔には銘が残り、それぞれ明暦4(1658)年、寛文4(1664)年の建立とわかります。

 

この辺りは集落の墓地だったのでしょうか?

 

 

そして、テラス群を巡っていると↓このような目的がわからない石組もありました。

 

 

目的不明の石組

 

 

炉にしては四方を石で囲ってしまっているし、建物跡にしては小さすぎる。

 

何のために組まれたものなのでしょうか?

 

 

大名屋敷のテラス

 

 

生活拠点の最高所には、大きなテラスがあります。

 

“大名屋敷”と呼ばれ、ここは毛無山登山道の中途にあたります。

 

発掘では大きな建物の跡などは検出されなかったようです。

 

 

居住域の跡を探索し終えたところで、下山の予定時刻となってしまいました。

 

採掘域はさらにここから尾根一つ隔てた場所にあり、坑道や露天掘りの跡が残っているそうなのですが、時間の都合上見ることを諦めました。

 

また別の機会に、必ず採掘域も見に行きたいと思います。

 

 

ただ、訪問したのは冬が近づいた頃で、この後まもなく林道が冬季閉鎖に入ってしまいました。再訪はまた、時期を見て、となりそうです。

 

 

 

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甲斐金山遺跡・中山金山(平成8年10月・国指定史跡 山梨県南巨摩郡身延町湯之奥)

黒川金山と並び、“武田信玄の隠し金山”と伝承のあった金山。平成元(1989)~平成3(1991)年に調査が行われました。文献、考古、民俗などの調査が行われ、金山が武田家の直轄というより国人領主の穴山氏の管轄だったこと、黒川とほぼ同時期に廃坑となり、金山衆のほとんどは富士北山村へ移っていったこと、金山との関連が強かったといわれた湯之奥集落は金山経営にあまり関係しなかったことなどが明らかになりました。

 

 

参考文献:

『湯之奥金山遺跡の研究』   山梨県西八代郡下部町・湯之奥金山遺跡学術調査会・湯之奥金山遺跡学術調査団(1992)

谷口一夫 『武田軍団を支えた甲州金 湯之奥金山』 シリーズ「遺跡を学ぶ」039、六一書房(2007)

 

 

 

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