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 誰をモデルにしているのか、かしましい感じで実に嫌な感じというのがわかるイラストだ。

 大衆と言うもの、その嫌らしさ、群れる愚、流される衆愚。

 しかしそれを言葉にしてしまえばあまりに強烈だ。

 だがこうして漫画なんかで描いて見せれば、見た人は「自分のことではない」と気がつかない。


 つくづく見るとドンピシャリという感じはしてしまう。
 今という時代だからそう思える嫌らしさなのか、それはわからないけれども。



 昭和は「個性」 ということが珍重された時代だ。

 画一的な教育の弊害などということが早くも言われるようになった。没個性が警戒された。

 明治から敗戦を経て、気がついたら一気に近代化が急速に進み、なんだか明治の気骨はどこへ行ったものやら、大戦で自らの国を守るという意識はどこへやら。

 才能は埋もれ、大衆化がぽっかりと口を開けていたからだ。


 そんな我が国の大衆は仮面のような個人を謳歌した。享楽に耽るだけ、実にカッコの悪い衆愚の状態ではあった。

 学生運動にしても享楽、男女の出会いの場でしかなかった。

 よこしまな目的を隠しただけの出会い系。混乱への同調がそこにあった。


 そんな風潮にはいくばくかの反省さえあった。「同じでいいのか」と。

 気だるい、退屈さが世の中を覆っていた。

 皮肉混じりの嘲笑と、今から振り返れば時代としてはあまりに早過ぎた諦観ムードがあった。


 当時の連中が今を見たらどう思うだろう。

 情熱もなく、混乱しうろたえるばかり、自分で考えることを止めさせようとする空気、様々な同調圧力、痴呆老人の群れ。外国人。

 偏向し続けるメディア、真実が歪まさせられ、横行するポジショントーク。

 彼らはきっとこうなること、こうなる行き着く先を知っていたに違いがない。





 そしてこの当時の連中がまさに今歳をとり、駄々っ子のような老人となっている老醜であることも事実だ。

 コロナ感染をばら撒く老人たち。権利の制限に噛み付く人たち。

 軍備を敵視するばかり、中国の暴虐には目を瞑り、平和のプロパガンダのバトンを前の世代から受け継いでまたもや寄生しようとしている。

 平和のために何の努力もせず、むしろ妨害するばかりで何もしようとはしない人たち。

 国家に寄生し続けるヒバクシャ利権。

 自分に酔った老人出会い系・老人反政府デモ行進。

 平和祈願式典は同じように同調圧力として、恥ずかしげもなく次の老いぼれたちに引き継がれている。




 こんなウィスキーメーカーは、当時のおそらくはサントりーの「ダルマ」の猛攻に対し、「人と同じでは気持ちが悪い」なんて、そんなヒネクれた訴求をして売ろうと広告を打った。


 「お前のことだ」と言われていることに気がつかれてしまえばソッポを向いてしまう。

 穏やかに毒を抑えて、そし訴えねばならぬ。

 この国をこれからどうするの、と、こっそり言ってみせた広告だ。


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