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敗者の運命/マーガレット・ソールズベリー伯爵夫人 [ヒロインたちの16世紀 The Heroines]

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 ソールズベリー伯爵夫人マ—ガレットのデッサン/作者不詳/大英博物館蔵
             (1473~1541)

 マーガレットの父は、エドワード4世の実弟クラレンス公ジョージ。
 母親は「キング・メーカー」と呼ばれたウォーリック伯の娘・イザベラ・ネヴィルであった。この2人の間に、1473年8月14日、誕生した。
 5歳の時、父はエドワード4世の命令で反逆者としてロンドン塔内で処刑された。

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 前王朝プランタジュネット家の王子は、長引く内乱やその後即位したヘンリー7世によって、ほとんど全てが粛清されていた。姫君は反逆を企てる危険性も低かったためか、粛清から逃れた。マーガレットもその1人であった。
 エドワード4世崩御の後、その王子達が庶子の決定を受けて王位継承権を無くした上に、後を継いだリチャード3世の皇太子もまた早世したために、マーガレットは王位継承権を有する身となった。

 しかしヨーク王朝はすでに終焉を迎えていた。ヘンリ—・チュ—ダ—は新王朝を開いてヘンリー7世として即位した。その後マーガレットは恩赦され、1491年にはソールズベリー伯リチャード・ポールに嫁がせた。
(リチャード・ポ—ル=ヘンリー7世の従兄弟)

 
 14年後、夫のリチャードが亡くなったとき、マガレットにはヘンリー、レジナルド、ジェフリー、アーサー、ウルスラの5人の子供たちが残された。このうち2男レジナルドは法王から枢機卿に任命された。
 

 マーガレットはチューダー王朝でも優遇された。特にヘンリー8世の最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンと仲が良かった。第1王女メアリー(後のメアリー1世)が誕生した時には洗礼式に付き添って名付け親を務め、王女の世話役にも任命された。
 メアリーは王女として実母の手から離れて、マーガレットに育てられた。
 母のキャサリンは「娘を呼べば、すぐに応じてくれるよう」マーガレットと密に連絡を取り合っていた、という。メアリーが3歳で神聖ローマ皇帝カール5世との縁談が壊れた時には、マーガレットの息子レジナルドとの縁談も浮上した。
 このままいけば、マーガレットは新女王の義母として、権勢を握ったかもしれない。

 しかし再び時代は変わり始めた。ヘンリー8世とキャサリン王妃との離婚問題は、メアリー王女に影響を与えずにはいられなかった。
 新王妃アン・ブーリンが第2王女エリザベスを生むと、第1王女メアリーは王位継承権を奪われた上に、強制的にエリザベスの侍女にされてしまった。
 マーガレットもまた養母の地位を剥奪され、蟄居せざるをえなくなった。

 メアリーを王女と呼ぶ事は禁止されたにもかかわらず、マーガレットはメアリーを王女と呼び続けた。そして自分の紋章には、夫ポール家の紋章スミレの花に加えて、メアリーの紋章であるマリーゴールドの花を添え、王女への忠誠を表した。
 ヘンリー8世はレジナルド枢機卿を懐柔しようと試みた。もしキャサリンとの離婚を承諾するなら、ヨークの大主教の座とウィンチェスター主教区の支配を約束しようと申し出るが、レジナルドはそれを蹴って1532年、フランスに亡命、パリとイタリアのパドヴァを行き来しつつ、ヘンリー8世に反論する論文を書き続けた。

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ソ—ルズベリー伯爵夫人マーガレット
作者不詳/ナショナルポートレートギャラリー蔵
 1536年アン・ブーリンが没落すると、マーガレットは許されて、再び宮廷に戻った。しかし2男レジナルド枢機卿はバチカンを代表して、ヘンリー8世の宗教改革に正面から抵抗してみせた。1537年の「恩寵の巡礼の乱」でも、レジナルドは反乱の首謀者に支援を与えていた。

                 
 1538年11月、4男のジェフリーと、母方の従兄弟エドワード・ネヴィル及びニコラス・カルー卿が反逆罪容疑のために逮捕された。翌年1月、ジェフリーを除く2名がロンドン塔で処刑された。
 ジェフリー逮捕の10日後、マーガレットもまた反逆罪で逮捕となり、サザンプトン伯とイーリー主教の取り調べを受けたが、彼女は口を閉ざしたままだった。マーガレットはさらに取り調べが続いた。

 ヘンリー8世は、マーガレットが「5つのキリストの傷をモチーフにした刺繍」のある白いチェニックを持っていた事に目をつけた。その紋章は「恩寵の巡礼」反乱軍の旗印でもあったので「マーガレットもまた反乱に関与している」と断定した。また、マーガレット専属の神父が海外に脱出していた事も、「ヨーロッパにいるレジナルド枢機卿と連絡を取り合っている」と見なされた。
 そのためマーガレットはロンドン塔に2年間幽閉される事になるのだが、塔内での待遇は悪く、常に衣服の粗末さと寒さとに苦しめられていた、という。

 1540年5月27日(または28日)、マーガレットは突然処刑を告げられた。
 「私は無実です!反逆などしていません!」
 そういって抵抗し、処刑台に上がることを拒否するマーガレットを、処刑人は斧で後ろから首を切りつけた。

 ロンドン市長を含む150人の立ち会い人の目の前で、絶叫するマーガレットの首に、何度も斧が振り下ろされた。夥しい血が飛び散った凄惨な処刑だった。
 それは実際、ヘンリー8世によるレジナルド枢機卿への復讐だった。ヨーロッパでバチカンの庇護を受け、手出しできないレジナルドの代わりに、腹いせで母親のマーガレットを惨殺したのだった。
 母の死を聞いたレジナルド枢機卿は、こう語ったという。
「私は母の死を恐れない」

 ヘンリー8世とアン・ブ—リンとの略奪婚、その結果生じた英国国教会は、無数の犠牲者を生んだが、マーガレットもその1人だった。
 それから数世紀を経た1886年、時の法王レオ8世は、マーガレットを殉教聖者の列に加え、命日の5月28日を祝日に決めたという。

             参考資料/
        The Tudor place by Jorge H. Castelli
        The Catholic Encyclopedia


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