旧資料備忘摘録 2020-8-8 Up

▼山崎有信『幕末秘録』S18-3、初版三千部
 山崎は編者であって著者ではない。この原稿は寺澤正明(【ニンベンに親】太郎、蕭玉)を取材した内山懐天に著作権がある。しかし内山にはS18時点で連絡がつかない。
 寺澤は、幕臣で、彰義隊の第八番隊に属して上野黒門口に戦い、品川から榎本艦隊に投じ、函館まで転戦した。明治3年釈放され、静岡藩に入り、開拓使に出仕。後年、金玉均を日本で匿ったこともある。その引退後の懐旧談を、M40に内山懐天が原稿化した。報知新聞に「幕末裡面史」として70回以上、連載。ただし間違いが相当多く、大直しが必要だった。M44に増補原稿ができた、それは函館毎日新聞に連載された。
 これをあらためてS18に単行本にしたのが山崎である。山崎はS18-1時点で旭川市に住んでいる。

 以下、本文。
 真っ暗闇の屋内では、抜き身の刀の刃を「内刃向き」に持って、五体をかがめ、壁づたいに、ほとんど這うようにして、廊下口をめざす。
 彰義隊士の暗語/合言葉は「上に」「下に」であった。

 わざと鐔音をさせることで、交渉相手を脅かすことあり。

 謹慎の身だと甲冑を着るわけにいかないが、鎖帷子は問題ない。右肩より左脇にかけては七連銃を担い、左腹に沿うてはフランス製の弾薬入れをさげ、長き大小をたばさんで、右の腰には2尺強の紐つきのピストル。そのうえに右手に長槍。これが当時の隊長の装いだった。5月15日のこと。

 たっつけ(結袴)で泥水の中を歩くと、水の重さで動けなくなる。

 松平太郎は、陸軍総裁として金銀の保管もしていた。大鳥圭介を討つと称して、武器弾薬とともに、多くを榎本の船に運び入れ、残りはみずから擁して日光へ。ただし当初は、「官軍太郎」という仇名をつけられて、信用されていなかった。

 日本刀をひそかに持って逃亡するときは、鍔があるとシェイプで見咎められるから、両刀ともに鍔を外して、芋のずいきでくるんで、百姓がずいきを運搬しているように見せかける。

 城の畳をずゐきでつくり、別に櫓下に塩俵を備えておけば、1年くらい籠城できる。会津城に関する噂。

 渋沢成一郎は大男で、頭は丸坊主。眼光炯々。上野山王台の西郷銅像のような威風があったので、普通の人は気圧された。

 松岡四郎次郎は、戦後、三井函館支店長となった。名前は、松岡譲と変えていた。

 大塚霍之丞らは、休養日や日曜日のことを「ドンタク」と呼んでいた(p.143)。
 大鳥配下の幕府歩兵は、月に1両くらいの小遣いをもらっていた。扶持は、つかない。

 渋沢はM2に函館において仲間から排斥されて、一時は湯の川に逼塞し、その後も彰義隊へは戻ることができず、伝習隊に組み込まれたあと、また分派独立した。小林、大館らがしたがった。その後はわからない。

 英船アルビヨン号の動きは当時からあきらかに不審で、政府のための偵察役を買って出ているのは明白であった。この船は白ペンキで塗られていた。

 『回天』と『甲鐵』の上甲板の落差が大きかったので、『回天』の汚物を流し落とす鉄管から、『甲鉄』上へ飛び移った。

 伊庭八郎。受傷した右手が腐蝕していたので、医師の高松凌雲がそのひじの上から切断。皮をむいて肉と骨だけ切り、血管の先を一々結束して、その上へ剥いた皮をかぶせて縫い止めたのを、寺澤は見た。
 全治はしたが、右手はわずかに肩と水平にしか上がらず、風に吹かれると体が右の方だけうしろへ曲がるようだと八郎は常に笑って語った。

 五稜郭の土手上には二種類の銃眼工事を施した。
 簡易なタイプは、枕木をならべてその隙間を銃眼とする。枕木の上には、幅2尺の材木を横たえて、これを防弾壁とする。とうぜん、寝射ちしかできない。
 手間をかけたタイプは、幅2尺の材木で「拒馬」をこしらえる。ただし馬の足は4本ではなく多数本。その足は向こう斜面と手前斜面で互い違いとなるから、隙間があく。それを銃眼にし、上から土を被せる。このタイプだと、座射と立射が可能であった。

 五稜郭内で艦砲の破片にやられた古屋佐久左衛門は、脾腹から腰にかけて盲貫になり、それが致命傷になった。

 奉行屋敷の二階には、四畳半の書斎と、六畳の事務室があった。榎本はその四畳半の方で自決未遂騒ぎを起こした。

 五稜郭戦では、軍使は白旗ではなく、浅黄の小旗をさしかざして敵陣へ赴いた(p.197)。
 大鳥「諸君はなぜさう降伏を厭がられるか、降伏したとて決して耻辱とは申されん」(p.199)。

 寺澤は降伏後、青森の正覚寺へ移送された。
 まかない方や下人どもからも「降参人」とあざけられた。

 函館台場の一時留置場にけっきょく1年、おしこめられたが、一度の洗濯も掃除も沐浴も許されなかったので、不潔のきわみだった。椀も飯櫃も同様。
 ちょっと着物に皺を寄せると、そこへ虱が行列をつくって集まる。それを火鉢へはたき落とす。また皺をつくれば、そこへシラミがまた集まる。これを繰り返すのだが、虱が尽きることはなかった。
 飯は三度。薄い味噌汁に塩を追加してあった。沢庵4切れが晩飯には付いた。これが1年続いた。

 暖房がないので、冬は男二人で抱き合って寝た。相手の布団とこっちの布団を合わせて、焼いて尖らせた箸で穴を明け、コヨリで縫い合わせて袋にした。

 寺澤はこの牢中でアラビア数字から勉強して、測量製図ができるまでになり、それで、後年、開拓使に雇われた。S18時点では、攻玉舎で教鞭をとっていた。

 衝鉾隊に属していた、梶原雄之助(はじめ藤吉。のち石山道雄と改名)は、もともとは見附のガエンだった。法被を着て、竹箒で見附内を掃除する卑賤の無宿者だったが、緡[さし]を二、三把もって人の店先へ尻をまくって腰掛ければ、天保銭2枚は遣らねば、ひどい仇をするという厄介者。江戸市民は皆、蛇蝎の如くにこれを嫌うていたものである。手首まで全身、文身だったが、銭湯に入るときはシャツのままで、それを見せなかった。
 教養の無いガエンは、漢字のことを「こたつやぐら」と呼び、読書などしたことがないのを誇っていた。

 寺澤は榎本の推薦で開拓使に14等出仕となった。

 附録・武田英一(陸軍教授)による、五稜郭築城苦心談。
 英一の父が、弁天台場と五稜郭を築城した。
 当初構想では、弁天台場と、もうひとつの台場〔おそらく七重浜あたりか〕の2つの台場によって、五稜郭を守ろうとしたのだろう。

 石垣の隙間には鉛を注ぎ込んで、堅固にした。
 鉛は箱館のすぐ近くで産出し、特産品だった。
 文久元年に『亀田丸』で黒龍江に行った。川幅は広いが、航路は狭く、左右にそれると砂に座礁する。4月28日に出港して、8月9日に戻った。

 模造した四斤砲の砲弾がうまく飛ばないのはライフリングに問題があるのではないかと、鉛を注ぎ込んで型をとってみたところ、案の定、6、7本の筋のうち1本のラインが不規則であることを発見できたという。

 武田は大鳥圭介の紹介で松代藩に招聘された。そこでフランスに倣った「士官学校」を建てた。それが日本で「士官学校」と名のついた最初の施設だった。今の富岡中将はその学生だった。※M40-3に海軍中将になった富岡定恭。44年12月に予備。海兵5期である。

 明治政府の陸軍士官学校の創立にも協力し、曾我校長の下で教頭もつとめた。M13病死。

 山崎有信の紹介。福岡県うまれで、関西法律学校を出て弁護士となり、旭川で開業した。彰義隊研究が趣味。既著に『日露戦役 忠死者建碑 並 招魂社合祀手続』『野辺地戦争記聞』『天野八郎伝』など。

▼雑誌『港湾』の古いバックナンバー
 この雑誌、1巻1号は、大正12年刊である。5巻1号は、昭和2年刊である。

 3巻2号 「軍事上より見たる朝鮮の諸港湾」
 釜山には3000~4000トンの船は5隻しか係留できない。防波堤が未成だから、潜水艦に対して無防備。

 3巻3号 「石炭の沖荷役改善に就て」
 石炭積み込みはまったく人力によっているので海外でも馬鹿にされている。機械化せよ。バケツエレベーターを導入しろ。

 6巻8号 「基隆港湾の拡張と船渠増設の急務」
 3万トンドックを造れ。上海に対抗させろ。

 6巻11号(昭和3年刊) 「時事」
 名瀬は外海に暴露しているので、2条の防波堤(200間と90間)を設けることにした。

 9巻3号 「大連港となるまで」
 李鴻章時代、独顧問ハンネッケンにより、柳樹屯要塞と桟橋がつくられた。露は租借後、2名の技士を派し、柳樹屯の他に大連商港を建設。スポンサーはウィッテ。

 9巻7号 「福沢先生と海軍の訳語」
 Charter (party) を、雇船(契約)と訳した。しかし日清役後に、傭船 と変わった。

 9巻8号 「日独両国民の港湾に対する関心の相違」
 ハンブルグは金づまりの今も改良されているではないか。

 11巻1号(昭和8年刊) 「港湾の性能と海軍作戦に就て」(訳文)
 月刊“World Ports”から転載。W・A・パアイ大佐は主張する。地理的位置だけは人力で左右できない。だから、地理的位置が、港湾のもっとも重要なる性能なり。港口が浅いと、機雷を仕掛けられる。深いと、潜水艦が侵入する。

 12巻3号 「日本修船渠の現状及其対策に就て」(其一)
 わが国の現状では、修船渠は造船業者の兼業なのがほとんど。軍用に適するのは浮きドック。船より短くとも、浮力さえ上回れば、持ち上げてしまう。わが国の商船渠で戦艦を入れられるものは皆無である。大巡が入るのがわずかに3基。米英は、商船が必要とする以上の大ドックを常に準備してある。英国は上海や香港にもドックを置いている。米仏はドック1基で16隻のめんどうを見る。英独は12隻である。日本は…………。

 16巻8号 「事変下に於ける八丈島神秦港の重要性」
 工事予算が初めてついたのが昭和8年。日支事変で土木予算は全般に激減。しかし、あちこちに避難港が整備されておれば、漁船の重油も節約できるのである。

 16巻12号 「港湾とヒンターランド」
 海岸線は皮膚、港は気孔である。半島と裏日本を結ぶ最短航路のための日本海側港の選定については、ヒンターランドを考えて無駄な投資をするな。大阪と日本海港を結べ。それが満州への最短コースだ。

 18巻5号(昭和15年刊) 「北欧に展開せる戦局と港湾の重要性」
 ノルウェー沿岸は深いため岸スレスレに航走できる。だからドイツ艦船は英機の空襲から守られる。

 20巻10号(昭和18年刊) 「海防港」(下)
 安田丈助は論ずる。港内碇泊時間を1割減らすことができれば、それは、数十万トンもの船が増えたと同じことなのである。

 26巻2号(昭和24年刊) 「アメリカに於て港湾改修工事を陸軍が施工する由来」
 米国では陸相が港湾改修維持の担当なのである。

▼『土木学会誌』大15-8月号 「船渠に就て」
 乾慶蔵は論ず。英海軍史家のウイルソンは、国が衰えるとき、初めに兆しがあらわれるのは海軍だと言っている。太平洋の戦艦用ドックは、英米日の比率が6:7:2であり、ワシントン条約の主力艦比5:5:3どころではない。ドックは3倍面積の陸地を奪うので選地が難しい。青島のドイツ軍はなぜかフローティングドックだけは自沈破壊しなかった。弩級戦艦はドック幅100尺以上ないとダメ。超弩級なら110尺要る。この規格のドックを英は13、米は15、仏は6、独は3、伊は3、日本は2基、有している。フローティングドックなら、船と同じ期間で完成する。乾船渠だと、着工から完成まで3年~6年かかる。長さを拡張するのは簡単なのだが、幅と深さは、後から増築することができない。

▼『工業評論』大14-7月号 所載「我国工場に働く独逸技師の眼に映じたる日本工業界の欠陥」
 ややもすれば仕事が不規律に陥り、往々にして勤務規定を守らない。重大問題。職工が相当の理由なくして欠勤する習慣あり。外国ではこれは罰金モノだ。中間管理職=組長が無能である。ライン間で不良品にクレームをつけない悪習慣。職工も役員も多すぎる。人がムダなのである。

▼『一橋論叢』S49-8月号 竹内啓一「日本におけるゲオポリティックと地理学」
 マハンは「政治地理学」だ。
 京都学派の「日本地政学」は皇道主義思想に属し、国内の地域計画にほとんど関心を示さなかった。
 飯本信之は1935の著書で Landshatt (landscape) を「景域」と訳した。

 引用。日本のゲオポリティカーは戦争行政や策戦にほとんど協力せず、米英と対照的であった。

▼木場浩介『野村吉三郎』S36
 WWIのとき加藤友三郎は第一艦隊を率いて南洋を占領した。
 伊藤公は海軍ファンだった。

 ポストジュトランド型、すなわち、垂直落下弾に対する十全な甲板装甲を有する主力艦は、日本では、『長門』型以降のみ。

 太平洋防備凍結の提案は11月15日、朝日新聞上に予告されていた。

 センピル教導団を英から招いたのも、友三郎。
 米では、作戦部長と参謀総長のみが、退官後も、大将でいられる。さなき者は、戦争終了後は少将まで戻されてしまう。

▼林房雄『大東亜戦争肯定論』S39 番町書房
 四ヶ国艦隊事件のときは、英の電信はセイロンまでで、極東には端末無し。
 岩倉は、「外権を仮るは、古今の通患なり。……恐るべく憂うべきなり」(全国合同策)という認識。

 普仏戦争では諸侯は独逸にのみ視察官を派した。

 村田式明治22年の連発銃を、「日本人の体格に合うように、口径を小さくするかわりに着弾距離を長くするように工夫した」と書いているのは読売新聞社の『日本の歴史』。※まったくわかってなかったわけ。

 萩、西南の乱の残党で、且つその後の向陽社の残党が、日本右翼運動の源流である玄洋社をM14-2につくった。

▼『続・大東亜戦争肯定論』S40
 日露戦争直後の1909年、ホーマーリーの著書には、陸軍少将の序文があり、米国が石炭輸送船隊を組織するまでは、日本にイニシアチブをとられてしまうと。

 もし西海岸が日本軍に占拠されると、中央平原の不毛地帯が防壁となって、戦線が固定してしまうという。

 帰国直後の江藤淳の言葉(ナショナリズムに新も旧もない)を引用して、検閲について語る。※林の長男と江藤は中学同級生という。

 代々木で割腹したのは右翼団体。
 文士を中国や南方へ送り出したのは、ドイツのPK(宣伝)中隊を真似た、参謀本部第8課(謀略課)。

▼荻生敬一ed.『徂徠山人外集〔読荀子〕』S16
 議兵篇。
 先ヅ驚カセテ而後、之ヲ撃ツ。

 重用兵とは、兵を用うるのに慎重であること。
 軽用兵とは、その逆。

▼川口久雄『大江匡房』S43
 『太平御覧』の巻302に『通典』あり。賊が故なくして退くときは、疑らくは必ず伏あらむ――というところ、読んでいたであろう。

 匡房は、真字[まな]を知らない義家のために、黄石公の『兵法霊瑞書』を仮字[かな]に直して授けたという。

 後三条天皇は犬嫌いで、犬を殺させた。
 嘉保3年か4年、師通は『三国史』の「魏志」から曹操の謀略を書き抜く。
 『江談』の中では、ペルシャ語彙を集めている。

▼リチャード・フェイバー著、北條文緒tr.『フランス人とイギリス人』1987
 パリ人口は18世紀を通じて安定。
 英にクリノリンがもたらされたのは1855、ウージェニー后による。
 18世紀から19世紀、仏人の体型は異常に痩せていた。
 19世紀の仏農民は、紳士には挨拶しないが、軍人には脱帽した。

 仏人にいわせると英会話は省略が多く、話す速記術だと。
 フランスの道路は英国の道路よりも交通量が少ない。18世紀によく整備されたが、革命で荒れ、19世紀に復活した。

 英人は文学をテーマに会話しない。
 ビフテックはビーフステークの仏訛り。
 18世紀に仏軍用語が大量に英語中にとりいれられた。

 シャトーブリアンいわく。文体は思想の如く国際的ではない。
 ブルターニュ人はウェールズ人と似る。そして、英国嫌いである。

▼田中和夫『幻の木製戦闘機キ106』2008-7
 S19に王子製紙が、道産エゾマツを使って「疾風」の木製機体を造れといわれた。
 S17に陸軍は5330機製造。海軍は4170機製造。

 黒江保彦少佐はビルマ戦線でモスキートを撃墜している。S18-10に。
 黒江が、キ106は主翼銃は無理だと結論した。フラップも蝶型は無理。

 黒江は戦後は空自に入ったが、S40に47歳で水死。
 『ああ、隼戦闘隊』などの著者でもあった。

 S18に満州領に逃亡してきたソ連の「ラグ3」型戦闘機が木製で、これが刺激になった。
 江別は、石狩川と鉄道のクロス点なので、運輸上の都合がよい。
 冬に伐採した木材を、融雪期に筏で江別まで流してくる。

 航空兵器総局長の遠藤三郎中将は、戦後は、日中友好や再軍備反対運動で知られる。
 江別には陸軍の飛行場も造ることになった。予定地には町村敬貴の農場もあった。札幌農学校卒で、酪農の先達。勅撰の貴族院議員。その実弟は町村金吾。当時、内務省警保局長、のち道知事。

 それにさきだつ1942-4には、丘珠に陸軍飛行場を造成するために、明治からの開拓者六十数戸を立ち退かせたことあり。

 積層材の材木は、ブナや樺。
 強化木合板は、単板に石炭酸とホルマリンを原料にしたベークライトをしみこませ、それを幾枚も重ね、強い圧力をかけて圧縮膠着させる。

 接着剤には牛乳カゼインが使われる。
 脱脂乳に酢稀酸を加えて沈殿させ、稀アルカリに溶かして酢酸でもういちど沈殿させて乾燥させる。アルカリや石灰を混ぜることで接着剤になる。

 尿素系樹脂にくらべると、耐水性や耐久性で劣った。

 北海道開拓記念館に展示されている実物の木製増槽。すべてカゼインで接着してある。
 軍は王子の苫小牧工場を転用させたがったが、会社は抵抗して、江別工場にしてもらった。

 ボルトやナットは、カドミウム・メッキでなくてはならず、それは道内では調達できなかった。
 飛行中の滞留電気を、着陸の瞬間に地上に放電させる装置が、尾輪付近にはあった。1センチ幅の銅板に鉛メッキしたもの。

 完成したキ106は「疾風」より1トン近くも重くなった。その皺寄せは主脚に来る。

 北九州が爆撃されたことで、石炭酸系接着剤が品薄になり、湿度に弱いミルクカゼインを多用するしかなくなった。
 王子航空機に勤労動員された理工系の大学生の中に、慶大工学部の菊池英樹もいた。菊池寛の息子。

 屯田兵が離農するとき、仲間の屯田兵に田地を譲った。残る者は、しだいにその地方の大地主になった。

 元江別の陸軍飛行場のスペックははっきりしない。1943完成の丘珠飛行場は1200m×100m。同年の八雲の陸軍飛行場は1300m×80m。沼ノ端飛行場は1300m×100m。1944完成の室蘭飛行場は1200m×50mだった。

 米本土へ持ち出されたキ106は、傷みが激しかったのでスクラップにされ、写真しか残っていない。