若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」河出書房新社 2017年初版
先立つ夫を見送って以来、一人孤独な生活を送っている桃子さん。物思いにふけることが増えた桃子さんは、今がしっかりものを考える最後のチャンスかもしれないと考えた。七十五年の歳月を振り返り、桃子さんはいったい何を思うのか。老いと孤独、母と娘の連鎖、愛し抜いた男との別れ、故郷の思い出、一たび考え始めると桃子さんの心の中には声が溢れ出す。孤独の果てに桃子さんが手に入れたものとは。
老いることでしか桃子さんの境地には至れない、そう思った。手の届かぬところに桃子さんは行ったんだと。老いてみなければわからない楽しさがあると思えた作品である。
文藝賞・芥川賞受賞作品。田中裕子さんを主演に2020年映画公開予定。
重みのある言葉
桃子さんの内側には声が溢れていた。それも一人ではなく、年齢も性別も不詳の大勢の声である。桃子さんのふとした心の取っ掛かりを広げ、掘り下げていくように、声たちはやりとりを始める。桃子さんはその声たちのことを「柔毛突起ども」と呼んでいた。桃子さんの故郷・岩手弁の柔毛突起どもと、標準語の桃子さんの掛け合いは、読者までも思考の渦に引き込んでいく。若さというのは今思えばほんとうに無知と同義だった。何もかも自分で経験して初めて分かることだった。ならば、老いることは経験することと同義だろうか、分かることと同義だろうか。老いは失うこと、寂しさに耐えること、そう思っていた桃子さんに幾ばくかの希望を与える。楽しいでねが。なんぼになっても分がるのは楽しい。内側からひそやかな声がする。その声にかぶさって、「なんぼになっても分がるのは楽しい」と希望を見出したすぐ後で「何が分がったらこごから逃してもらえるのだべ」と続く。
んでもその先に何があんだべ。おらはこれがら何を分がろうとするのだべ、何が分がったらこごがら逃してもらえるのだべ。正直に言えば、ときどき生きあぐねるよ。(P30~ 31)
柔毛突起のやりとりは、ふわりふわりと思考を転々としているかと思えば、不意に思わぬ着地を見せる。そこに待っている言葉は、文字を読むことを止めさせるような重みがあった。すんなりとは飲み込めない凄味があった。それは、桃子さんの痛みや悲しみを訴える声の時もあれば、桃子さんが人生で獲得した、私なんかが到底知らぬ喜びや幸せを噛みしめる声の時もあった。
それが何度も作中に出てくるのでたびたび涙腺が刺激されたのだけれど、柔毛突起どもも、それらを飼いならす桃子さんも、元気のある人なので、励まされるようにして最後までためらうことなく、ページをめくり続けることができた。桃子さんの使う東北弁は意味が分からないものもあるかもしれないが、ジャズのセッションを楽しむように音や断片的な意味を想像するだけでも、充分この物語の深みに辿り着けると思う。
老いる前にできることとは
桃子さんいわく「人はどんな人生であれ、孤独である」らしい。誰もが孤独と隣合わせで生きている。孤独な暮らしの中で桃子さんは自分の居場所についてこう語る。自分を取り巻く現実はあまりにも殺風景で希薄で、自分はこの世界でほんとに生きているのだろうか、比べて遠く隔てられた過去は色鮮やかに蘇る。桃子さんとて過去は恣意的なもの、美しい装飾が施されたものとうすうすは気づいている。それでもそこにしか自分の居場所がないように思われる。老いる前の私にできるのは、色鮮やかに蘇る過去を用意できるのかということなのかもしれない。孤独は誰にでもつきまとうけれど、たった一つでも、何度だって思い出せる過去があれば、きっとみんな大丈夫。桃子さんのように乗り越えられる、そんな気がする。
周造。もう一度亭主の名を呼んだ。(P72)
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