「麗子がいないと

設計事務所は回らない。

お前が事務所を守れ」

 

そんな義父母の言葉通りに

私は今も設計事務所に通っている。

 

夫の奇行により

社員の信頼を失っている以上

その言葉もあながち

嘘ではなくなった。

 

社員の夫に対する軽蔑の目が

社内でも増すいっぽうだ。

 

 

別居から4ヶ月が過ぎていた。

 

朝いつもの通り

出社した設計事務所。

 

その日はいつもと

なにか空気が違っていた。

 

いつもなら

各々仕事の準備に

取りかかっている5人の社員たち。

 

がしかし

その日はちがった。

 

ガラス張りの応接室。

 

中を覗くと

夫と社員の木村がいた。

 

彼は

義父が所長の時代から

30年以上うちの設計事務所で

働いている。

 

事務所には

なくてはならない存在だ。

 

「いったいなんだろう…」

 

ガラス越しでも伝わってくる

二人の尋常ではない空気に

私は胸騒ぎがした。

 

他の社員が言った。

 

「木村さん

事務所を辞めるそうです」

 

「嘘でしょ」

 

ありえない…。

 

辞められたら事務所がまわらない。

それほど彼はこの事務所にとって

大事な存在だった。

 

一時間も経った頃

木村が応接室から出てきた。

 

心配そうに見つめる私に

彼は申し訳なさそうに軽く頭を下げ

事務所を出て行ってしまった。

 

遅れて出てきた夫。

 

「どうしたの?なにがあったの?」

 

「あいつ、辞めるんだってよ!」

 

夫は吐き捨てるようにそう言った。

 

「なんで?理由聞いた?

ちゃんと話し合ったの?」

 

矢継ぎ早に聞く私に

 

「しらねえよ!

辞めたきゃ辞めりゃいいんだよ!

俺に一度でもたてついたやつは

この事務所にはいらないんだよ!」

 

夫がゴミ箱を蹴り上げる。

 

「なに言ってるの。

木村さんがいなくちゃ

この事務所は回らないって。

木村さんとちゃんと話し合ってよ!」

 

「うるさい!!」

 

夫にはなんでこんな簡単は話が

通じなくなってしまったのか。

 

自分だってずっと木村には

感謝して大事にしてきたじゃない。

 

もうこの人は普通じゃない。

 

木村が帰宅する駐車場

私は彼を呼び止める。

 

「なにがあったの?

辞める理由ってなんですか?

所長はなにも教えてくれなくて」

 

「奥さん、すみません。

私が今辞めたら他のみんなに

迷惑がかかるって事はわかってます。

だけどこれ以上

所長にはついていけない」

 

「それこないだの視察旅行や

クシーナのことが原因?

それなら私が所長に言って

これからはそんなことないように

するから今回だけは思い留まって

ください。お願いします」

 

「そのことだけじゃありません。

所長、不倫の噂が立ってから

変わってしまった…。

奥さんに対する態度もだけれど

俺たち社員に対しても

変わってしまった。

所長にとって自分たちはただの駒。

社員を人間扱いしなくなった所長には

もう付いていけないんです」

 

思い当たることが多々ある私は

返す言葉が見付からない。

 

「そのことを

昨日所長に思い切って話しました。

そしたら所長が俺にたてつくなら

ここにいなくてもいい

そう言ったんです」

 

「所長から辞めろって言ったの?」

 

「私は年だし、どうせ辞めないって

高をくくってたんじゃないですか?

それで今朝所長に辞表を出しました。

奥さん、ごめんなさい。

彼は所長失格です」

 

いつもは控えめな木村が

私の目を見てそう言った。

 

「お願いします。

私が所長をなんとかするから。

どうか残ってください」

 

「…奥さん

彼は女性問題が起きてから別人だ。

横柄でワンマンで自己中で。

奥さんがいくら説得してももう

あの人は変わらない。

いや変われない。

変われないあの人には

もう付いていけない。すみません」

 

その後辞めるまで

木村と社長が

この件で話し合うことは

一度も無かった。

 

引き継ぎが終り

彼は辞めて行った。

 

これから事務所は

どうなっていくのだろう。

 

「彼は所長失格」

 

その言葉だけが

私の頭に残って消えない。

 

事務所の行く先を

暗示しているようで怖い。

 

事務所をどうしよう。

 

夫の目が覚めるまで

私が事務所を守ると義父に約束した。

 

浅見家のため

強いては私の子供たちのため。

 

事務所を守ることは

愛する我が子を守ること。

 

夫がそれをしないなら

私がやるしかないのだ。

 

やるしかないのだ。