2020年5月3日日曜日

グスタフ・マーラーの音楽 ~天の声を聴くこと~

 こんにちは、今日はゴールデンウィーク2日目です。朝から散歩に行きましたが、広い空を見上げながら春風に当たるのはとっても気持ちがいいですね~しかし歩いていたら暑いくらいでした。このまま地球は温暖化していくのかー??と思う今日この頃です。
 
 マーラーの音楽はみなさんどのように感じますか??私はマーラーの音楽について、美しい、とか官能的だ!とかそういった言葉では語れないのかなと思います。マーラーの曲は曲の背景を知ってこそよりさらに、その曲から学ぶものがあるような気がします。まずはマーラーの作曲に対する根本的な理念から、思ったことを書いていこうと思います。
 マーラーはバウアー・レヒナー(1890年マーラー30歳の時に出会った、マーラーより2歳年上のヴィオラ弾きでした。そこから妻となるアルマと結婚するまでの12年間、彼女と深いプラトニックな愛情で結ばれることとなります)に
 「人は作曲するのではなく、作曲されるのだ。・・・創作ということ、作品が出来上がるということは、最初から最後まで神秘的な行為だ。なぜなら人は自分自身、意識できぬままに、自分の外からやってくる霊感によって、何かを作らねばならないからだ。そしてその作品については、どのようにして出来上がったか、後からはもうほとんど把握できないのだ」
 またマーラーはアルマと結婚する前に婚約していたアンナ・フォン・ミルデンブルクにこう語っています。
 「・・・そこでは人は、いわば宇宙が奏でる一楽器に過ぎないのだ。・・・そうした瞬間には、僕はもはや僕のものではないのだーもちろん君のものでもない!」
 この言葉から、作曲をしている時間はもはや自分のものですらないとマーラー感じていたと分かります。他の偉大な作曲家がそうであったように、マーラーは大きな宇宙からの霊感を得て作曲している、という感覚を持っていました。
 この自分の力ではどうすることもできない感覚、人間が世界を感じるのではなく世界が人間に何かを感じさせるという感覚は私も宇宙や物理について考えるときに感じるのでなんとなく分かります。普段目に見えているもの、聴いているもの、時間など、感じているものはすべて絶対的なものではなく不確かなものだということが分かるからです。例えば有名なアインシュタインの相対性理論は物体が速く動けば動くほど時間が遅れるということを証明しています。時間でさえ不確かなもので絶対的なものではない。それでは自分が今感じている世界はいったいなんなのだろう?そう考えたときにいま自分が見ている世界は、大きな力(いうなら神様?)にこういうふうに世界を見せられているのではないか、と感じます。(なんだか自分でもいっていることがよくわかりません!(笑))マーラーは大きな宇宙(神)から、絶対的な本物の音楽、音楽の本質を得ていたのではないかと思います。
 またマーラーが誕生した10年後、1870年に生まれた日本の哲学者である西田幾多郎は、上記の感覚を純粋経験という言葉で語っています。純粋経験とは、対象の本質にふれることです。それは人間の思慮や思考ではなくものごとを直感/直覚で感じるということです。それはまさにマーラーが、自我を無くし一宇宙の一部(ものごとの本質ともいえると思います)となり作曲していた感覚と同じだと思いました。
 西田幾多郎はモーツアルトについてこうも語っています。
 「モツァルトは楽譜を作る場合に、長き譜にても、画や立像のように、その全体を直視することができたという。単に数量的に拡大させられるのでなく、性質的に深遠となるのである。例えば我々の愛に由りて彼我合一の直感を得ることができる、宗教家の直覚の如きはその極致に達したものであろう。」
 モーツアルトのような音楽家は、宗教家と同じ境地に生きており、偉大な作曲家が曲を作るときの直覚と、宗教家が自他をなくすときの直覚は同じだという意味です。長い譜を見ただけでどうやって全部把握できるのかは私にはさっぱりわかりませんが、思考ではなく宇宙からの霊感を得て、感覚や感性で楽譜を把握していたのでしょう。やっぱりモーツアルトは天才ですね。
 そういったモーツアルトのような神業は自分には無理だとしても、偉大な音楽家たちが感じていた、大きな力に感覚を澄ませてみることは時には自分のためにも、また人のためにもなるのではないかと思います。人は他人を、思考によって操作しようとすることがあるように感じます。例えばテレビでよく聞く「作り笑い」や昔オペラハウスで行われていた「サクラ」などが分かりやすいかと思います。人間はカセットテープのスイッチを押すと「カチッ サー」と音が流れるように、そういった「作り笑い」や「サクラのブラボー」に反応してしまうことが分かっています。どういうことかと、オケを聴きにいって、聴いている途中は「あれ、なんかいまいちだな~」と思っていても、曲が終わったときに誰かが「ブラボー!!」と叫び拍手喝采でマエストロが何回もステージを行ったり来たりすると「いや素晴らしい演奏だった」と脳が勘違いしてしまう、ということです。そのように自分の思ったこと、西田哲学でいうところの「直覚」が他人によって操作されてしまうことがあります。オーケストラの演奏は分かりやすい例ですが、日常でも気が付かないうちに物事を色眼鏡をかけて見てしまい、本質が見えなくなっていることがあるように思うのです。人と向き合うということは、他人の評判やその人の肩書、学歴、見た目、表情そういったことではなく、心を研ぎ澄ませてその人の本質を感じ取ろうとしてみることではないかと思います。それでもその人のことを誤解してしまったり、理解できないこともあるので人間って難しい。それに人は一分前に考えていたことと今考えていることでは全然違うこともありますよね。
 なので人の過去や肩書ではなく、いまこの瞬間に、直感から感じ取った為人が一番真実に近いのかなーと私はなんとなくと思います。
 また思考や言葉によって自分の印象をよくしたり、自分の思考で他人の感情などを操作できるなんていう考えは、自分も幸せにしないと思います。そういう方は周りの人がみんなそのように考えているのではないか?という色眼鏡をかけて世界を見てしまうと思うからです。人を信じられなくなると自分もきっと苦しいはず。
 マーラーの音楽が宇宙の一部であり、芸術が時に神からの予言ともいえるものを表現することがあるのであれば、この世界にはなんて美しい愛の本質があるのだろうと直感的に感じることもできます。(交響曲第5番の4楽章アダージェットなんか聴くとそんな気持ちになります・・・!)この交響曲第5番の4楽章について、マーラーの「アルマに対する愛の告白」という指揮者のメンゲルベルク・メモが残っているようですが、マーラー自身はそういう気持ちでは作曲していなかったようです。作曲が宇宙からの霊感を得ることであれば、曲に意味づけをして作曲することはきっとなかったのでしょう。あったとしても、作曲し終えてから事後的にそのようにマーラー自身が自分の曲について解釈することはあったかもしれません。
人はこの世界を生きているのではなく、大きな力によって生かされている。そんなことをマーラーの作曲に対する理念から直覚を得ることができました(西田哲学風!(笑))
 自分の意志や思考はちっぽけなもので、こうして今わたしがブログをかいていることも大きな力によって書かされている?!のかもしれません。生きるって奥が深い。

アバド指揮 マーラー作曲 交響曲第5番
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2020年4月29日水曜日

グスタフ・マーラー作曲 交響曲第1番「巨人」の素晴らしい演奏が・・・!

 コロナで気軽にお出かけもできませんね。元々お家大好きですが!(笑)
今日は仕事が休みだったので、一日家にいました。なんか聴きたいな~と適当にYouTubeで検索したグスタフ・マーラー作曲 交響曲第1番「巨人」クラウディオ・アバド指揮の1989年のライブ動画を聴きました。一楽章の出だしの緊張感、管楽器のソロの方の緊張感、なんかとってもよい~と感じました。どうよかったのかは言葉で言い表せないので、あとでリンクを張りますので是非聴いてみて下さい!(笑)
 
 グスタフ・マーラー作曲 交響曲第1番「巨人」はマーラーが28歳の時に作曲されたものです。わー私とちょうど同じ歳・・・!!私と同じ歳の時にこんな素晴らしい曲を作曲していたなんて、私ももっと日々を大切に生きなければ・・。そんな気持ちになりました。
 
 マーラーはユダヤ人の商人であった父と、ユダヤ人の石鹼製造業者の娘であった母のものに生まれました。こんな天才が音楽と全く関係のないところから生まれてくるなんて!なんだか勇気をもらいました。(なんのだろう?(笑))
 マーラーの幼少期はユダヤ人の地位向上の期を上手く捉えた父の事業の成功のために、イーグラフにおける上流階級の暮らしをしていました。しかしその父は、家柄がよく教養があった妻(マーラーの母)に嫉妬し身体的な虐待を妻にしていたのではないかという話もあります。そういった事情でマーラーは父との関係はあまりよいものではなく、代わりに母に固定観念ともいえる愛情を抱いていたそうです。足が悪かった母の真似をして、無意識に足を引きずって歩いていたという逸話もあります。母に対する少し異常なまでの執着は大人になってからも残りました。しかし一方でマーラーの父はマーラーの音楽の才能を見出し、音楽を学ぶための環境を提供し全面的に協力して自分自身が果たせなかった、芸術家として世界のステージに立つという夢を息子に託したという話も残っています。
 また、マーラーの幼少期には13人いた兄弟の半数の7人が様々な病気で亡くなってしまうという経験もしています
 マーラーの人柄はについては、一徹で強い意志があり、自分の追い求める音楽には決して妥協しない、という強い心を持った人物でした。マーラーの妻であったアルマの回想記にはこんな言葉が残されています。
 「何であれ邪魔の入ることに我慢ならなかった。一にも仕事、二にも仕事。不屈の精神。個人としての楽しみを捨ててかえりみぬ禁欲。とどまるところを知らぬ探求また探求。これが、明けても暮れても繰り返される彼の生活だった!・・・・自分ではいっぱしの菜食主義者気取りでいる、この天才という肉食獣たちよ!」
 マーラーはここに書かれているとおり、「菜食主義者」でした。そして山歩きが日課でもあり、体も丈夫でした。
 一方でマーラーが50歳、亡くなる1年前に神経症的になり、フロイトの精神分析を受けたこともあります。原因は妻アルマと建築家ヴァルター・グロピウスの不倫であったとされています。

 
 またマーラーはユダヤ人であり、常にアウトサイダー(部外者)だとの意識があったようです。後年マーラーは「私は三重の意味で故郷がない人間だ。オーストリア人の間ではボヘミア人、ドイツ人の間ではオーストリア人、そして全世界の国民の間ではユダヤ人として」と語っています。マーラーが生きた時代はユダヤ人への偏見が根強い時代でもあり、あのリヒャルト・ワーグナーによって1880年(マーラー20歳)の時に書かれた「宗教と芸術」では
 ユダヤ人種は、純粋な人間性とそこに含まれるすべての高貴さに対する生まれながらの敵だ、と私は考える。我々ドイツ人は彼らの前に破滅することになるであろう

とまで述べています。しかしユダヤ人は多くの素晴らしい芸術家、物理学者等を輩出しており、現代ではユダヤ人の世界に対する貢献を知らない方はいらっしゃらないかと思います。
マーラーがその生涯感じていたユダヤ人として感じざるを得なかった負い目のような気持ちは、もしかするとこの50年という短い人生を駆け抜け素晴らしい音楽を生み出し続ける原動力となったものかもしれません。私もいまのところ負い目だらけ?の人生なので、他の人より原動力があると思って頑張ります!(なんの宣言)

 長くなりましたが、冒頭お話していたグスタフ・マーラー作曲 交響曲第1番「巨人」クラウディオ・アバド指揮の1989年のライブ動画のリンクを張りますので、ぜひぜひ聴いてみて下さい。これがただでしかも途中で広告に邪魔されることなく聴けるなんて~泣







グスタフ・マーラーの音楽 ~天の声を聴くこと~

 こんにちは、今日はゴールデンウィーク2日目です。朝から散歩に行きましたが、広い空を見上げながら春風に当たるのはとっても気持ちがいいですね~しかし歩いていたら暑いくらいでした。このまま地球は温暖化していくのかー??と思う今日この頃です。    マーラーの音楽はみなさんどのよう...