黄昏に飛び立つ

 

 ある夜、信号待ちをしていた。

 こんな郊外の町で、こんな時間に走る車の数は多くない。

 空を見上げると、目の前を双子座流星群の火球がゆっくりと横切っていった。それはもう白々しいくらい、「さあ、願え。」と言わんばかりの速さで。

「全部うまく行け。」

 これ幸いと願う自分を見付けた。今さら神も仏も霊魂も信じたりはしない。私が願ったこと、そのほとんどが叶うことはなかった。しかしそれもこれも、今日この日の為の前振りだとさえ思う私を。

 つい最近まで、もはや人生の全てを棄て、金も、幸福も、家族も、命も要らない。そう思っていた私が、いまや節操もなく全部うまく行けなどと願うことの滑稽さを思った。

 産気づいた妻を病院に送り届け、一旦家に帰る途だった。急いで出掛けてきたから、手袋をするのを忘れていた。ハンドルを握る手もかじかむような寒い夜だった。こういう夜の翌日は、きっと晴れるだろう。

 一体、何を以て自分を達観した人間だなんて思い上がっていたのだろう。数千万も投機に費消するやけっぱちさか、ドヤを転々とした時期があるからか、ヤクザの可能性のある人間の事務所に行ったことがあるからか、ちょっと海外のスラムに顔を出したからか、親友の死を眼前に経たからか、ほんの数か月バイクで旅に出てみたことがあるからか。

 どれもこれも達観とは程遠い、「世にありふれた小話。」に過ぎない。現に破水した妻を車に乗せて運ぶくらいのことで背中に脂汗を垂らすような小心さだ。それとも私が弱くなったのか。きっとどれも違う。単に失うものが出来た、たったそれだけのことで、私自身に何ら変わりは無い。ただ状況だけが藁にも縋らせていた。

 

 *

 

 健常の人には中々理解されないことだが、私は元々、基本的に薄っすら死にたい気持ちを抱えて暮らしてきた。「生きているだけで苦痛」なのだ。慢性化した炎症のように、それ自体特に理由はない。

 ただ私には、生きるのに理由が必要だった。趣味でも、仕事でも、誰か大事な人の為に生きなければいけないでも何でもいい。生きる苦痛を贖うだけの理由が。

 学生時代も挫折の連続で、それはそれなりに辛いこともあった。けれど普通のサラリーマンとなり、受験や就活といった目下の目標を見失った後は気を紛らわすようなものもさして見当たらず、ずっと「一体、何のために生きているんだろう?」という気持ちに苛まれてきた。

 無能の社会不適合では、立身出世を夢見て仕事にまい進することも出来なかった。婚活をしてみても、誰にも愛されることはなかった。趣味のようなものを探す努力もしてみたが、見つからなかった。

 誰にも求められず、自分さえ何のために生きているかわからないまま東京で過ごす日々は、着実に心を擦り減らしていった。

 婚活で出会う女に金を遣っているうちに貯金の残高もなくなり、やはり自分のように価値のない人間が愛されるにはカネが必要なのだと思った。そして、リスキーな投機を繰り返し、あっという間に2千万円という多額の債務を抱えてクビが回らなくなった。

 

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 首を吊った。失敗した。縄が切れたからだ。次はもっと丈夫な縄でやろうと誓った。

 しかしいずれにしても「実行できた」。希死念慮を持つ者の中でも、思い描くことと実行することには大きな隔たりがある。「オレは本当にいつでも死ぬことの出来る人間なんだ!」という思いを確かにし、ずいぶん勇気づけられた私は破産手続きをすることにした。

 

 法テラスに連絡して弁護士と破産手続きを進め、裁判所から「お前の破産を認める」という通知が来たのは2019年も半ばに差し掛かった頃で、私は30歳になっていた。

「破産」という言葉の強さに、「これが不幸の底だったら良いな」と少し楽観的に思っていた私だったが、そこから坂道を転がり落ちるように不幸が立て続けに起こった。

 職場で上司に暴力を振るわれ警察沙汰になったり、身内が亡くなったり、別の身内がニュースになるような事件の当事者になったり、海外で車にひかれ、その勢いでインフルエンザに罹り入院したりした。短い期間に事故って負傷したり損害を負ったことも一度や二度ではない。

 

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 もちろん仕事がうまく行くようなことはないし、婚活をしたって破産者で更に未だ債務のある人間を愛する異性なんているはずもなかった。そうして鬱々としているうちに、そういう態度に愛想の尽きた友人たちの多くは私の下を去り、余計に孤独を深くした。

 もう何をやってもこの人生は上手く行かないと悟り、いい加減に死んだ方が良いと思った私は、前回の失敗を活かしAmazonで丈夫な大型犬用のリードを購入した。

 

 そんな折、婚活仲間として意気投合し、一緒に遊んでいるうちに希死念慮を打ち明け合うようになり親しく付き合っていた友人から連絡が来た。私の数少ない、大事な親友だ。

 それは、「一緒に死のう」という申し出だった。「さもなければ一人で死ぬ」という話だった。

 結局、思うところあった私はその申し出を断った。その代わり、友人の自死を看取ることを約束した。

 看取る。つまり友人が自死に失敗したときには、私が殺すということだ。

 私も自殺をしくじった人間だ。自殺の恐ろしいところは、死それ自体ではない。失敗して、欠損した心身で生き残ってしまうことだ。少しでも苦しまずにいけるよう、寄り添っていたいと思った。何があっても味方でいると誓った友人が君にはいて、クソみたいな人生だったかもしれないが、孤独ではなかったと思っていて欲しかった。

 

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 そして友人は死んだ。ホテルの一室で首を括った。傍らには私がいた。

 私は服役することを覚悟していた。調べる限りにおいて類似の事件はみんな実刑になっていたからだ。

 しかしそうはならなかった。友人が書き残した遺書に、しきりに私のことを庇うような言葉が書かれていたからだ。遺書は、私に書かされたものではないことを示すために、自宅に届いた携帯料金の請求書の裏に書かれていた。

 そして遺書には、友人の大事な人に私がメッセージを届ける役目を託すという旨が書かれていた。

 警察から解放された私は、確固たる希死念慮を携えて、友人に託された遺書に書かれた内容を遂げていった。遺族や友人に会い、顛末を伝えた。

 会うのを拒んだ人もいたし、友人の死で心が落ち着くのに時間を要した人もいたが、おおよそ「これ以上はもうできないな」というところまで遂げるのに、半年以上の月日を要した。

 

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 2020年の末、私自身、満足していた。

 私は友人にとって特別な存在になることができた。それだけで苦しんで生きてきた甲斐があったというものだ。そしてもう、私の生きる意味も役目を遂げた。

 

 私は嬉しかった。「死を任せる。」という他の誰にも担えない役割を貰ったことが。
「生を任せる。」こと、即ち共に生きてゆくことよりずっと容易だが、しかし人生を棄てる覚悟をした私でなければ担うことのできない役割だった。
 喉から手が出るほど欲していた、「私の意味。」そのものだ。私のこれまでの人生にはそんなものしか無かったが、しかしそれでも確かに私が得た意味なのだった。

 

 ここから先にあるのは更に苦しく孤独な未来しかないと思った。私自身の心もいよいよ限界を迎えていた。

 もういつ死んでもいいと思っていたが、最後にせめてやり残したことを全て終えてからにしようと思った。

 

 早々に死ぬのなら、もう働く必要はない。

 職場から逃げ出し、仕事を放り出した私は、ブログにこれまでの事の経緯を書き残した。ずっと書きたいと思っていた小説も書き上げた。ほとんど誰にも読まれることはなかったけれど、別にそれで良かった。

 そしてバイクを買って旅に出た。行きたかった場所を見尽くし、この国の何処を探しても希望の無いことを確認して、そして友人と同じホテルの一室でドアノブに首をかけて一人で死のうと思っていた。

 それが2年前のことだ。

 

 *

 

 出発の日、冬季用の装備もままらなないままバイクに飛び乗った。東京の12月、その中でも特別寒い日でさすがに躊躇した。敢えてこんなに寒い日を選ぶ理由は何だ? そう問いかける私に、「もう時間が残されていないからだろ。」と答える私がいた。

 この人生に希望は残されていない。生きて呼吸をしているだけで火の粉を吸わされるような苦痛を覚えていた。

 このまま部屋でまんじりともせずいようものなら春までは生きてはいられない。今すぐ死ぬ理由も、旅に出ない理由もいくらでもあった。そういうものを振り切るのに、ちゃんとした準備をすることは出来なかった。

 

 家を出る前、腹を膨らませる為に牛乳を飲んだ。まだ中身は相当余っていた。しかし牛乳の消費期限を気にするような者は、ここから先の人生を少なくとも当面生きて行こうとする者だ。私はそうではない。自分に言い聞かせるように牛乳パックを冷蔵庫にしまった。全てが些細でどうでも良いことだった。

 

 東京から一旦新潟に出て、冬の日本海を南下し、九州を一周し、沖縄へ行った。

 

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 雪解けを待って東北を抜け、北海道を反時計回りに一周し、小樽のフェリーに乗って新潟に戻り、東京へ帰って来た。

 大雨の日も雪の日も、風の日も氷点下の日も、宿が見付からない日もあった。凍った道も崩壊した険道も通ってきた。スリップして転ぶことも凍傷で手足が紫に腫れる日も、腱鞘炎や捻挫で痛みに堪えて走った日もあった。だが、東京で死んだように生きるよりずっとマシだった。とにかく前に進み、少しでも多くの景色を見て、希望が無いことを確認しようとした。不幸中の幸いなことに、破産してから特に散財していなかったお陰で手元にはいくばくかのカネが貯まっていた。コロナ禍のお陰でホテルも安かった。

 

 そうして全ての都道府県を見て回り、日本を一周し終わったのは2021年の春頃だ。

 数か月にわたる旅の間、SNSにその模様を呟いていると、当地に住むフォロワーの人たちが声をかけてくれて物資を提供してくれたり、ご飯を奢ってくれたり、宿をとってくれたりした。

 

 本当に有難いことだったが、それでも今後に希望を見出すようなことは無かった。

 多くの人は「生きて欲しい」と言ってくれたけれど、だからといって彼らが私の人生に責任を負うこともなければ、依然として私は孤独だった。私は罪を背負っていて、債務があって、仕事はない。

 日本中を探し回っても希望が落ちていなかったように、今後そういう類のものが現れることは無いだろう。それを確認し尽くした、と思った。

 旅の間見たどんな絶景も私の心を埋めることはなかった。景色は、しょせん景色でしかなかった。

 

自分のことを正当化する理由がどうしても要るんだ。この世かあの世かわかんないけどさ、いつか引っ張り出されて、理由を答えろって責められるような気がするんだ。自分のしたことにちゃんとした申し開きをしてみろ、いつなんどきそう言われるかもしれないじゃないか。(ポール・ウィルス ハマータウンの野郎ども)

 

 それ見たことか。本を読んで人生が変わるだと。旅に出て人生が変わるだと。全て世迷言だ。その証拠に、どうだ。この人生を見てみろ。何一つ解決していない。寧ろ状況は悪化した。ここからどう希望を持てというのか教えられるものなら教えてみろ。

 

 旅から帰って来て、再び何編かの小説を書いた。今しばらく生き延び、この世に私たちの死生観を問うてみたかった。

 そうすることに一体どれだけの価値があるだろう。ブログに私とH子との経緯を書いてから、「救われました。」というメッセージを何通か貰った。反対に、「やはり私の人生は救われないと思いました。」という人もいた。誰かを救いたいわけでも、人の生死を後押ししたいわけでもない。

 ただきっと、世の人が私たちを「どうしたら救えたのか」、話をしているのを見て、笑いたかったのだ。バカらしいことだ。一人の人を救うのには人生を擲たなければならない。人生の袋小路に入った人を片手間に救えるはずがない。私たちのこの世界を包括する現世のルールは完璧ではない。そこを逸脱した人は誰にも救えない。ならば放っておいてくれ。私たちが自ら死を選ぶことに口出ししないでくれ。手出ししないでくれ。私たちの命は「私たちだけのもの。」だ。

 私が言いたかったのはそれだけだ。それを手を替え品を替え表現し続けた。その結果は、相変わらず箸にも棒にもかからなかった。生涯、陽の目を浴びない書き手は掃いて捨てるほどいる。だから年末まででいい。年末まで耐えたら、地獄の鬼を目の前にして申し開きをしてやろうと思っていた。

 

 *

 

 ある日、近所に住んでいるというフォロワーの女性から連絡をもらい、会うことにした。これまで何度か日程の提案を受けていたが、気が乗らず断っていた。その日、私が彼女の誘いに乗ったのは、単に気の迷いだったからという他ない。

 しかし会ってみると、これまで会って来たどんな女よりもひときわ美しい人だった。彼女の顔に見覚えがあった。人前に立つ仕事をしていたからだ。

 彼女は、「あなたのファンです。」と言った。ブログも、Twitterも、配信も、全部追っていて、そして旅が終わる頃になって私の生活を追えなくなるのがイヤになってしまったのだという。そして彼女は、「私は、あなたの人生に責任を負う覚悟があります。」と言った。

 そんなことはあり得ないことだと思っていたが、しかし既に騙されても殺されても失うものの何一つない私は、彼女に言われるがままデートを重ねた。そうして数か月経った頃、気付いたときには結婚していた。

 彼女のような聡明で美しい女が、私のようなこの世の宿痾を煮凝りにしたような男を好くはずがない。あり得ないことが起こったのだと思った。同時に、安寧を棄て、働きもせず無能で希死念慮に取り憑かれた男を選ぶ彼女のことを、一体なんて業の深い狂った女なのだと思った。この業を背負うに到る道程を思うと悲しくなった。私と同棲した日、あれは妻が自殺した日なのだと今でも思うことがある。

 結婚する前、妻は「もしあなたが働かなくても、私が仕事を増やせば大丈夫。」と言っていた。そういう言葉に増長してヒモとなる男は数多いるはずだ。狙って言える言葉ではない。翻ってその誠実に応える為、私は社会復帰することになった。

 働くことそのもののブランクもあり、今までやったこともない経理の仕事を1から覚えるのは、記憶力の弱い私には少々荷が勝った。いずれにしても相変わらず私は無能者のままだった。ダメな男には何をさせてもダメなのだと改めて思った。

 妻は私に、「あなたは美しく死ぬタイミングを逃したんだから、恥ずかしくてみっともなくても泥臭く生きないとダサイよ。」と言っていた。妻にはそれを言う資格があった。

 新人賞には懲りずに4本送った。いずれも箸にも棒にもかからなかった。社労士試験にも、宅建士試験にも落ちた。同棲してしばらくしても、私たちには子どもが出来なかった。不妊治療の保険適用に合わせて、クリニックでの検査を行った。結果、私の高度乏精子症を原因とする不妊だった。

 人生は、依然私にとって大変な難事業だった。

 

 幸いなことに不妊治療の結果はすぐに現れた。それは私たちの色んな事情を加味すると本当に僅少な確率だった。そこから、ただ粛々と子どもを受け入れる準備を進めた。

 私たちが妊娠の報告をした人は多くない。直前になってもなお、「これは私の人生だから、何かが起こって悪い結果になってもおかしくない。」と思っていたからだ。

 友人たちからベビー用品を譲り受け、もしものときの為に車を買った。何かを受け入れる度、手渡す人たちは「おめでとう。」と無邪気に口にした。これらが転じて大きな呪いになることがある。私はその一つ一つを冷え物と見做し思い入れを抱かないように努めた。

 結婚したところで何かが大きく変わったわけではない。希死念慮だって今でも傍らに抱えている。私はここ十年の諸々を経てもなお、何一つ成長も更改もすることなく、ただ望外の幸運のみによって報われてしまった憂いがある。

 映画でも小説でも、物語には「魔法」が存在する。普通ではありえないような奇跡が起き、それが人前で語るに足りる物語になる。しかし魔法を使った者は、何かしらの代償を支払わなければいけない。

 私の人生は出来合いの物語ではない。確かにそうだが、私はいつか身分不相応の幸運に恵まれたその代償を支払わなければいけない日がやって来るのではないか、と身構えていた。何が原因となって瓦解してもおかしくないと思い、冷え物を抱えて日々を経ていた。

 

 そして、あっという間に十月十日の月日が流れた。

 私はずっと、「誰かの特別になりたい。」と思っていた。自分のことを特別にして求めてくれる誰かに愛され生きることは、思っていた以上に私を楽にしてくれた。それは妻も同じだったようだ。

 中国の陰陽五行によると、人生には季節があるという。生まれてから10代後半くらいまでが「玄冬」、そこから30代前半で「青春」が終わり、50代前半までが「朱夏」、70歳前半くらいまでが「白秋」、そして70歳後半以後が再び「玄冬」と遷り変るのだという。それにどれほどの意味があるのかは知らない。

 ただ結婚してしばらく経ったある日、「誰かの特別になりたかった私」が死んだ。という実感があった。そして何となく、「青春が終わったんだ。朱夏がやってきたんだな。」と思った。きっと過ぎ去った季節のことを考えるのは意味がないことだと思えるようになっていた。

 最終的に子どもが出来ても出来なくても、私たちにとってそれはどちらでも良いことだ。ただいつかこの先、数十年先の未来で、「あのとき、私たちは一緒に不妊治療も妊娠期間も頑張ったんだよね。頑張った結果だったら、仕方ないね。」と受け容れるための通過儀礼だと思うようになった。

 そして予定日の三週間も早く妻が産気づいたその夜、私は空に双子座流星群の火球を見て、我が子は「星の下」に生まれるのだと思った。翌早朝、病院から連絡があり駆けつけると、私は父親になっていた。寒い夜の翌朝は晴れるものだ。産院の窓から眩しいくらいの朝日が差し込んでいた。

 

 生まれたばかりの我が子の小さい手を握ると、軽く握り返してくるのを感じた。新しい命だ。妻に似て大きい目をしていて、鼻は私、口は妻、耳は私、そして二人に似て色白で、紛うことなく私たちの子だ。

 新しい物語が始まるのを覚えずにはいられなかった。そして、私の物語が終わっていくのだということも。私も妻も、もうこの物語の主人公ではない。

 私はずっと、「一体、何のために生きているんだろう?」という気持ちに苛まれて生きてきた。考えても栓の無い問いだ。考えても考えても、振り返って結果を見なければ人生の形を捉えることは出来ない。ミネルヴァの梟は、迫りくる黄昏に向けて飛び立つのだ。

 朝焼けとともにやってきた我が子は、私たちの放った梟を何とか捕まえるだろう。しかしきっと、彼もまた自分の実存について同じ問いに苛まれる。旧時代を生きる私たちが得た答えをそのまま教えても、もはや陳腐化していて、新しい時代を生きる彼にとって役立つことは決して多くないからだ。

 しかしそれでいい。小さなヒントを手掛かりにして、これから彼は彼自身の物語を作り上げていくんだろう。だからきっと私の想像もつかない話になる。それが楽しみで仕方ない。

 

 悩んで悩んで、愛しい我が子に名前を授けた。朝焼けを意味する言葉だ。

 妻が私にとって、私が妻にとって太陽であるように、そして私たちがかつて誰かの太陽だった日があるように、この子の存在もまた誰かの闇夜を明かす希望の光であって欲しい。人の心を温かく照らすような子に成って欲しい。我が子の名前にそういう願いを込めた。

 私は自分の名前が好きだ。私と親との関係は、正直あまり上手くいったとはいえない。ただ、自分が望まれて生まれてきたのだと目に見える形で信じるのに、ちゃんと由来のある名前は充分だったと思う。この子も自分の名前を好きになってくれたら良い。

 

 *

 

 この世界のどこかに、ある映画があった。

 それはとても魅力的で、ハッピーエンドの素敵なストーリーだ。登場するのは魅力的な主人公。気のいい仲間に恵まれていて、カッコイイのか悪いのか、賢いのか少し抜けているのか、フィジカルが強いのか弱いのか、そういうことは判らない。だけど観客はみんな彼のことが大好きだった。

 セカンドシーズンの公開はまだまだ先だ。だけど観客はもっとこの魅力的なストーリーの世界に触れたい、主人公を作り上げたバックグラウンドを知りたいと願った。

 そこで発表されたのが、主人公の父親の青年時代にスポットライトを当てた短編のスピンオフだ。本編に少しだけ登場して主人公にちょっと示唆のあることを呟くだけの、少し太っていて何処にでもいるような冴えない雰囲気の中年オヤジだ。だけど観客はみんな知りたい。どうしてあのオヤジにはこんなに美しく優しい妻がいて、こんなに魅力的な子がいるんだろう? 本編で主人公に言ったあの示唆には一体どういう意味があったんだろう。

 そして満を持して公開されたエピソードゼロだったが、評判は最悪だ。

 不必要に悲哀に満ちててガッカリ、下らない言い訳ばかりのダメオヤジに失望。こんな悲惨な話をわざわざ見せるな、完全に蛇足。私たちは一体何を見せられてるの? あのオヤジはラストで死んどいた方がキレイだった。そういう☆1の散々なレビューで溢れている。

 

 だけど、そんな話にも☆5をつけてくれる人たちがいた。妻や、そして何年にも亘って、有名人でも何でもない私のブログを読んでくれた人たちだ。

 そういう人たちが有形無形に垂らしてくれた糸を手繰り寄せ、私は生き長らえてしまった。後悔した日がないとは言わない。ただ、今は感謝したい。無邪気に「これはハッピーエンドだ。」と言うには憚られる哀しみがある。だけど私たちの過ごした日々は決して無駄ではなかったのだと今では信じられる。

 

 これが他の誰にも語り得ない私の過ごした青春だ。こんな話を、今まで読んできてくれてありがとう。

 

 

as paisen in tokyo

「パイセン! お久しぶりです。」

 

 木島崇は、カフェに現れると快活に笑って見せた。

 高い身長に健康的に黒い肌、整った顔は男ながら色気を感じてしまう。ネイビーにストライプの入った既製品のスーツはきっと高い物ではないのだろうけれど、オーダーメイドなんてしなくたってすっきり身体にフィットしているのは、彼のスタイルが理想的だからなのだろう。

 確か、4つ年下の28歳。同じ歳の頃の私はこんなに爽やかだっただろうか? きっとモテるはずだ。そんなことにしか同性に対して判断基準のない自分がイヤになる。

 

「ねえ、久しぶりじゃん。久々に連絡もらってちょっとびっくりしたんだけど。マルチ? 宗教? 」

 

 彼は、アハハと笑って気まずそうな表情をした。

 

「そう思われても仕方ないですよね。別に全然、大したことじゃあないんですよ。」

 

 ただお酒飲みたかっただけで。でもこんなご時世ですから、こういう健康的な場所しかないんですよね。そんなことを言いながらメニューを開いて思案していた。

 

「いいよ、オレ最近そんなにお酒飲まないんだ。お金だってそんなにあるわけじゃないからこのくらいで丁度いいよ。」

 

 そうですか。あ、アイスコーヒーで。といって彼は私に向き直った。

 

「もしかして、ご迷惑でしたか? 」

 

「そんなことないよ。オレ今すごくヒマしてるから。無職異常独身中年男性ってやつ。」

 

 *

 

 崇と知り合ったのは7年ほど前になるだろうか。青山一丁目で開催された立食形式の街コンに参加したときに知り合った。暑苦しい梅雨のジメジメした曇天の日だったと思う。

 

「えー、だっちゃん今実家から通っているの? 早く独り暮らししなよ。ダメだよそんなんじゃ。男でしょ、ダサイよ? 」

 

 社会人に成り東京で就職した後、半年ほど実家に住んでいた時期がある。大学院に通っていたこともあり同い年の学生に比べて2年社会に出るのが遅れていた。学生の頃は東京で一人暮らしをしていたのだけれど、その部屋を引き払ってからは何せ金がなかった。背に腹を変えられなかった。今思えばもっと冴えたやり方もあったのだろうけど。暮らすのに都合の良い部屋が見付かるまでの間、実家から片道2時間以上かけて都心の職場まで通っていた。それは傍目には滑稽に映ったかもしれない。

 だからといって、初対面の女にそのことを指摘される謂れはなかった。自分にはやんごとなき事情があるのだということをわざわざ他人に説明する男は私のほかにもいないだろう。

 上司が部下に諭すが如く、さもそうすることが当然のように滔滔と私をなじる女の「自己紹介カード」を見ると、32歳とあった。

 

「ああ、そうですか。」

 

 小太りの女は当時20代半ばの若造である私が取り合わないことにカチンと来たのか怒りを露わにし今にもヒステリックにがなり立てようとしていたが、話を聞いていた隣の男に肩を抱かれた。それが崇だった。

 

「あ、ボクらご飯とってきますんで。」

 

 二人でお皿を手にビュッフェに置いてある食事をよそいながら愚痴を言った。

 

「何なんだよあのババア、初対面で説教とか信じられん。これは仕事か? 」

 

「しょうがないっすよ。きっと誰にも相手にされないからイラついてたんでしょ。」

 

「……崇……くん? でいいのかな。マジ助かった、ありがとうございます。」

 

「いいんすよ。チームプレーですよ。ボク年下なんで呼び捨てでいいっすよ。あとタメぐちで。」

 

 崇は京都の専門学校を卒業した後、中古PCを修理して販売する仕事の営業の仕事をしていた。地元で就職し、最近、東京支社に転勤になったということだった。さすが客商売をしているだけあって場の空気を読むことに長けている。わざわざ助け出してくれるとは中々の快男児だと思った。イケメンだし。

 

「何人連絡先交換しました? ボクは5人です。」

 

「いや、まだ一人もできてなくて。」

 

 あちゃあ。といって彼は笑った。そうした経緯で、二人でパーティ会場を回ることになった。こういう場所では同性の友人もよくできる。それは単なる馴れ合いや慰め合いなのだが、誰にも相手にされず一人で時間をうっちゃるよりはずっと心強い。

 

「今度あっち行ってみましょうよ。」

 

 崇に連れられて、さっきの三十路女のいない人の輪の中に分け入っていった。

 

「どうも、だっちゃんっていいます。こっちは崇21歳。何の話してたんですか? 」

 

 ちょっと、どうしてだっちゃんが自己紹介するんすか! と崇は笑っていた。彼の快活な笑顔に、場の空気に「この人たちは悪い人たちじゃないな。」という微かな安堵が広がったのを感じた。

 その場の男女を交えた会話は穏やかに進み、可もなく不可もない表面的な会話をしただけだ。またしても私は女の子から連絡先を手に入れることが出来なかったが、元々人見知りの私にとってはそんなことより「特に支障なく会話が終了した。」という事実だけで一安心だった。彼女を作るだなんて話はもっとずっと先にあった。

 女の子たちが散開すると、会話の輪の中心にいた男が「ねえねえ、君ら、連絡先でも交換しようよ。」といってスマホを取り出し我々はLINEを交換した。

 男は木村、キムと名乗った。キムはDJをやりながら事業も運営していると自己紹介した。彼はその名乗った職業に相応するように話術が長けていた。身長は150cm代と小柄だったがそれを感じさせない威圧的な雰囲気を放っていた。

 私はそれが半グレみたいな人間の放つ夜の世界のそれだということを知っていた。半グレには何故かデカい奴とチビの二通りしかいない。

 

「オレ、たまに合コンとか開くからさ。今度誘うし一緒に来いよな。」

 

 夜の世界の住人であっても合コンに誘ってくれるなら構わない。とにかく彼女が欲しくてたまらなかった。

 

 数週間後、キムからLINEが届いた。新宿三丁目にあるレストランで合コンをやるから来いとのことだった。崇にLINEを送った。

「キムさん今度合コンやるんだって。お誘い来たんだけどそっちは来た? どうする? 」

 すぐに返事がかえってきた。

「ああ、そうなんですね。実は何回か断ってて。だっちゃんパイセンが行くならボクも行くって言ってたんですよね。それでかもしれないです。」

 

 崇が何度か断ったという合コンの話は私には届いていなかった。

 あれから崇は私のことを「パイセン。」と呼んで慕ってくれていた。きっと転勤したての東京の土地で、ほとんど最初に知り合った仕事外の友人だったのだろうと思う。そういう相手にとりあえず懐いてみる姿はひよこみたいで愛らしく思った。別に私は彼の先輩でも何でもないけれど、年下のイケメンに懐かれるのは決して悪い気持ちはしない。

 

「オレは行くつもりだったんだけど。」

 

「じゃあボクも行きます。」

 

「無理しないでくれよ。」

 

「合コン終わったら飲みましょうよ。」

 

「良いけど、それってオレが誰も持ち帰れない前提で言ってるよね? 」

 

 崇は「テヘ」という顔をしたスタンプを送ってきたきり何も言わなかった。

 合コンの当日、仕事が終わりすぐに現地に参集すると、崇は店の前で私を待ってくれていた。

 

「オス。」

 

「もうキムさんもみんなも中にいるみたいですよ。」

 

「待たせちゃってごめん、ありがと。」

 

「いいんすよ。」

 

 崇は破顔してみせた。店の中に入ると既に男女が入り乱れて座っていた。お誕生日席の位置にキムが立ってスマホを弄っていた。傍らには黒人男性がキムのスマホを覗き込みながら何かを話しかけていた。

 

「お、……だっちゃん、だよね? お疲れ。とりあえず会費は6千円、先払いね。」

 

 その場でお金を徴収された。このお店のコースは6千円もしない。参加者から徴収した差益が彼らの取り分なのだろう。街コンに参加して合コンの参加者を募り、出会いの場を提供して現金収入を得るのは、時給に換算すれば相当うまみがあるに違いない。

 だが合コンに参加したからって、コミュ障で醜い私がそう簡単に結果を出せるわけではない。出会いの場に出なければ確率は0だから、と言い聞かせて顔は出すものの、今回も惨憺たるものだった。女に侮られ、会費はとられ、時間は浪費する。

 女のシブい顔を見つつ、遠くにいる崇を見ると、彼のいるところは相当盛り上がっているようだった。

 合コンが解散したあと、私たちは連れ立って新宿の街を歩いた。崇は私に合コンの結果を聞かなかった。

 

「コンビニで酒買おうぜ。」

 

「何でです、居酒屋入らないんですか。」

 

「コンビニの酒の方が安いだろ。居酒屋見つけるまでお腹の中入れとこうよ。」

 

「パイセン、ちゃんとした仕事してるのに貧乏性っすね。」

 

 崇がグフフ! と笑った。

 はい、カンパイ。私たちはチューハイを開けて缶をくっつけ適当なことを話しながら歩いた。新宿なんて歩いていれば無限に居酒屋はある。何処でもいいけど、それだけに決め手に欠ける。

 

「あ、思いついたんですけど。相席屋なんてどうですか? 」

 

 相席屋は、男が女の飲食代を支払う仕組みの居酒屋だ。

 男が先に入り、店内で女の客が来るのを待つ。女の客は男の客の待つ席に「相席」として通される。女は無料で飲食できるけれど、少なくとも相席した男の相手はしなければならない。そして入店するには、男女ともに「二人組でなければならない。」というルールがある。いつでも思いついたときに一人で入ることはできないのだ。

 

「チミは天才かね。一度行ってみたいと思ってたんだわ。行ってみるか! 」

 

 店内に入ると、薄暗い店内に男女がひしめき合っていた。

 卓に着いて十分もすると、若い女二人組が案内されてきた。どちらもサブカル系の20代前半、あるいは10代といっても通用するであろう少女のような外見をしていたけれど、いずれにしても可愛いことには相違なかった。

 しかしまあ、結果はご想像のとおりだ。私はコミュ障なりに頑張って会話を振ってはいたけれど、彼女たちの視線はしっかりと崇の方に注がれており、私が何を言っても馬耳東風であった。ただ、少なくとも崇の友人であろう私に最低限失礼がないように気を遣っているのであろうことだけは判った。

 きっと自然界で彼女たちに出会ったら、「何、このオッサン。キモイ。」で終了だったに違いないと思うとそれだけでもマシなのだと思う。

 

「二次会いきましょう。」

 

 と彼女たちの方から誘われた。

 

「パイセン、何食べたいですか。」

 

 と崇から訊かれ、「じゃ、もんじゃにしようか。」と答え、適当なもんじゃ屋に入った。

 もちろん、彼女たちが誘ったのは私ではない。彼女たちにとっては余計なサラリーマンのおっさん(といっても二十代半ばだが)がオマケでついてきたようなものだろう。私の始めた話題は「はいはいはい、なるほどですね。それで崇君は……。」のようにぶつ切りにされて取りつく島はなかった。

 トイレで用を足していると、「オレ、何やってんだろう。」という気持ちが頭をもたげてきた。時計をみると既に22時半になっていた。もう十分だろうと思った。

 

「オレ、明日も仕事だから先に上がらせて貰うね。1万円置いとくから。」

 

 トイレから戻るなり3人にそう告げ、荷物を拾って店を去った。私を見上げる崇が、「あ、だっちゃん……。」と私に何かを言いかけているのを目の端で捉えたが、相手にはしなかった。彼女たちは「あ、もう行っちゃうんですね! ご馳走様でした! 」と先ほどまでとは打って変わって明るく有終の美を飾ってくれた。

 店を出ると新宿の街の濃厚な夜の湿度が肌に張り付いて不快だった。

 

「まあ、こんなもんだから。」

 

 そう呟いて自分に言い聞かせた。その頃にはもう私は、自分が他人に、とりわけ異性に求められない人間であることを身に染みていた。

 わかっていた。醜い私とイケメンの彼が並んでいれば、誰だって私が引き立て役だと思うだろう。けれどひたすら気のいい彼に遠慮して、そんなことを口に出すことはできなかった。

 間違っているのはこの劣等感なのだろうと思う。他人と比較して美醜に打ちひしがれることには終わりがない。さりとて他人の目を一切気にしなくなった人間が向かう先は狂気の果てでしかありえない。生きていくとは、他人と比べられるということだから。だからきっと、都合の良い時には比べられることを意識して、都合の悪い時には比べられることを意識しない、心をスイッチのように切り替える器用さが必要なのだ。そうでなくてはこの苦しみにはきっと終わりがこない。でも、本当にそんなことが自分に出来るのだろうか? 劣等感を俎上に置いて自問自答を繰り返していると、ただただ途方もない気持ちになる。

 帰りの電車の中で、崇から「今日はすみませんでした。」とLINEが来ていた。何かを返そうとも思ったけれど、「え、何が?! 」も、「いやいいんだよ。」も違う気がした。結局答えが見つからず、返事はしなかった。

 

 それから暫くして、私は亀有にワンルームを借りて一人暮らしを始めた。

 あれから何事もなかったかのように崇とは何度か合コンに参加した。ある日、合コンの二次会でカラオケに行くことになった。崇は目当ての女の子がいたらしく、珍しく強かに酔っぱらってしまっていた。

 

「だっちゃーん、カナコが相手してくれないんすよー! 」

 

 などと当のカナコ本人を目の前にして悪酔いする崇を介抱していると、「その人、だっちゃんが連れて帰ってあげてね。」と女性陣にきつく厳命されてしまった。

 

「ぶええ、気持ち悪い。」といって嗚咽する崇の背中を撫でた。あれから崇は何人か彼女を作ったり別れたりしていたようだったけれど、私にはひたすら愛想の良い、可愛い崇の一体何が不満で彼女たちは別れてしまうようなことになるのだろうと思った。話を聞く限りでは見当もつかず、きっとヤバい性癖でもあるのだろうと思うことにした。

 

 出会ってから数か月経った頃、休日に渋谷で偶然崇とバッティングし一緒に蕎麦を食べることになった。

 

「実はですね。ボク最近転職したんですけど、2か月目で優秀賞を貰ったんですよ。」

 

 誇らしげに見せる彼のスマホの画面をのぞき込むと、そこには仲間に囲まれて賞状を掲げる崇の姿が写っていた。崇は大手家電量販店の営業に転身していた。そこで早くも成果を上げ、表彰されていたらしい。

 

「優秀なんだね。」

 

「厳しいですけどね、楽しいですよ。評価されるのは。金一封も出ますしね。まあ、それでも給料は低いんですけど。」

 

 そういえば以前、崇と一緒に電車に乗ったときに「だっちゃんパイセン、6か月定期買ってるんですか? 貴族ですね。」と言っていたことがあった。

 

「何で? 6か月定期の方が1か月当たり安いじゃん。」

 

「いやいや! そんなお金ないですよ。実はお金持ちだったりするんですか? 」

 

 そんなことを言っていた。私も学生時代、お金に困っていた頃、学生定期を1か月ごとに支払っていたことがあった。崇はお金に困っているのだろうか。

まあ、いくら低給だと言ったところで食うには困るまい。よく知らんけど。

 

 それから暫く月日が流れ12月も半ばの頃、再びキムから連絡が来た。

 

「実は今度のクリスマスにDJとしてパフォーマンスするんだけど、もし良かったらおいでよ。」

 

 クラブなんて久しく行ってない。まあ、クリスマス・パーティともなれば賑やかしは一人でも多い方が良いのだろう。そもそもクリスマスにクラブに来るような連中というのは寂しい人間ばかりが集まるのだ。上手くすれば何か出会いみたいなものが、まあ、無いだろうけど、あったらいい。

 西麻布の住宅街の一角にあるクラブでパフォーマンスが始まると、ビームやミラーボールの明滅、CO2のガス噴射に紛れるようにして男たちは女たちに声をかけまくっていた。私も私で気合を入れて女の子たちに声をかけていたけれど、もちろんどうにもならなかった。そういえば崇も来ると言っていたけれど、何処にいるんだろう。まだ仕事が終わってないのだろうか。

 ふとフロアの横に設置されたトイレのドアが開き、中の青い明りが漏れるのを見た。そこには女の子をトイレに連れ込む崇の姿があった。その横顔を見て私は、何か見てはいけないものを見てしまったように思った。

 目をそらすように顔を上げると、お立ち台の上にあるミキサーの前でプレイをする一人のDJに目が留まった。ミニスカートのサンタクロースのコスプレをしたモデル体型の女がヘッドフォンを片耳に当ててリズムをとっていた。私は彼女に見覚えがあった。ああ、あれは新宿のレストランで合コンにいた女の子だ。であるとすれば、あの中の一体何人がサクラだったのだろう。崇も本当はそういう類の人間の一人なんじゃないかという疑念さえ沸いてくる。彼は今トイレで女を抱いているが、私は一体もうどのくらい女に縁がないんだろうと思うと何もかもバカらしく思えてきた。足元見られて、カネも払ってこんなところまで来て。

 帰る前に、彼らの良い声でも聞けるんじゃないかと期待してトイレで用を足すことにした。けれど期待に反して、中から聞こえてくるのはくぐもった話し声だけで、トイレに必要以上に置かれた芳香剤の臭いの間隙をぬって甘い香りが漂っていた。私はその香りを知っていた。

 

 それからはずっと婚活アプリにかかりきりになっていて、崇やキムの誘いを受けることもなく疎遠になっていった。

 ある日、LINEのタイムラインに崇の投稿が上がっていた。

 

「仕事を辞めました! もっとビッグになるぜー! 」

 

 そんな文字の下には、何処か大きなハコで体操服を着た崇と、周囲をブルマ姿の女たちがとりまいている写真が載っていた。

 彼は何かのカモにされたのか、これから誰かをカモにするつもりなのか、いずれにしても、もはやこうなってしまった人間を救えはしないことを私はよく承知していた。だけど、崇は可愛いやつだから。

 彼の投稿には延々と彼のことを称賛する絵文字でキラキラしたコメントがついていたが、

 

「崇、お前、大丈夫なの? 」

 

 と一言だけコメントをした。そのコメントには見向きもせず崇は他の人にコメントをつけていったが、翌日になって私のコメントに「私も心配しています。人の信頼を失うようなことだけはしないでください。」とリプライが付いていた。それは私の知らない人ではあったけれど、木島姓がついていたから崇の母親か姉か、その類の人であることは間違いなさそうだった。

 その後、そのコメントに新しいリプライが付くことはなかった。そしてラインのタイムラインにはしばらくの間、懲りずに何かのパーティを主宰しているらしき崇の姿が踊っていた。私は呆れながらも、もう彼とは関係ないのだと思うことにした。それにやはり長身で見目麗しい崇の人前に立つ姿は凛々しくてサマになっていたから、私の声は届くはずはないと思った。

 気付いたときには、崇はLINEを更新しなくなっていた。あれから数年の月日が流れた。

 

 *

 

「実は、京都に帰ることにしたんですよ。まあオリンピック終わってからなんですけどね。」

 

「あれからもう7年でしょ。よくぞこの東京砂漠でこんなに長い間、耐えてきたね。偉いよ。オレにはできなかったんだから。」

 

「耐えてなんてないんですよ。ボクに東京は向いてませんでした。また、地元で何か仕事、探します。」

 

 彼は言葉少なだった。

 

「崇、オレのことをカモにしようとしなかったよね。色んなこと言われたかもしれないけど、オレは崇のこと良い奴だと思ってるよ。」

 

 私は崇のことなんて何一つ判っちゃいないんだけど、何でもお見通しだぞ。という顔だけはして見せた。別に先輩でも何でもないパイセンの、ただの年長者ぶった先輩ヅラなのだが。

 そもそも失敗だらけの私の人生に、彼が見習うべきところなんて露ほどもありはしないだろうし。私には、彼の何かを非難する気も、根掘り葉掘り訊く気もなかった。それに多分、こうして私の前に姿を現したという事実そのものが、彼が何かに叩きのめされ、打ちひしがれた結果なのだと思うから。

 そして少なくとも、私にとっては誠実でいてくれた。

 

「実はボク来週誕生日なんですよ。」

 

「あ、そ。おめでと。じゃあここの払いはオレが持つよ。」

 

「いや、ワリカンでいいです。だってパイセン破産してるんでしょ。」

 

「ワリカンでいいなら何で誕生日だとかいうのよ。」

 

「いや、何となく。」

 

「まったくこの甘えんぼさんめ。何かあったかなあ。」

 

 カバンを開くと、裏地の奥に文庫本が一冊入っていたので手渡した。

 

「もう何回も読んだから、それあげる。」

 

「何ですか、これボロボロじゃないですか。」

 

「要らなかったら捨てていいよ。オレと別れてから。でもきっと崇の力になると思う。」

 

「いや、読みますよ。覚えてます? 確か昔も誕生日だって言ったら本くれたんですよ。」

 

「何だっけ。忘れちゃった。」

 

「何か、あの、ウサギのマンガ。つまんなかったです。」

 

「ああ、わかった。『鼻兎』でしょ! あれつまんなかったでしょ。つまんなかったからあげたんだもん。でもそれは面白いから。オレにはね。」

 

「いいですよ、詰まんなくても。ブックオフで5円くらいにはなるかな。」

 

 崇がニコっと笑った。やはり良い顔をしている。

 カフェの外に出ると、外はもう薄暗くなっていた。お店はやっていないけれど、街にはもう多くの人が出歩いていて外出自粛なんてどこ吹く風という様相だった。

 

「来てくれてありがとうございました。」

 

「また東京に来たら連絡してよ。」

 

「はい。」

 

「あ! 」

 

「え? 」

 

「元気でね。」

 

 崇は頷いていた。夜風が鼻をくすぐった。

 

 

施されること、応えられないこと、死ねない夜

 朝、起きる。顔を洗い、ヒゲを剃る。
 金が無いから粗食である。朝起きてパンにマーガリンを塗って食べ、薬を飲み、必要そうな栄養はビタミン剤で摂ったことにする。寒いからとりあえず靴下を履き、財布を探してポケットに突っ込む。
 家を出て、アパートの廊下を歩いていく。

 毎朝思う。いったい何のためにこんなことをしているんだろう?
 何万回も問い続けた疑問の答えが突然降りてくるなんてありえない、不毛な問いだ。本当はいつこの人生が終わっても構わない。そのはずだ。
 だけど結局、私は死ねなかった。それだけが間違いのない事実だった。

 


 
 2年前、頭が悪すぎて経済的に破綻した。
 貧困な生活は、もちろん苦しいことは苦しかった。けれどそのときは今ほどには悲壮感もなく、婚活や筋トレに興じる余裕さえあった。貧乏の性で穴の開いたまま履いている靴下を写したり、冗談交じりに日々の困窮と転職活動についてTwitterに投稿したりしていた。

 ある日そこで知り合ったフォロワーの人と会うことがあった。「これ、持って来たのよねえ。」と紙袋を渡された。開けてみると、中には男性用の靴下が入っていた。思わず笑ってしまった。

 

「何ですか、これは。」

 

「気にしないで。ほら、写真みたからね。」

 

 紙袋の中には食べ物も色々と入っていた。こんな荷物、ここへ持ってくるだけで随分手間だったろう。しかし私がその人に何かを返すことなんて見込めやしないのに、どうしてそんなことをしてくれるのだろうと思った。

 その人は二児の母親だった。
 自分の子どもが困窮したときに、同じように誰かが手を差し伸べる世の中であって欲しいとでも望んでいるのだろうか。そんなことを考える人間が果たしているのだろうか、よくわからなかった。
 少なくともそのときはただ、「有難い。」と思った。

 

「頂戴いたします!」

 

「いえいえ、どういたしまして。」

 

 ある人は寿司を奢ってくれた。ある人はアマギフやプロテインを送ってくれた。ある人は本、ある人は財布、ある人はビタミン剤、衣料品、雑貨、私が書いた文章を人前に晒す前に読んで手直ししてくれたり、異性を紹介してくれたりする人もいた。

 私より遥かに貧困で、不健康で、恵まれていない人間なんて星の数ほどいる。誰の目にも留まらず、誰からも手を差し伸べられない人間なんていくらでもいる。

 たまたま私は痛がり屋で、少し声が大きくて、偶然奇特な人たちの目に留まった。そして賤しいことに、私は誰かに何か施しを受けるということに躊躇するようなプライドを持ち合わせていない。乞い食いのごとく、為されるままに為されてきた。


 この人生が徹底的に不幸だったなんて言えるはずはない。そう言い切るには、施しを受け過ぎたと思う。この世に救いは確かにあった。誰にも何ひとつ返せないけれど、せめて人生を再建して、「おかげさまで、まともに生きることが出来ました。」と言いたい、と確かに思っていた。

 

 しかしそうはならなかった。
 何度立ち上がろうと、何度やり直そうと、異性に愛されるようになるわけでも有能なビジネスマンになれるわけでもない。婚活をすれば日々コケにされ続け、転職活動も後少しというところで頓挫し、仕事も上手くいかなかった。それは性懲りもなく破綻の前後で何ら変わることの無い、相変わらず私自身だった。
 積み重ね方を間違えて来たのか、積み重ねたようで何も積み重ねてこなかったのか、タイミングを逸したのか、或いは全部かもしれない。

 今さら起業や相場に夢を見たりはしない。人生に一発逆転が有り得ないことも十分思い知っている。たださもしく、誰の特別になることもできなければ、無能で苦しいだけの日々がこれからも続いて行くんだろうな、という暗い気持ちだけが今も心を圧し潰している。

 30歳。無能な人間が方向転換をするには遅すぎ、孤独に生き続けるには余りに前途が長すぎると思った。

 

 そんなときに限って小さい不幸が立て続き、「人生はこれからもずっとこんな感じなんだろうな。」と思った。次第に「もうそろそろ死のう。」と思うようになったが、切っ掛けが無かった。
 そんなある日、親友に「もう殺して欲しい。一緒に死んで欲しい。」と頼まれた私は、彼女の命を奪った。私は死なず、罪に問われることもなく、ただ私に宛てた遺書だけがあった。

 

 あれからしばらくは、慌ただしい日々が続いた。
 働きながら種々の応対をし、遺族と会い、死を弔った。もはや何の為に働いているのか判らなかったけれど、遺書を果たすには相応の時間が必要だった。とにかく、それまでは何としても生き延びなければいけなかった。
 淡々と働き、淡々と過ごし、淡々と時間が経つのを待ち、時間薬の効くのを待った。或いはその先に新しい希望の到来することを期待していたのかもしれない。

 その間、彼女と過ごした日々を克明に記そうと思った。私の想い、彼女の想い、歩んできた道程、そういうものを書くことに意味があるかどうかは分からなかったけれど、それは自分の失ったものや他人から奪ったもの、仕出かした事実そのものと向き合う時間だった。事の次第を書ききった、と思う。

 しかし得たものは、「だからどうした。」という虚無感だけだった。

 結局、遺書の内容は果たせたものもあれば果たせなかったこともあった。けれどおよそこれ以上自分に出来ることはないんだと思ったとき、心の中の糸がぷつん、と切れてしまう感覚があった。糸の切れた凧は依る術を失った。昨年11月頃のことだ。

 

 ちょっとした約束を守ることもできず、仕事は簡単な作業でさえできなり、出社も覚束なくなった。自分はもうまともには生きられないんだと思った。そんなことはとっくに判り切っていたことではあったんだけれど、それでも、最期は狂って終わりたくないと思った。

 そして苦し紛れに、会社を休みバイクで日本一周することにした。本当のことを言えば大してやりたいことではない。過去の自分が確かにやりたいと言っていたことで、今の自分にも出来そうなことがそのくらいしか無かったというだけのことだった。

 だけど見たことのない景色を訪ね歩くうち、何か切っ掛けを掴めるかもしれないと少し、ほんの少しだけ期待していた。

 11月の時点で東北や北海道が雪に閉ざされていることは判っていたので、まずは近畿・四国を周遊し、バイク旅の経験やノウハウを積んだ。翌月、旅の経験を踏まえて装備を整え、日本海を進み九州を一周して主要な観光地をあらかた浚って日本半周を遂げた。

 およそ一か月に亘る旅を終え、そして福岡の新門司港から東京の有明に向かう大型貨客船に乗り込んだ。東京に着くまで二泊三日を要する。自分以外誰もいない大部屋のなか横になり、一昼夜天上を見上げ、これからのことを考えた。

 日本一周したいと思っていたけれど、半周したくらいで十二分なくらい絶景を見ることが出来たと思った。
 確かに旅は、それはそれで悪くはなかった。だけど所詮、景色は景色でしかない。感受性の萎え切った私の心には、それが美しいということが判っていても、結局のところ即物的なものでなければ響かないんだということも十分判った。
 所詮こんなものだと思った。これ以上はやってもやらなくても、どっちでもいい。冬が過ぎ雪が解け、東北や北海道を周遊したからって、きっと想像を上回るようなモノと出会うことはないんだろう。
 これまでの人生と何ら変わらない。いっとき乗り越えたところで、その先にあるのは間延びした苦しみと、余計に状況の悪化した現実だけだ。ここで終わるのも悪くないと思った。

 船の風呂に入り、洗濯したてのシャツに着替えた。そして靴下を履いたとき、そうだ、これをくれた人がいたんだと思った。怨嗟を撒き散らすだけの化け物になった私にも救いの手は何度も差し伸べられた。応えられなかったという事実は、それだけに「救いようのない人間である。」という事実に他ならなかった。しかしこれで彼らも私のことを見守り気に掛ける必要は無くなるのだ。
 船のロビーにある自販機で缶チューハイを買い、眠剤を三錠ほど呑み込んだ。親友が死ぬときに飲んだのもこのくらいだった。これ以上の鈍麻は要らないと思った。

 甲板に出ると、四方真っ暗闇の海を見渡すことが出来た。地平線の先にあるはずの空と海の境界は見えない。ひたすら深い闇の中、船は飛沫を上げて孤独に突き進んでいく。金網から身を乗り出して水面を覗き、数十メートル下に船の明かりに照らされ白い渦が巻いているのを見た。
 冬の外海の夜風は痛みを感じるほど冷たくて、きっとこの海に落ちたのならば、救う手立てはないのだろうと思った。あとは、薬が完全に効いてくる前に金網を飛びこえれば良い。金網は大して高くも無い、容易いことだ。それだけで、後は楽になれる。

 もう生きる意味はない。そのはずだ。そのはずだった。
 けれど甲板から海への高さに眩暈がした。寒さと、恐ろしさで足が膠着した。冷たさに金網を持つ手が堅くなり力が入らなかったが、強く握った手が離れることはなかった。
 なあオレは本当に死んでいいのか?待ってくれ、もう少し時間をくれ、何か見落としていることがあるかもしれない、頼む、もう少しだけ考えさせてくれ!誰にともなく祈った。酒と眠剤が少しずつ身体に染みわたり、思考が出来なかった。
 意識がどんどん落ちていき、身体から力が抜けていく。震えながら意識を保つのに歯を食いしばり、油汗が出た。
 彼女は……H子は、本当にこの先に進んでいったのか。あんなに容易く安らかに私の前で命を落とした彼女は、この暗闇の恐怖打ち克ったというのか。一体どれほどの絶望を抱いていたんだろう。どんなに生きることが苦しかったんだろう。
 彼女の命を奪った私が、自分の命を失うことが怖ろしいなんて間違っている。自分で死ねないクセに大事な人の命を奪ったのか?そんなのちゃんちゃらおかしい、これじゃ話が違うじゃないか。お前は屍人なんじゃなかったのか?!

 

「H子、ダメだ死ねない。オレはまだ、死ねない。」

 

 言い逃れしようのない失望感だけが胸を覆った。
 意識が遠くなった。息が苦しい。目がグルグル回り、吐き気がする。そのまま這うように船室に戻り、気を失うように眠りに落ちた。

 

沖縄滞在日誌4日目、夜

 

 「これ。」という切っ掛けがあったわけではない。

 

 ほんのつい最近まで、Twitterに愚痴や絶望を吐露しつつ都心にある政府系の金融機関でそれはそれなりに大人しく日々働いていた。

 ある日、職場の上長から呼び出され、「きみ最近、遅刻と欠勤が多すぎるよ。」と諫められた。同じ日、人事課長から呼び出され、「きみ最近、遅刻と欠勤が多すぎるよ。」と諫められた。「ああ、本当に限界なのかもしれない。」と思った。

 それで仕事に行かなくなった。最初のうちは職場から何の用事か鬼電、鬼メールが来てたけど、今となってはメールボックスは凪のようである。おかげで人生の見通しが全くつかなくなってしまった。

 

 しかしある程度まとまった休みが出来たので、「ずっとやりたかったこと。」をやろうと思った。正確には「昔の自分が確かにやりたいと思っていたこと。」であって、「実はもはやどうでもいいこと。」でもある。そのうち実現が現実的なものの中の一つが、「日本の全都道府県を見て回ること。」だった。

 

 今現在、私の中に嬉しい、楽しい、見たい、やりたいに類する情動がほとんど全てと言っていいくらい雲散霧消してしまった。

 仕事がないからずっと望んでいた家庭を持つ自信もないし、新しい仕事をする気持ちも続けていく自信もない。早晩こうなるであろうことは判り切っていたから、そういう不安を払拭する試みをしたこともあった。けれど、その一切が叶ったことはない。実績も折り紙付きというわけである。

 映画や番組、マンガや小説みたいな作品を積極的に観たいとは思わないし、ツーリングもお酒も何かの手段であって趣味ではない。望んで美味しいモノを食べに行こうとも思わない。

 やりたいことがない人生はまるで誰かが道端に吐き捨てたガムを拾って延々クチャクチャクチャクチャ咬まされ続けているようで、生きていることそのものに生理的な嫌悪感を覚える。

 それでも過去「ずっとやりたかったこと。」を今まさに出来るタイミングで、これを逃したら次はないかもしれないという状況になったとき、「日本の全都道府県を見て回ること。」をやってみようという気になった。家の中で独り自家中毒のように精神が底へ沈んでいくのに身を任せるのも悪くはなかったけれど、旅先で考え事をするのもそう変わらないと思った。

 

 そうして11月~12月の計およそ35日間かけ、バイクでフォッサマグナ以西を周遊し日本を半周した(その間も色んなことがあったのだけれど、それはまた機会があれば書こうと思う。)。できることならそのまま日本一周してしまいたかったけれど、時期的に大雪の東北をバイクで越えることは出来なかった。

 

 そして年末、沖縄に辿り着いた。

 

 *

 

 といってもダイビングしたいわけでもなかったのと、北陸を旅したことで過度な田舎にちょっと嫌気がさしていたので本島だけレンタカーで見て回ることにした。

 12月末でも沖縄の気温は平気で20度近く、頻繁に内地の雨季みたいなスコールに見舞われた。車の窓を閉じていると暖かさに眠くなってきた。コンビニで買ったサンドイッチを碧い海の砂浜で食べていると何処からか猫がやってきて頭を摺り寄せてきたので、少しちぎって分けてやった。

 そんな風に時間を過ごしていると、ほんのちょっと前まで丸ノ内のオフィスでパソコンをカタカタして暮らしていたことなんて白昼夢の類いだったのではないかと思えてきた。

 あの日々に戻りたいとは思わない。それでも「きみは何者なのか。」と問われたとき、誰恥じること無い「立派な社会人。」なのだと答える術を失ったことで、なし崩し的に何か自分の中で終っていくのを覚えた。支えてくれる理解のある上司も同期もいた、多分これ以上ないくらい完璧な環境を得て、それでもなおどうすることもできなかった。

 

 末日、那覇市内にある国際通りに宿をとった。

 沖縄料理というか沖縄人の味覚感覚は正直合わないと思った。チャンプルーだとか、沖縄ソバだとか、アグー豚だとか、そういうのが多分そんなに好きじゃない。国際通りは居酒屋やジャンクフードみたいなお店も沢山あって、多分それは沖縄県からしてみたら「あれは沖縄ではない。」のかもしれなかったけれど、個人的には「あれで十分。」という感じがしたし、路地裏の猥雑な雰囲気がアジア的で(それでも日本的な清潔感を失っていなくて)とても居心地が良かった。

 

 そんな路地裏に在る居酒屋で一人、本を読みながら泡盛を啜っていると、「アーレー?」と声を掛ける女がいた。

 

「お兄さん、さっき一人でハンバーガー食べてたでしょう。」

 

 見上げると若い女がいた。目鼻立ちがくっきりしていて、中東系の顔をした美人だった。私が答えかねていると、

 

「何処から来たの、内地の人でしょ。」

 

 そういって勝手に私の隣のカウンターに座った。少し前、路地裏にある別のハンバーガー屋で飯を食べていたところを覚えていて、思わず声を掛けたということだった。

 

「神奈川だよ。旅人っぽかった?」

 

「わかるよォ、お兄さん顔真っ白だもん。浮いてるから、ウチナーには内地の人だってすぐわかるよォ。」

 

「ウチナーって本当に言うんだ。」

 

「言わないよ。内地の人だから喜んでくれるかな、と思って言ってみただけ。アハハハハ!」

 

 沖縄的なイントネーションは耳ざわりが良く、ずっと聞いていたい気持ちになった。彼女は26歳で、リカコと名乗った。リカコはよく笑った。

 

「出張で沖縄きてるの?」

 

「スーツ着てるからでしょ。違うよ。スーツしか服が無いからスーツで旅してんの。」

 

「何それ、アハハハハ!スーツしか持ってないの?だっちゃん、結構変な人でしょ!アハハハハ!」

 

 決して後で特定することができないように、心の内を全て明かさない。それでも雰囲気を壊さない程度に崩すくらいの表面的な会話。仕事をしながら婚活しているときは苦痛だったそういう会話も、仕事もしないで話し相手に飢えている今となっては適度な心地よさがあった。

 

「ねぇ、ホテルどこなの。ついてっていい?」

 

 といって私の後をついてくるリカコに対して美人局という言葉が浮かばないこともなかったけれど、そういう面倒ごとが起こっても構わないという気持ちがあった。

 居酒屋の外に出ると、外は土砂降りみたいなスコールが降っていた。

  横に並ぶと思っていたよりリカコは身長が高かった。意表をつかれたように思うのは、きっと顔が小さいのだと思った。

 

「リカコちゃん傘持ってないの。仕方ない、入りなさい。」

 

 私が折りたたみ傘を広げると、ボロボロに骨が折れていて崩壊寸前だった。沖縄は風が強くて、雨が降っていても500円の折りたたみ傘なんかじゃ簡単に壊れてしまうのだった。

 

「何これ、ボロボロ!アハハハ!こんなのさしても意味ないよ!」

 

 リカコは文句を言っていたけれど、ホテルに向かって駆けて行くと「キャー!濡れるー!」と楽しそうに傘に入ろうとして来るのだった。

 徒歩数分のところにあるホテルに着くころには、私たちはびしょ濡れになってしまった。リカコのいう通り、あんな傘じゃさす意味なんてほとんどなかった。

 部屋に入るなりリカコが私の袖を掴んだので、そのままキスをして交わった。

 

「どう、沖縄って。」

 

「良い所だと思うよ。皆んな良い人だと思うし、暖かいし。」

 

「今日、寒いよ。」

 

「いや暖かいよ。」

 

「内地の人にはね。それに沖縄の人、良い人いないよ。私もボロボロだもん、DVとか。見て。」

 

 リカコの膝とアゴには大きな痣と切り傷のような痕が残っていた。旦那は彼女への暴力で警察に捕まり、最近離婚が成立したということだった。それで多分、彼女自身の枷も外れてしまったのだと思った。

 小麦色の肌に大きな目、高い鼻、細い顎。こんな繊細な造型を男の力で殴りつけたら、それは簡単に壊れてしまうだろうと思った。

 

「旦那は最悪だった。弱い立場だと思ったら後輩も殴ってたよ。沖縄の男って働かない癖にすぐ手をあげるんだ。何度も骨折られた。私、働いてるのに。」

 

「女にこんな傷が残るくらいの力で殴るなんて、ネジ飛んでるね。沖縄がDV多いのは有名だけど。オレはキミみたいに可愛い女の子と結婚したいと思って頑張って来てたのに、今では諦めて放浪してる。人生って巧くいかないね。」

 

「私もだっちゃんみたいな優しい人と結婚したかったな。東京にはだっちゃんみたいな人が沢山いるのかな?」

 

「でもオレは、きっとその旦那さんに比べたらずっと退屈な男だから。色々、どうしようもない事件が沢山あったしね。」

 

小さく丸まって胸に顔を埋めるリカコの背中に手を回し、強く抱きしめると

 

「グウウウ、男の人の腕力ってこういうために使うんだよね。もっとシテよ、アハハハハ。」といって笑っていた。

 

「東京に来たらいいじゃない。リカコちゃん美人だから、きっと君と一緒になりたい男なんて沢山いるよ。」

 

「アハハ、それはどうかな。美人なんてあんまり言われないから嬉しいよ。」

 

 ホテルの外に出ると、雨は止んでいた。年が明けようとしていた。

 

「これから何処行くの?」

 

「家帰るよ。車、近くに停めてるんだ。」

 

「飲酒運転じゃん。」

 

「もう抜けたよ。あと、東京はきっといつか行くよ。」

 

「うん、遊びに来なよ。ちょっとこっちおいで。」

 

 リカコを抱きしめて、「なんくるないさ~。」と言ってみた。

 

「アハハハ!なんくるないさ~なんて普通言わないから!」

 

「喜んでくれるかなと思って。」

 

「うん。だっちゃんも、なんくるないさ~。」

 

 暫く抱擁してから私たちは別れた。ああでもきっと、私たちはもう二度と会うことはないんだろうなと思った。心の底に、誰か他人を好きになる萌芽のようなものを感じて、登山靴でその芽を踏みつけ擦り潰すイメージを思い描いた。

 それから何度かLINEでやりとりは続けたけれど、やがてどちらからともなく連絡はしなくなった。

 

 

何でもない日々246

 

 

 

「あー、さむさむさむ。」

 

 朝7時、バイクに跨り誰にともなく呟いた。つくづく焼きが回ってしまったようで、最近独り言が多くなった。

 数か月前、カブを知人に譲りバイクを乗り換えた。ジクサー150SFという単気筒の普通二輪だ。それに伴って、通勤も電車からバイクですることにした。

 

 エンジンの暖気を兼ねてしばらくゆっくり走っていると、信号待ちでエンジンから熱気が立ち上りスーツ越しに足を焦がした。エンジンが温まり、調子が出てきた合図だ。私は空冷エンジンが好きだ。正直で、誤魔化しがない気がする。

 思い切りスロットルを回し、周りの車を追い抜いていく。80km/h、100km/h、120km/h……。

 ふと路傍を見ると、「国道246」と書かれた青い三角形の道路標識が立っていた。

 

 3月13日の金曜日、彼女が誕生日を迎える4日前に私はH子と落ちあい、翌14日に彼女は死んだ。

 

13日の金曜日なんて、呪われていて私たちらしいよね。」

 

 そう言ってH子は嗤っていた。あれから246日経とうとしていた。

 親友が死んだ日から、日を数える気色の悪さに我ながら笑いが込み上げてきた。

 私が毎日通勤の為に国道246を走ることと、あの日から246日経つことには何の関係も無い。だけど思わず色んなことを結びつけてしまう。

 

 その日は、11月13日の金曜日。私の誕生日の4日前だった。

 

13日の金曜日なんて、呪われていて私たちらしいよね。」

 

 彼女の声が聞こえるようで、背筋が少し寒くなり、「いけない。」と思い私はバイクの速度を落とした。

 

 私は、彼女より数か月だけ年下だった。

 そして心を同じくしていたと思った彼女が死に、私が生き残った。

 その運命を分った何かが、この数か月にもしかしたらあるんじゃないか、彼女には見えていて私には見えない景色があったんじゃないかって、少しだけ期待していた。

 けれど結論からいえば、何もありはしなかった。

 そもそも彼女は女性で私は男性で、生まれた土地も生きてきた人生もまるで違うんだ。だから高々数か月で何かが見えたり、解ったりするようなことがあるわけない。当たり前の話だ。

 それで、新しい死ぬ理由は、見つからなかった。

 

「じゃあ、もう少し生きてても良いかな。まだ死ぬ日じゃないと思うんだよね。」

 

 誰にともなく呟いた。本当に焼きが回ってしまったんだと思った。

 

 長い信号に捕まり、ふと見上げると、マンションのベランダから部屋着の若い女がタバコを吸っていた。あれは世界だなぁ、と思った。

 彼女が私に気付くことはないだろう。H子が生きていようが、私が死のうが、今日この日、彼女はあそこでベランダに出て、部屋着でタバコを吸っていたに相違ない。

 この世界に生きていようが死んでしまおうがこんなにも無関係なのに、どうしてH子はあんなに苦しんでいたんだろう。そんなことで、涙が出るのを止められなかった。

 涙の蒸気でメガネが曇った。前見て運転しなきゃいけないのに何て厄介なんだ、泣いてる場合じゃないだろうと思った。

 

 私たちは何でもかんでも、色んなことを深刻に考えすぎてしまう。

 意味のないことに意味を見出したり、見出した意味を見なかったことにしたりする、みんなが無意識でできてしまうそういうことのバランス感覚が、私は、私たちは、絶望的なくらいうまくなかった。

 

 その日の仕事が終わり、夜の東京をバイクに乗って走り回っていた。やがてメーターの時刻表示が、23:59から、00:00に変わった。

 

「オレ、君より年上になることにしたよ。」

 

 誰にともなく呟いた。

 13日の金曜日、私が死ぬことはなかった。夜を越え、その先に進んでいく。

 色んなことに折り合いをつけたりつけられなかったり、どっちにしてももう先は長くないんだから折り合いなんて今更つける必要もないのかな、なんて思ったりして、今日もバイクを駐車場に停めた。

 私たちは一体どこまで行けるんだろう。

 

 それじゃ、また明日。

 

スピリチュアルにすがろうとした。


 今年に入ってからの不運を数えると、頭が痛くなる。
 タイで車に轢かれ、親友を喪い、旅に出ようと思えばバイクが故障し、大雨に降られモバイル機器が壊れ、たまたま入ったぼったくりバーで金を巻き上げられ、先日またしても車に轢かれた。
 買ったばかりのバイクが破損し、私自身も相応に負傷し、フットワーク軽く動けなくなってしまった。

 別にエピソードもないくらいの小さい不運なら無限にある。
 目の前の机上にAとBふたつのカードが伏せられていて、Aのカードを引きたいな、と思う。
 だけど絶対にAは出ない。何度やっても、2分の1の確率のはずなのに、必ずBが出る。自分はそういう人間なんだという強い自覚がある。

 私は、不運だと思う。でも、そういうことはあるんだとも思っている。
 日本国民1億人参加・全国勝ち抜きじゃんけん大会のようなものがあったとする。敗残者は敗残者同士でトーナメントを行う。すると最終的には何十連勝もするような猛者も生まれれば、何十連敗も喫するような負け犬も生まれることになる。「全員勝ち」も「全員負け」もあり得ない。必然としての連勝・連敗が生まれる。
 私は、そういう役回りに生まれてきた。ただそれだけのことだ。

 それにしても、余りにも立て続いたと思う。
 人間が絶望するのに、大きな不運なんて必要ない。小さな不運の積み重ねやタイミングの悪さだったり、そんなことがときに人を「もう、耐えられない。」と思わせることがある。
 日に日に絶望を深めていく私を、親しい人たちは案じてくれる。多くの人たちにとって「死」は或いはフィクション同然の存在かもしれないけれど、実際に「同じ絶望を抱える親友」を亡くした私の抱く絶望はいつだってすべからくリアルな死に繋がっている、ように見えるのかもしれない。
 だから結構マジで案じられてしまう。それは有難いことだと思うけれど、だからといって明日の不幸が避けられるわけではない。
 「とにかく、生きていれば必ず良いことがあるから!」と言われたその翌日には電車の回数券を無くした上に家の鍵を無くして途方にくれているような人間だから、他人の言うことを全く当てにしていない。「ほら、見ろ!」と思う。

 特にスピリチュアルを引き合いに出されると最悪の気分になる。シャーマンだろうが霊能力者だろうが由緒正しき寺社仏閣でも教会何でも構わないけれど、藁にもすがろうとするばかりに正常の思考を失う必死の人たちから命銭を巻き上げ余計な窮地に押し込もうとするペテンの連中だ。すがりたくない。
 宗教なんて信じていないし、霊魂や神仏みたいな超常のものが存在するとは微塵も思っていない。初詣には行かないし、神社を見ても理由が無ければ手を合わせない。散歩している最中に尿意を催せば寺社の裏で立小便をする、そういう下品で不信人な人間が私だ。
 ところで死んだ親友は当然初詣に出かけるし、地方の由緒正しい神社には当然出向くばかりか、町を歩いていて小さい神社を見付ければ必ずお賽銭を出して手を合わせて祈り、お守りはいつも持ち歩き、お祓いやご祈祷みたいなこともしていたし、良いことがあったら良いな、と口にし、婚活もすれば資格の勉強だってするような相応の努力もしていたが、死んだ。
 だけど私が生きている。それが全てだと思っている。

 「頼むからお祓いに行ってくれ。」と言ってくる人は一人や二人ではなく、それも何度も言われるのだけど、ずっと無視していた。
 そういうことを言う人は、次に会うとき大抵「ねえ、お祓い行った?」という確認が始まるようになる。当然「行ってない。」と答えると、自在にならない私の行動について露骨に不愉快な態度を示してくるようになる。傷ついている私を心配していたはずが「そんなんだからお前は」と批判が始まり傷つける側に回ろうとするのは、まあ、気持ちは分かる。つくづく私は可愛げのない人間だ。

 とまあそんなことが度々あったところで先日、またしても車に轢かれた。
 法定速度の範囲内でバイクを走らせていた私の横っ腹に、前方不注意で一時停止線を無視した老人の運転する普通車が突っ込んで来たのだった。避けようがなかった。
 そして老人はそのまま逃走、私は救急車で運ばれていった。

 不幸中の幸いなことに身体は軽傷で済み、負傷した足を引きずりながら何とか今も日常生活を送っている。
 しかしバイクは修理に出ることになり、日常生活の中に当然のようにバイクが組み込まれている私は行きたい場所に行けなくなり、やりたいことが満足にできなくなってしまった。そんなわけで、少し時間ができた。

 私に対して、まあ言葉ならずも「お祓いに行け。」というご批判があるであろうことは想像に難くなく、先回りに履行し既成事実を作って置こうと思った。また今後何か悪いことがあったときに、「ほら、神も仏もいないんだって。」と言う為には、やはりお祓いに行っておかねばならないと思った。

 そうして土曜日、朝いちから予約して近所に在る代々木八幡宮のお祓いに行ってきた。
 台風14号が接近し、大雨が降っていた。

 4年前の同じ時期、私は死んだ親友と代々木八幡に出かけた。そのときも大雨が降っていて、そのときは、境内にお祭りの出店が賑わっていた。
 今は提灯もお囃子もなく境内は暗く雨音だけが聞こえ、そして私の隣に彼女の姿は無かった。境内の奥へ進むと、彼女が祈っていた社があった。そのとき、私は祈らなかった。手持ち無沙汰の私は、彼女が祈っている姿を後ろから撮った。
 振り向いて「何撮ってんの~?」と笑う彼女の笑顔を思い出し、胸が痛んだ。数少ない彼女の写真、今思えば、こんなものでも撮っておいて良かったと思う。

 今日も私は祈らない。彼女の祈りを何もかも無視した何者か、そんなものにすがって堪るか。

* 

 受付で初穂料を支払い、神社の賽銭箱のその奥に在る空間へと案内された。
 天井に宗教画の描かれた畳部屋の真ん中に座らされ、神主らしき男に膝を突き合せ身の上を話した。

 「それは、大変でございましたな。」

 そう言って神主が立ち上がり、小僧が私の上で太麻を振るい、神主がご神体と思しき大きな鏡の前でお経のようなものを唱え始めた。汝の罪は許されるだとかそういうことを言っていた。5分ほどそんな茶番が続いた。

「さ、悪しき流れは絶たれました。これであなたの人生はここで一旦リセット、ということで。これからは、信心あれば救われることでしょう。」

 ほんとかよと思った。神主の肌は良く焼け、眉はよく整えられていた。きっと袈裟を脱いだ私生活は派手なもの違いない。
 とはいえこれで既成事実ができた。今後誰に呪いだとか悪霊の類いのことを言われても取り合う必要は無い。由緒正しき神社の神主が悪運は断たれたと言ったのだから、そうなのだろう。
 それでもなお悪いことがあるのだとすれば、きっと「違う論理で動いている何者か。」に導かれているのに違いない。H子を追い詰めたそれは、今もきっと私に取り憑いていると思う。

 

 まあ、そんなものはいない。

 単純に確率の問題だ。「そういうトコトンついてない人間がいる。」というただそれだけのこと。
 サイコロだって、何万分の1かの確立で、何度振っても同じ目が連続することがある。もしもサイコロに人格があったなら、「何かオレ、いつも1の目ばっか出ちゃうんだけど……。」などと独り言ちるに違いない。
 私とH子は、いつも1の目ばかり出る、人格を持ったサイコロだった。

 わずか5分足らずで5千円を荒稼ぎとは、神主も因業な商売してる。
 特に行く当てもなく渋谷方面に向かって歩いていると、「パーフェクトリバティ教団東京中央協会」という看板のついた立派な門扉があるのを見付けた。
 面白そうだと思った。ここも神社と同じで因果な商売やってるのかなと思い、暇にあかせて門扉の中に入ってみることにした。
 入り口にはいくつも防犯カメラがついていて、都心にも拘らず広大な敷地の中には、何台もレクサスみたいな高級車が停まっていた。
 堅牢な現代芸術みたいな教会の自動ドアをくぐり、受付で

「懺悔させて欲しいんですけど。」

 というと、品の良さそうな中年の女性が少し迷惑そうな顔をして、

「いえ、そういうことはやっていないんですよ。」

 と答えた。後でウィキペディアで調べると、PL教の信仰対象は宇宙=大元霊という神なのだということだった。随分ふところの狭い宇宙もあるんだと思った。

 それからまた当てもなく渋谷方面へ歩いた。相変わらず雨は止まなかった。
 誰かと話がしたかった。

 遣る瀬無い、散々なこの気持ちを誰かに聞いて貰いたいと思ってLINEの友だちリストを眺めたけれど、目ぼしい人は全員既婚か死ぬかしていて諦めた。

 そうだ、今日はお祓いに行ったし謎の教会にも迷い込んだし、スピリチュアルなことに縁があるんだと思った。そうなったら今日くらいそういうものに触れてみるのも悪くないな、と思い渋谷・スペイン坂の上にある占いの館に行った。話を聞いてくれるんならペテン師でも何でも構わなかった。

 台風前だからなのか、土曜の昼だというのに占いにかかろうという客は私以外いなかった。
 出てきた占い師は一見普通の中年女性で、四柱推命とタロットカードを使ってこれからの運勢について占ってくれるとのことだった。
 しかし四柱推命は全然当たっていなかった。

「あなたは今、運勢の良い時期にいますよ。」

 みたいなことを言うので、直近でこれまでにあった不運を話すと

「それは運勢が裏返っているの!長期的に運勢の良い時期にいても、短期的には悪いことが起こることがある。でも全体で見れば運勢の良い時期なの。」

 などと要領を得ないことをいう。そんな言いぶりが許されるならもう何でもアリじゃないかと思った。占いっていうのは株でいうところのテクニカル指標みたいなもんだなと思った。日足で陽線をつけていても、時間足で陰線をつけていたら損切せざるを得ない。
 後で結果を見てから損切しなくて良かっただとかいうことが判るだけで、要するに占いなんて結局なにか言ってるようで何も言ってない、アテにならないということを確認しただけだった。
 こんなことで金をとるなんてやっぱりペテンだと思った。

 四柱推命がひと段落すると、占い師がカードを切り始めた。
 パタパタパタパタ手慣れた様子でカードを切り、1枚のカードを私に選ばせた。

「はい、これはタワー。要するにあなたの運勢はしっちゃかめっちゃかということよ。」

「タロットは当たってるんですね。でもそれ、さっきの結果と矛盾しませんか?」

「タワーのカードっていうのは悪いだけの意味じゃないの!タワーっていうのは『リセット』。大きな混沌があなたの人生をめちゃくちゃにしてゼロにするの。そしてこれから起こる良いことを暗示しているのよ。ほら、当たってる。そういうことなのよ。」

 一体何が「そういうことなのよ。」なのか、鼻の穴を広げて誇らしげにしている中年の占い師にイラっとした。良いことが起こらなくても適当な理由をつけて責任なんてとらないくせに。


 占いの館を出て、神主の言っていた「リセット」という言葉と、占い師のタロットカードの「リセット」を暗示するタワーが重なった。そのことに、少し期待している自分がいた。

 何もかもバカらしいと思った。こんなことで、もしかしてこれからは、少しはマシな人生が待っているんじゃないかと思ってしまっている。

 心の弱った人間に取り入るのがペテン師の仕事だ。私は弱っている。これから元気になる予定は今のところない。
だから金輪際、宗教や占いみたいな心霊商法と関わり合いになるのは止そうと思った。

 その日はとりあえず、帰り道で宝くじを買った。

外資転職は諦めた。

 昨年のこの頃、転職活動をしていた。 昨年のこの頃、転職活動をしていた。 職場ではうだつが上がらず人間関係も壊滅的だったから、一刻も早くこの場所から逃げ出し新天地で態勢を整えようと思っていた。


 そこでいくつかの転職サービスに登録した。JACリクルートマイナビ等々、有名どころはおおよそ網羅した。 けれど結局、彼らの紹介する求人はどれも大差なかったし、どの求人もネットで検索すれば出て来る程度のものだった。自分で勝手に調べて勝手に応募した方が早かったし、彼らのアドバイスもネットでググれば出てくるような紋切りのセリフばかりで、リクルートのプロフェッショナルなんてそうそういないということが判った。少なくとも、私のような文系で特別なスキルもなくただ漫然と職歴を経ただけのような人間にとってはそうだった。


 ずっと事務畑を歩んできて適性が無いと思っていた私は営業をやってみたかった。けれど30代で未経験営業となると明らかに低給だったり明らかに軍隊式のブラック企業だったりするようなところしか残っていなかったし、条件の良いところは若さか経験のどちらかが必要だった。


 これじゃ転職をしても旨味がないな、と解り始めてきた頃、とある大手外資系銀行からメールが来た。それはいわゆる「中国四大銀行」と呼ばれる世界でも5指に入る超巨大金融機関のA行だった。当然、中国に滞在していた頃、何度も各地で支店を目にしていた。


「貴方様の経歴を拝見し、共に働きたいと思う、連絡を下さいませんか。」


 招聘文はこなれない日本語で書かれているし、そもそも私はA行にエントリをした覚えはない。「これはイタズラかな?」と思ったのだけれど、記載されている応募先に電話を掛けたところ、それはやはり間違いなく四大銀行のうちA行の東京支店でありメールも誤りではなかった。  連絡を取り合ううちに、どうやらA行はどこかの転職エージェントに紹介された私の求人を秘密裏にコピーしており、エージェントを仲介すると手数料がかかるから勝手に私に連絡をとってきたらしいということが判った。
 私は、面白い!と思った。そういう危うい身勝手な採用活動を平気でしていることが凄く中国的だと思ったし、そんなリスクを冒してまであの(中国人なら)誰もが知っている大メガバンクが連絡をとってきてくれたことに心躍った。


「受けます。」


 と伝え、すぐさま既に外資転職を成功させた友人に相談し英文による履歴書を書き上げA行に送付すると翌日には「可」の連絡が来、翌週には電話面接を了し「可」の連絡を受けた。 電話面接は英語と中国語で人事担当と簡単なやりとりを求められたけれど、予め用意していたQAのフレーズを吐き出すだけだったので難なく通過した。次回は実際に支店の幹部級との面接だったけれど、1か月の猶予があるとのことだった。 電話で想定問答を見ながら回答するのと、中国人を目の前に当意即妙に返事をすることには雲泥の差があると思った。
 そこで私は英語と中国語を学習しなおすことにした。


 私は大学~社会人の始めまでは割と精力的に語学学習をしていて、努力の結果実りTOEIC900並みに評価される資格と、中国語検定2級を取得していた。しかしアメリカにも中国にもお遊び程度の短期留学の経験しかなく実地の会話には不安があった。外国人とはいえ気の置けない友人と会話をするのと、或いは意地悪な質問をしてくるかもしれない面接官とでは全く事情が違うだろう。 長年の不使用によってそもそも忘れてしまっているイディオム等々は勿論適宜勉強し直すとして、やはり会話の訓練をしなければいけないと思った私は、中国語会話の老師を雇うことにした。


 具体的には、チャイニーズドットコムという在日中国人と日本人の学習の為のマッチングサイトで、同年代くらいの老師を探して連絡を取った。 老師は同い年でいわゆる重点大学出身(中国のエリート)で日本の金融機関に勤めていることもあり、私の希望する四大銀行における面接で想定される問答について的確なアドバイスをしてくれたし、全然関係ないけど超美人だったのでモチベーションに非常に寄与してくれた。全然関係ないけど。 そんなことで週2,3回、老師からのレクチャーを受け徐々に中国語での会話の調子を取り戻していった私だったけれど、同時に違和感を感じるようになってきた。

 それは別途雇っていた英語の先生との会話でも強く感じていた違和感だった。最初、それが何なのか私にはよく解らなかった。


 それはさておき、第一志望のA行とは別に、練習のため同じく中国四大銀行のうちB行とC行にも書類を送っていたのだけれど、BCいずれも書類選考を突破し電話面接やら第一面接やらを突破することが出来た。


「あ、やっぱり私のような人材を彼らは欲しいんだ。」


 とそういう確信を抱いた。
 A行で幹部級の面接を受けたときも、老師からのレクチャー通りの想定問答が来るばかりで殆ど滞りなく突破した。結局、A行、B行から内定を得、C行は最終選考まで進んだ。 そしてどの面接でも、ポロっと「他の行員、日本人はほとんどいないし、彼らも中国語しか喋らないから、覚悟をしておいてね。」という旨の申し出をされたのだった。


 その申し出が、私がずっと抱えていた違和感とリンクして来て、大きな不安となっていた。 そこで老師に、「今日は面接対策ではなく、普通の会話をしてみませんか?」と申し出、1から日常会話を練習してみた。
 が、出来なかった。

 老師の言っていること、解る。自分が言いたい事、言える。しかし、会話にはなっていなかった。

 私は、相手の言葉を聞きながら自分の言いたいことを考える、ということができなかったのだった。


 思うに試験的なリスニングもスピーチも、ただ聞くことに集中し、ただ喋ることに集中すれば良かった。しかし会話とは、相手の言葉を聞きながら、自分の言うべきことを考えなければいけない。いわばマルチタスクの領域に類することで、私には、それが致命的なほどできなかった。元々、日本語でも会話が下手な私なのだから、いわんや中国語で不出来なのは仕方ないとも思えるのだけれど、それにしても致命的だった。

 私は結構重めの診断済みADHDである。だから、といって病気のせいにするわけじゃないけれど、本当にマルチタスクをこなすことができない。
 それからも、何度も会話をしアドリブで老師と会話をしようとしたけれど、結局会話が成立することは殆どなかった。 私が面接を突破することができたのは、ただ面接と言う目的のため、相手が何を言うのか想定済みの環境下で決まったフレーズを吐き出していただけであって、会話をしていたわけではない。


 そうして段々、気持ちが落ちて行ってしまった。 私は本当にマルチタスクができない人間で、そのせいで今の仕事でもうだつが上がらなかった。日常会話でまで平時からその能力を求められるとすると、とてもではないけれど耐えられる自信が無かった。 それからも会話の能力が向上することは無かった。きっとこれからも向上は見込めないだろうし、見込めたとしても、外資系銀行が悠長にも私の成長を待つとは思えなかった。私がマルチタスクの不得手を乗り越えて会話が成立するようになるとするなら、2,3年の月日が必要であることは間違いないと思った。


「ああ、やっぱり無理だ。」

 

 と思った私は、ABC各行の内定と選考を辞退した。 きょうび、筆記能力もスピーキング能力もヒアリング能力も、畢竟パソコンで代替可能な能力だけれど、ただ会話だけが人間でなくてはできない能力だと思う。私はマルチタスクが不得手で、それができない。 あそこでまともに働けていたら今ごろ年収1千万円ちかくなっていたのだろうか、それとも海外で暮らしていたりもしたのだろうか、と思うと情けなくなってくる。


 そんなわけで外資転職は諦めたし、外国語の勉強も辞めてしまった。もうこれからそういう界隈に手を出すこともないのだと思う。何年もかけて遅々として会話の能力を醸成していくような時間もお金も私にはない。 会話ができないのなら、そもそも何の為に外国語の勉強をしていたのだろうと今さらながら思う。そうして失った時間について考えると、また心が底冷えする風が吹いてくるような気持ちになる。
 そして置かれた現状から抜け出す術がまた一つ失われてしまったことに、目の前が暗くなるような思いがした。


 しかし今になって思えば、由来私のような無能な人間は、外国語で多少会話が出来たところで何処へ行こうが50歩100歩の現実しか待っていなかったであろうことも解り切っているのだから、別に改めて失望する必要はなんてなかったとも思う。自分が無能な人間であることには未だ、折り合いをつけきることができずにいるんだけど。

 

姉と仇と妹

 ある朝、スマホの通知履歴を見ると見知らぬ番号から着信があることに気づいた。留守電が入っていた。


「初めまして、急にお電話を掛けてすみません。私、H子の妹です。もしご迷惑でなければ、お電話頂きたいです......。」


 あどけなさの残るその声は緊張で震えていて、そしてH子にそっくりだった。

 私には、4歳年下の弟がいる。H子の妹さんは確か同い年で、そんなところまで私とH子は似ていた。もし私が一人で死に、H子が生き残っていたのなら、弟もこんな声でH子に電話を掛けたのだろうか。

 姉を死に導いたこの私に妹さんが電話を掛けて来るという事態は、いずれにしても尋常ではない話を想起させた。が、覚悟を決めて折り返しの電話をした。コール音の鳴る間、こうして単に電話をすることにさえ覚悟が必要な自分に秘かな失望を覚えた。

 普段「H子の為なら、どうなってもいい。」などと嘯いている自分の言葉の真偽を自分自身に問われたとき、保身がよぎり逡巡する自分がいた。それが答えだった。自分の覚悟が不十分で身に染みていないことを思い知らされるようで苦痛を覚えた。
 保身を覚えることが怖ろしい。あの日、この世の全てを失おうとした決心から日を経、傷付く私に多くの手が差し伸べられた。そうして我が身を大事にしようとする自我の萌芽があることを認識していたが、断固として拒否しなくてはならなかった。

 時を経ることで私の苦痛が無くなるのならば、H子もまたあの日に死ななくても良かったのではないか。もしあの日、死に急ぐH子を縛り上げ精神病棟にでも送り込んでいたのなら、或いは今ごろ一緒に笑い合えていたのではないか、とそういう疑念を拭えなくなる。

 生きていれば報われていた可能性を理解できないほどH子はバカではない。しかしそれでもなお生きることを拒んだ。だから今さらそんなタラレバを考えることに意味はない。失われた命はもう戻らないのだから。私は私の人生を生きるべきだ。しかし私は、意味のない思いから逃げられずにいる。

 相手が電話をとり、スマホのコール音が止んだ。受話器の向こうで、妹さんが息を呑む音が聞こえた。


「もしもし、だっちゃんさんですか?」



https://datchang.hatenablog.com/entry/2020/07/03/003127


 今年6月、私はH子の旦那さんの家に赴いた。

 そういうことがあった、という連絡が旦那からH子の母親の元にいった。そしてほんの数日前、母親から妹さんへその事実が知らされた、ということだった。


「わざわざ茨城の義兄の家まで来ていただいて、手を合わせて下さったって聞いたんです。それで、迷ったんですけど、お電話させていただきました。その、お礼が言いたかったんです。母からも、H子がお世話になりました、と。」


 耳を覆いたくなる言葉だった。

 姉の命を確かに奪ったこの私を責め立てる言葉なんて無限にあるはずだ。それでも「お世話になりました。」なんて言葉をひり出さなければならない苦痛は、それこそ私とH子が死んでも回避しようとした「この世を正気のまま生きていく。」ということそのものだった。


「義兄が、だっちゃんさんから、お姉ちゃんが死んだ理由を聞かされたって言っていたらしいんです。 でもお母さん、『今さらそんなこと聞きたくない。』って断ったみたいで。でも、私は聞きたい。都合のいい日に何処かでお会いしてお話しませんか?」


 私は以前、旦那さんに手紙を宛て、その中に「経緯等知りたいことがあればいつでもお話しするつもりです。」という旨を書いていた。



 その日のうちに、私たちは新宿・歌舞伎町のルノアールで落ち合った。

 H子の妹は、H子に似て身長が高く色白の美人だった。インテリだったH子と違って髪の毛の色も派手で、いかにもギャルという出で立ちをしていた。その姿は自分の容姿の美しいことをきちんと理解しているようで、姉が持ち得なかったある種の異性に対する楽天的さをきっと彼女は持っているんだろうな、と思った。


「今、仕事休職してるから時間あるんです。なんだか働く気にならなくて。」


 彼女もまた旦那さんと同様、私たちの身勝手さが人生を捻じ曲げてしまったその被害者にほかならなかった。


 私はH子の写真をスマホに入れてきていた。一枚一枚、彼女との思い出を話した。話しが尽きることはなかった。二度と戻らぬ日々に胸が痛んだが、それでも彼女の私に見せる笑顔は、確かに心許した人に向けるもののように思えた。


「こんな笑顔するんですね。お姉ちゃんが笑ってるの、久しぶりに見たな。」


「私たちは親友でした。お互いに一番の理解者だったと思っています。」


「以前、お姉ちゃんから仲の良い男友達がいるってことを聞かされていたんです。パリへ一緒に行ったりしたって。

 あの日、警察に呼ばれて霊安室でお姉ちゃんの遺体を見ました。お姉ちゃん、安らかな顔をしていて。警察の方から、『一緒にいた男性がいる。お姉さんと同じ考え方をしている人のようですが。』って聞かされて、私はすぐにだっちゃんさんのことだってピンときました。お姉ちゃんがそんなこと頼める人、他にいないから。」


 話しながら妹さんは自分の腕を強く握っていた。白い肌が、その指の形に赤く染まっていた。


「私、今日、遺品を持ってきているんですが……。」


 妹さんはH子の遺品の入った巾着袋を取り出した。それはH子が死の際、「これをあなたの手で、渡して欲しい人がいる。」と私に託された遺品なのだった。H子が愛していた男、そしてH子を裏切った男、加藤に宛てた手紙と思い出の品が入っていた。怨念そのものだった。

 紆余曲折を経それは警察にわたり、旦那さんから妹さんの手にわたることになった。


「本当は、私たちの手で渡そうと思って加藤さんに連絡を取ろうとしたんです。でも加藤さん、電話に出てくれなくて。それでお母さんとも話し合ったんですけど、加藤さんもご家族がいるようですし、ご家庭を壊してしまいかねないから、渡すのを止めようって思ったんです。だからだっちゃんさんも、もう……」


「妹さん、こんなこと言ったらヤバいやつだと思われるでしょうけど、こんな遺品ひとつで破綻するような赤の他人の人生なんて、別に破綻しても構わないと私は思ってるんです。H子を傷つけた加藤さんのことを大事にする義理もないし、それよりはH子の意志を優先してあげたい。私は、H子の親友なので。私は以前、加藤さんと連絡を取り合っていました。その遺品は私が託されたものですから、私の方でも渡せるよう努力したいと思ってます。」


 妹さんは私の目を見、「ではお任せします。」といって遺品をくれた。「渡せなかったら、棄ててしまって構いませんので。」と言った。


「本当に、姉は幸せだったと思います。こんなに深く想ってくれるヒトに恵まれて。私にはそんな人、多分いないから。わざわざ茨城まで花を持って行って下さって。」


「勝手に、連絡も無しで行ったんですよ。まずいですよね。旦那さんが男だからまあ良いとしても、女性相手に勝手に家に押しかけたりなんてしたらストーカーも良いとこですよね。」


「アハハハハ!」


 妹さんは磊落に笑った。そんな風に笑い飛ばさねばならないほど、彼女を深く傷つけたということだろう。


 私は、H子から今までに貰った手紙も何通か持ってきていた。


「お姉ちゃんって、手紙なんて書く人だったんだ、知らなかった。」


「H子は優しい人でした。」


「優しすぎるくらいです。優しすぎました。」


 どんなに仲の良い姉妹でも、もはや成人した片割れがどんな人生を送っているのか知る由も無い。知るときにはもう、全てが遅い。

 私はH子が死ぬに至った理由を話した。最後に話したこと、最後に食べたかったもの、最後に口にした言葉、最後に私が彼女にしたこと。妹さんが望むこと、その全てを話した。

 私の語る言葉のひとつひとつが、目の前の妹さんを傷つけた。H子が大事にしていた妹のことを私も丁重に扱いたい、少しでも傷つけたくないと思っていたが、H子を救えないように妹さんを傷つけないように語ることもまたできなかった。

 しかしその無力さに歯噛みをするようなことももはや無かった。人を傷付けること、傷を受け入れることが生きることなのだ。少しくらい傷つけ合っても、そんな当たり前のことに逐一心を痛めることはない。

 他人を容赦なく傷つけることに頓着しないのは諦念などではない。単に私が狂っているからだ。


「あの、もう、もう、……。」


 そういって妹さんは自分の口を抑え、私の言葉を制止した。


「ここまでで……。」


 妹さんは目におしぼりを押し当ててしばらく押し黙った。


「知らなくていいことって、あるんですね。」



 二時間程度で切り上げようとして店を出ると、妹さんが


「駅まで送っていきますよ。」


 と言った。


「いいえ、大丈夫ですよ。少し歩きたいんです。」


「じゃあ、もう少し一緒にいても良いですか?」


「勿論。適当にぶらつきましょうか。」


 私たちはそれから、話をしながら新宿の町を歩いた。そこかしこに私とH子との思い出が転がっていた。


「そこの角でね、H子が酔いつぶれて倒れたのを背負ってったんですよ。それであっちの方進んでったら急に起き始めてね。『あなたとはセックスしないの~!ホテル行かない~!』って叫び始めて。『行ーきーまーせん!』つってカラオケに連れてって寝かせて……。」


「急に正気に戻るのウケますね。お姉ちゃんそういうとこあるんだよなぁ。普段飲まないから、限界知らないの。」


 妹さんの声は、H子にそっくりだった。目を閉じるといつもこうして二人で歩いていたことを思い出した。妹さんはハイヒールを履いていた。


「H子はペッタンの靴しか履きませんでしたよね。」


「はい。お姉ちゃん本当によく歩く人だったから、棺の中にあのいつも履いている靴、入れました。あっちでも沢山歩けるようにって。」


「妹さん、声とか話し方が本当にH子そっくりですよね。」


「そんなこと、初めて言われました。ずっとお姉ちゃんに憧れていたから、マネしちゃったのかな。美人で、賢くて、努力家で、優しくて、ちょっと変な人で。お姉ちゃんみたいになりたかったのに。でも、ちょっと頑張り過ぎちゃいましたよね。お姉ちゃん、沢山夢を持ってたんですよ。だから、羨ましかったな。」


 H子は沢山夢を持っていた。芸能活動をすること、好きな人と結ばれること、堅い仕事に就くこと、好きな人を諦めること、正気で生きること。だけど、彼女に叶えられたことは一つもなかった。妹が羨ましがっていた「夢」のひとつひとつがH子を蝕んでいった。


「私には、『妹さんは自分の持ってないモノを全部持ってる、自慢の妹だ。』っていつも話していましたよ。」


「私にはそんなこと、一言もいってくれなかったです。遺書にそんなこと書いてあったけど、いきなり書いてあったって感じで。だっちゃんさんにもそんなこと言ってたんですね。私、もっとお姉ちゃんと沢山話しておけばよかったな。

 お姉ちゃん、ストレスたまって自分で自分の髪の毛むしってたんですよ。爪もずっと噛んでるからボロボロで。でもそんなこと、突っ込めないじゃないですか。あのとき何かしていたら、何か変わったのかな。」


「妹さんと最後に話した方が良いんじゃない、とは言ったんです。でも寧ろ大事だったからこそ話せなかったのかもしれませんね……。」


 私たちはそれから居酒屋に入り、二人で何時間も飲んだ。妹さんは浴びるようにビールを飲んでいた。酔った眼で周囲を見渡す姿は、やはりH子に似ていた。


「私、ずっとだっちゃんさんに会ってみたいって思ってたんです。お姉ちゃんが信頼する人ってどんな人なんだろうって。今日、会えてよかった。お姉ちゃんが……お世話になりました!」


 新宿駅で別れ際、頭を下げる妹さんに私は何も言うことができずにいた。そうして妹さんは泣き笑いの表情で、「また!」と叫んで両手を振っていた。


「また。」


 私も妹さんに手を振り返し、そうして逃げるようにその場を立ち去った。腹の中の臓物が暴れ、よじれるようだった。


「だっちゃんさんは死なないで、生きて下さい。」


 そんなことを言う妹さんに、「いいや、私こそ死ぬべきだ。」と言い返したかった。



 それから私は加藤に連絡を取ろうとした。

 以前話したときはH子に同情的だった加藤も、時間が経って気が変わったのだろう。何度か電話を掛け留守電も入れたけれど、加藤と連絡が取れることはなかった。もはやこの世にいないH子に振り回され遺品を受け取るのは家庭もある身の男としては当然間違っているんだろうと思う。

 しかしそれでもH子の望みが叶わないことに私は苛立ちを覚えた。
 妹さんから、「もう、良いんです。棄てて構いません。」と連絡が来た。それでも私は、遺品を棄てずにいる。あの日、親友の死を目にした夜から、私は前に進めない。

大丈夫、明けない夜はないのだ。

 ある夜、やりきれない気持ちで公園のベンチで一人コンビニの缶チューハイを飲んでいると、足元に茎の折れた花が咲いているのを見付けた。

 誰かに踏まれたのだろうか。植物には詳しくない。紫色の花の名前を検索したけれど、よくわからなかった。

 その花を根元から抜いて持ち帰り、缶を洗って水を差して活けると、缶に描かれた花火の模様が映えそれはそれなりに風流な姿だと思った。独り暮らしの男の部屋には、数少ない彩りだった。

 あのまま公園に放置されているよりも、死を迎えるまでの間ここにいるのは悪くないのではないかとも思った。

 そうしてじきに花は枯れてしまった。そして缶ごとゴミ袋に入れるとき、心に何か形容し難い感情が生まれた。

 私は花を救ったのだろうか。茎の折れたまま生き延びることで悪戯に苦しませたのではないか、或いは私が拾い上げたことで死期を早めてしまったのではないか。どちらにも自信が持てず底冷えするのを感じた。

 

 

 小暑に差し掛かる頃、町にはいつも雨が降っていた。

 強烈な日差しに照らされて熱くなった住宅街のアスファルトにスコールが叩きつけ、茹るように霧が立ち込めるその奥に、私は死んだ親友の姿を投影した。

 

 自宅と職場の往復、その1時間足らずの道程に、私たちの「思い出の無い場所」がなかった。

 

 深夜警笛の鳴り響くメトロのホームで別れた日のこと、池袋のドンキホーテで待ち合わせたこと、有楽町の駅前広場でインタビューを受けたこと、東京駅からKITTEの明かりを見上げたこと、新宿の妖しい裏路地を探検したこと、渋谷のロクシタンで後ろから驚かされたこと、新百合ヶ丘にある「くぐると願いが叶う扉」に祈りながら入ったこと。

 そこここに私たちの過ごした時間の痕跡があり、私たちの望んだ未来があった。けれど、どんな祈りも叶わなかった。

 

 一分一秒が事あるごとに立ち現われて、その度に私は立ち尽くした。

 彼女の優しい影が私を責めるようなことはなかった。ただいたたまれず、「東京には、もういられないかもしれない。」と思っていた。ここではない何処かへ行きたかった。東京ではない何処か。それはこの世の外でも構わない。

 

 

 ある日いつもの電車の車窓に映る景色の中に、大学の校舎が建っているのを見付けた。

 それは彼女が通っていた大学だった。そういえば、よく学生時代のエピソードを聞かされた。

 当時やっていたアルバイトや資格の勉強、モデルの写真撮影、上京して初めてナンパされたこと、理系なのに動物の解剖が恐ろしくて出来なかったこと等々。

 けれどその多くを今はもう覚えていない。

 ずっと一緒にいられると思っていたから、同じ話を彼女の口から聞いて、何度だって飽きもせずに笑いたかったから、また聞いたら良いんだと思っていた。

 だから、全部忘れてしまった。

 

 

 各駅停車に乗換え、大学の最寄り駅で下車することにした。

 彼女の通っていたキャンパスは小山の上にあった。傘を片手に長い坂道を歩いてゆくと小さな神社があったので手を合わせた。

 彼女は神社が好きだった。きっと何度かこうしただろう。

 

 しばらく歩いてゆくと、いかにも大学然としたテニスコート学生寮、研究棟やサークル棟が見えてきた。どの窓にも電気は灯っていなかった。

 小山の上から、学生街を一望することができた。

 各駅停車しか停まらない小さい駅舎、団地の間にある狭い公園やスーパー、個人経営の流行らない居酒屋、遠くの方に学生ローンの看板が見えた。

 

 そこに在るモノのひとつひとつが、私の目には不思議に映った。この町で彼女が過ごすには似つかわしくないような気がした。この景色の中に、彼女がいる姿を想像できなかった。

 日々一体どんな気持ちでこの長い坂を登ったのだろう。

 

 大学生の時分、彼女は好きな男と結ばれていた。田舎で彼女の個性は歓迎されなかったけれど、東京で初めて自分の価値を知った。この世が報われないものであることも知らないままで、きっと彼女にとって最良の4年間だったのだろう。

 考えてみれば、私は彼女にとって最悪の時代しか知らない。そんな私が痕跡を辿っても、彼女に会うことができるはずもなかった。

 

 

 その日の帰り道、小さいバイク屋を見付けた。中古のバイクが何台か雑然と雨曝しにされていた。適当に見ていると、その中の一台に目が留まった。

 「ホンダカブ・110cc128,000円」と貼紙がしてあった。それは格安の部類だった。

 そういえば学生の頃、カブで日本一周してみたいと思っていたことを思い出した。そのときは結局、時間と金がなくて断念したのだけれど、ずっとカブに乗ってみたいと思っていたのだった。

 

 2012年式・中華製の不人気車だそうで、長いこと外に放置されていたと思しき車体は雨染みだらけでお世辞にも綺麗とはいえない代物だった。けれど思うところがあり、結局買うことにした。

 

 公園の茎が折れたあだ花も、人間に棄てられた保護猫も、風雨に曝され叩き売られている中古のバイクも、そういう誰にも見向きされないモノを拾い手元に置こうとするのは、私もまたガラクタのまま誰かに手を差し伸べられることを望んでいるからに相違ないのだと思った。

 所詮モノに自分の何かを投影することそのものが無為なことだが、由来生きることは無為なことだった。

 

 しかし、納車されたカブは不良品も良いところだった。

 計器は壊れ、変速機は歪み、車体はエンジンの振動でガタガタ鳴り、ミラーは取れ、チェーンは走っているときに切れてしまった。バイク屋は応対してくれなかった。掴まされてしまった。

 何処かへ行こうとする度に故障し、押し駆けしたのも10kmは下らない。その度に自分の運の悪さを呪いながら、イラつきながら何とか修理をした。

 

 そうしてようやく調子が安定して来た頃になって、カブに乗って旅に出かけようと思った。

 

 初めての長距離なので、黒部ダムくらいが無理のない範囲で良かろうと思った。

 朝4時に町田を出て高尾山、相模湖を抜けて大月、山梨は甲府を抜けて諏訪湖をとおった。途中、何度も山を越えた。

 天気予報は晴れだったけれど、スコールに見舞われズブ濡れになった。体温を奪われ風が冷たくて身体が震えた。

 

 黒部ダムの入り口がある信州高原に辿り着く頃には、既に7時間以上がかかっていた。それでも先ほどのスコールは嘘のように晴れ、雨上がりの気持ちの良い空が迎えてくれた。

 

 ボロボロのカブが高原沿いの真っすぐな道をひたすら進んでゆく。目線の先には飛騨の稜線が大きく広がり、真っ青な空に浮かんだ入道雲が麓の町に大きな影を落としていた。その影が風に流され動く様子が絵になるようだった。

 

 あの山々の先に目的地があるのだと思うと心が踊った。後少しだ。

 畑の間を走っていると時折、甘くて良い草の匂いが鼻をついた。これは何だろう、よもぎかな。

 

 何度も一緒に旅をした、もうこの世にはいない彼女の優しい声がして、私は路肩にカブを停め日差しで身体を暖めた。

 

 田舎って全然コンビニがなくてトイレ不安だよね。

 さっきまで雨降っていて不安だったけど、こんなに晴れて良かったね。

 一緒にモンサンミッシェルに行ったときのこと覚えてる?何か、あのときの日差しに似てない?

似てないかな。そうだよね。

 

 彼女に語り掛けたい言葉が、彼女に見せたい景色が、分け合いたい気持ちがいくらでもあった。それが一人芝居のように溢れてくる。一人では、人生の悦びだって持て余してしまう。

 

 きっと、もっとこの世には美しいものが沢山あるんだと思う。楽しいことも、嬉しいことも、彼女と分け合いたかった。

 けれど彼女はそんなことは全部分っていて、それでもなお、この世の外にゆくことを選んだ。

 

 ずっと、傍に居て欲しかった。

 私がもっと魅力的な男性だったらよかったのだろうか。もっとカッコよくて、高年収で、ステータスがあって。子どもなんて嫌いだったら良かったんだろうか。

 あのときああしていれば、こうしていれば......。下らない、取り留めのない思考の嵐がやって来る。

 

 逃げるようにカブを走らせた。

 けれどアクセルを全開にしても、非力なカブで振り切ることは出来なかった。

 

 

 先日実家に帰ると、数年前彼女が旅先から私に宛てた手紙が出てきた。悩みがちな私に向けて、

 

「大丈夫、明けない夜はないのだ。」

 

 と私を励ます言葉が書かれていた。

 けれど彼女自身の夜が明けることは遂になかった。それが答えだろう、判り切っていたことだ。結婚しても、引っ越しても、旅行をしても、抱え込んだものは全部背負っていくしかない。

 私はずっと東京ではない何処かへ行って、彼女のことを忘れたいと思っていた。けれど、何もかも忘れるには私たちは深く理解し合い過ぎてしまった。忘れることなんて出来るはずはない。この世に逃げ場なんてあるはずはなかった。

 

 黒部ダムに辿り着き、手すりを掴んで放水を覗き込むと迷いそうになる。ここから飛んだら楽になれる。けれどまだ死ねない。この手すりを放せない。

 自殺した人間は地獄へ行くらしい。確かに彼女は死を望んだけれど、手にかけたのは私だ。だから彼女が地獄へ行くことは無い。

私が全部背負って生きてゆかなければいけない。生きて、生きて、生きて、そして最後は何もかも地獄に連れて行く。

 

 心に空いた穴が埋まらない。最深奥まで大きな洞穴がポッカリと口を開いていて、寒々しい風が吹きすさび私の名前を呼んでいる。だけど身を委ねることはまだできない。彼女の名前を叫び、辛うじてこの世の端にしがみついている。

 今夜も嵐がやって来る。 

亡霊を追う

 3月14日の朝、H子は宣言どおりその命を裁った。
https://datchang.hatenablog.com/entry/2020/03/15/191526

 いいや、間違いなく私自身がこの手に掛けたのだ。
 あれから3か月、漫然と日を経た。彼女から託された遺言のうち、果たせたものもあれば果たせないものもあった。しかしおおよそ彼女の望み通り「こと。」は運んだはずだ。
 しかし私は悪夢にうなされていた。
 気が付くと、私は闇の中にいる。闇の中には私と、あの日のホテルのドアがあり、H子が磔にされている。彼女に寄ろうとすると、彼女の身体に火が放たれ、彼女が私に助けを求め泣き叫ぶ。だが彼女と私の間には見えない壁があって、走れども走れども辿り着くことはできない。そしてH子は私に叫ぶ。
「あなたは未だ私を殺していないッ!」

 あの日、私は彼女の死亡を確認した。脈と呼吸、瞳孔を調べた。しかし所詮プロでない私に、何か思いも寄らぬ遺漏が無かったと断言することはできなかった。
 彼女の肉体は救急車によって運ばれていったが、その後、二度とこの目に見ることはなかった。その先を私は知らない。葬式に招かれることは当然なく、遺骨を見たわけでもなかった。
 思い返せば警察も「H子は死んだ。」とは、一言もクチにしてはいなかった。彼女の死に確信を抱けずにいた。それは或いは「そう思いたかった。」ということなのかもしれなかった。
 私たちは毎日のようにLINEをやりとりしていた。私の日々の中には、どんなに忙しくとも彼女の為に割く時間があった。
 それが丸々なくなったことで、胸に虚が空いていた。それはただ彼女のことを考える時間となっている。他のモノに埋めることはできなかった。
 その時間の、一分一秒が悩ましかった。
 H子があの状態から万一蘇生するようなことがあるのなら、きっと尋常ではない後遺症を負っていることだろう。そして精神病棟に幽閉され、僅かに残った理性で私を呪っているに違いないと思った。
 そう思ってはいてもたってもいられなかった。警察に捕まることなどリスクのうちには入らない。もし彼女が生きているのなら、今度こそ息の根をこの手で止めてやらねばならない、その責任が私にはある。
 彼女の死に確信を抱く為、せめて遺灰を確認したい。仏壇でも、遺族の言質でもなんでも良い。

 しかし当然、それは生き残った遺族にとって身勝手甚だしい願いだった。
 2か月前、私はH子の旦那に手紙を書いた。
 私宛の遺品と遺書を託して欲しいということ、ことの一切を話す積りがあるということを。
 当然すぐに返事が来るだなんて思っていたはずもない。しかし私は一縷の望みに賭けて返事を待った。ところが終ぞ返事が来ることはなかった。
 それは無理からぬことではあったが、しかし私は焦れた。いつかはH子の旦那と話をしなければならなかったが、H子から彼が6月末を以て現住所から他の土地へ転勤となることを聞かされていた。そうなってはもう私の側からその後の動向を把握することはできない。また、彼の気が変わりいつか返事を書いたとしても、今回知らせた住所に私がいつまでも住んでいる保証など何処にもなかった。
 
 今月が、直接旦那さんと会うことのできる最後のチャンスだった。
 いずれにしても、いつか私はH子の暮らした土地を見に行くことになるだろう。ならばその好機は今を於いて他にないと思った。
 相談した友人たちからは揃って「どこまでも旦那さんの尊厳を傷つけるようなマネをするのは止めろ。」「(旦那に私が)刺されてもおかしくないぞ。」という忠告を享けた。けれどH子を救えなかった者に対して頓着するような気持ちを持ち合わせてはいなかった。それは旦那さんにも、私自身に対しても。

 そして私は、彼女が暮らしていた茨城県神栖市へでかけることにした。

 

 東京駅のターミナルで、神栖市ゆきの高速バスが来るのを待った。
 たまにH子が東京に遊びに来る際、私は何度もここで彼女を見送った。
 東北の片田舎を嫌って上京したH子にとって、再び田舎暮らしに封印されることそのものが苦痛だった。大した用も無いのに東京へ来て時間を過ごし、その度に私に声を掛けてくれた。
 そしてこのバス停で私に見送られ別れるとき、いったい彼女はどんな気持ちを抱いてバスに乗り込んでいったのか。
 そのことを考えると眩暈がした。
「もう少し、一緒にいようか。」と、そんな言えたはずもない一言を或いは言えたのではないかと考えては、その不毛さに苛立ちを覚えた。
 やがてバスが来て、いつか別れた日の彼女の影が、私の前に現れた。私に手を振り、踵を返してバスに乗り込んでいった。その影を追ってバスに乗り込むと、乗車口で彼女の影と私の身体が重なり、彼女の姿を見失った。そこから先のH子の姿を私は知らない。

「鹿島セントラルホテルゆきです。」
 運転手が言って、私は頷いた。

 千葉から利根川を越え茨城に差し掛かる頃になると、車窓の景色は見渡す限りの田園風景となっていた。のどかだな、と思うことはできなかった。
 こんな場所では車が無ければ何処へゆくこともままならない。乗用車もましてや免許も持たないH子にとって、この地平線そのものが牢獄だった。
 そうしてバスは神栖市の市街地に到着した。所要90分程度だった。こんなに近いのなら、生きているときに自分から会いに行ってあげたら良かったとは謂い条、しかしこんな不毛の土地へ来るのに往復4千円の交通費は、尋常なら大金である。だからきっと考えるだけ栓の無いことだった。栓の無い事柄から、逐一逃れることができなかった。

 この日、町には雨が降っていた。
「だっちゃん、私ね、雨が好き。」と彼女は言っていた。私もその意見に賛成だった。私たちは日陰者で、寂しがり屋で、孤独でいるのに理由が必要だった。雨音は私たちに寄り添っていた。

 鹿島セントラルホテルの一階でレンタカーを借り、カーナビで花屋を探した。約束もなく手ぶらで旦那さんの元へゆくには居心地が悪かった。
 花屋は何件かあったけれど、そのうち一軒の店名が彼女と同じ名であることを見付けた。それも何かの縁と思い、車を走らせた。

 花屋に着くと、店内は無人で、電気さえ点いていなかった。
 花用の、ガラス張りの冷蔵庫の唸る音だけがしていて、曇ったガラスの中に数輪の花が見えた。
 客はほとんど来ない様子だった。無造作に置かれたテーブルの上にはタバコと吸い殻が押し付けられていた。タバコのフィルターにはピンク色の紅が着いていて、店員は女なのだろうと思った。
 入り口の隣には立て看板が置かれていて、「御用の方はこちら。近所におります。090-……」と連絡先が記されていた。一寸迷ったが電話を掛けると、
「はいはい、どなた。」
 と老婆の声が応じた。
「お店、やってますか?今、店にいるのですが。」
「はいはい、今行きますよ。待っててくださいね。」

 数分待つと、80歳くらいのお婆さんが軽トラックに乗ってやってきた。
「お待たせしたわねえ、キャバクラのお花?」
 藪から棒に問いかけられた。田舎だが、近所にはキャバクラが数軒あった。きっと、キャバクラ嬢宛てに男たちが花を買いに来ることもあるのだろう。
「いいえ、普通の花を包んで欲しいんです。墓参りの。そういうのはやってませんか。」
「できるわよ、座ってて頂戴。花束は2つでいいわよね。あなた、この辺の子じゃないわね。東京?お墓はご実家の?」
「いえ、友人のです。」
「あら、じゃあ若いのね。ご病気?」
「若かったです。……自分で、です。」
「そうなの。おばさんもね、元々は東京なのよ。昔足立区でね、辛いことがあって。それでずっと死のうと思ってたのよ。こっちに嫁いでからはそんなことも思わなかったんだけどね、数年前、夫が死んでからは、若い頃の死にたい気持ちをよく思い出すのよ。高い所に立ったらね、足が竦んでしまったの。逝ける人は偉いわ、自分に嘘をつかない人よ。私は死にきれなかったわよ。」
「それでいいのですよ。」
「まだわからないわよ。死んでおけば良かったと思うこともある。生きてることが死んでることより良いかなんて、最後の日になるまで判らない。簡単に言えないわ。」
「おばさんの言ってること、わかりますよ。」
「そう、わかってくれるのね。そういう人は珍しいわよ。」
 おばさんは手際よく花を束ね、茎をハサミで切り形を整えながら、身の上話を聞かせてくれた。私もおばさんの問いかけるままにH子とのことを答えた。
 おばさんは作っていた花束を一旦置いて、冷蔵庫から白い胡蝶蘭を取り出した。それは一輪一万円もする高級花である。死者へ手向けるにはこれ以上ない花束となってしまった。
「この胡蝶蘭はね、おばさんの気持ちよ。花も喜ぶわ。ただ飾られることの多い花だから、深い気持ちの載った花束に成れる胡蝶蘭は多くないわ。どうしてこんな路地裏のお店に来たの?」
「気に障るかもしれませんが、彼女の名前とお店の名前が似ていたんです。」
「じゃあ、何かに導かれたのね。きっと見守ってくれてるわよ。おばさん、あなたに会えてよかったわ。」
「私もです。おばさん、ありがとう。」

 花束を助手席に乗せ車を発進するまで、おばさんは見送ってくれた。
 これから、H子の旦那に会いに行く。
 自分の妻を殺した男と会った彼が、何を口にして、何をするのか。いかなる事態も覚悟していた。
 しかしどんなに口では「私なんて、どうなっても構わない。」と主張したところで、罵倒されれば屈辱を感じ、殴られれば痛みを感じ、目的に執着する私は、悟り切ることの出来ない男だった。
 不安で堅くなる心に、花屋のおばさんの優しさが染み入った。
 十数分も車を走らせると、H子の住んでいた家の近所に到着し、適当な場所に車を停めた。外は土砂降りになっていた。
 H子が私に宛てた手紙に書かれた住所を再度確認し、傘を開いて外へ出た。花を片束抱えると生花の鮮やかな匂いがして、寄り添ってくれた。

 

 手紙に書かれた彼女の住所には、アパート名が書かれていなかった。
 周辺には幾つかアパートが建っていた。カーナビもGooglemapも表示する場所が微妙に異なり、どのアパートか断定できずにいた。
 途方に暮れたが、ここまで来て何も得るものなく帰ることになっては笑えない。手掛りを得る為、一棟一棟、一部屋一部屋、虱潰しに見て回るしかなかった。今日び部屋に表札を掲げているような家も無い。せめて配達員でも通りかかってくれたら……と思ったけれど、周囲に人影はなかった。

 そうして何部屋か見て廻っていると、明らかに異様の部屋を見付けた。
 その部屋には藁人形が数体、玄関にぶら下げられていた。扉には、「厄除け」と書かれたお札が貼り付けられ、インターホンの下には、「セールス勧誘のノック禁止、インターホン使用料1,000円也」と貼紙がしてあった。
 それは、他人から見れば怪異だった。
 しかしH子はかつて私に、「田舎の人たちのお節介が鬱陶しい。誰にも関わって欲しくないから、玄関に藁人形をぶら下げたら誰も関わって来なくなって平穏を取り戻した。」などと言っていたのだった。
 私はその言葉を冗談半分に聞いていたが、現実を目の当たりにして愕然とした。
 H子はこんなに追い込まれていたんだ。こんなにも、この世界に馴染めなかったんだ。その現実を突き付けられた。

 H子は死ぬ直前、「頭のおかしい女。」になることを恐れていた。駅のホームで、繁華街で、恥も外聞もなく周囲に呪詛を撒き散らし、誰にも相手にされなくなった「成れの果て。」にわたしはなってしまうだろう、それだけは絶対にイヤだ。としきりに言っていた。しかし、これではもう……。
 やはり彼女を救うことはできなかった。もう、後戻りのできない場所にいた。
 H子が死に、「一緒に死んで欲しい。」と言われた私が生き残ってしまったその理由は、巡り合わせの結果ではない。彼女と同じ奈落にゆきかけたときに、「何者か。」が、私に取り付けた糸を引き、狂気の果てに行けなかった。私は彼女ほど、「死に憧れる。」ことが出来なかった。少なくとも、今は未だ。

 貼紙の文字と手紙の文字を見比べ、H子の字に間違いないことを確認した。怨念の籠った文字を書き乍ら1,000円のカンマを忘れずに書くような几帳面さも含め、これは間違いなくH子の仕業なのだった。


 意を決しインターホンを押したが、返事はなかった。
 旦那さんは出勤している様子だった。彼は近くの工場のエンジニアで、週6勤務、土日もなく毎日夜遅くまで働いていた。H子はそんな旦那の健康を気遣っていた。もっとも、最終的に彼を一番追い詰めたのは彼女自身に相違なかったが。

 彼が帰宅するのを待たねばならない。夜になれば、窓には電気が灯るだろう。居留守もできないはずだと思った。
 花束を玄関に置き、来訪を知らせた。そして夜更けを待つ間、鹿島港へと車を走らせた。

 埠頭の端に座り込み、波打ち際に花束を置いて手を合わせた。
 あの部屋の様子はまともではなかったが、しかしあの異様な装飾が無ければ、私がH子のアパートに辿り着くのは難しかった。
 H子の遺した物が私を導くことが、何か誘われているように感じた。そして取りも直さず、3ヶ月もの間あれほどまでに世間体を憚らないモノを、旦那さんは片付けずに放置しているということだった。それは妻を失った男の深い悲しみを表していた。
 やはり旦那さんに会って、全てを話さなければいけないと思った。

 ふと、きのこ帝国の「海と花束」の歌詞を思い出した。
https://www.youtube.com/watch?v=ZdgQ82boywc
___
伝えたいことなど とっくのとうに無い
錯覚起こしてる ただそれだけなんだよ
ごめんね、これでもう忘れよう
花束抱えて 海へと向かった
最初で最後の他愛ない約束をしよう
きっともう会えないから
僕たちはいつも叶わないものから順番に愛してしまう
ごめんね、これでもう最後さ
__

 10年近く前、よく聴いた歌だった。まるで歌詞そのままの行動を採る自分が滑稽で笑えてきた。
 そうだ。誘われているも、話さなければいけないも、何もかもそんなのは後付けの錯覚に過ぎない。H子でも旦那さんのためでも何でもない。

 私が、私自身の亡霊に決着を着けるためにここへ来たのだ。

 

 夜も更け22時頃、再びH子の家に赴いた。相変わらず雨が降っていた。
 窓の明かりが煌々とつき、置いた花束はなくなっていた。旦那さんは帰宅しているようだ。
 玄関先に近づくと防犯用のセンサーライトがピカ!と光り、私を照らした。またしてもH子の仕業だった。周囲にはライト以外の光源が無く、眩しさに目を焼かれた。スポットライトを当てられ、次のシーンを演じることを求められているようだ。もう後戻りできないと思った。
 インターホンを押すと、若い男の声が応じた。
「夜分遅く失礼します。奥様の件でお伺いしました。失礼とは思いますが、少しお話しませんか?」
 一寸、間が空き、インターホンの向こうで男が息を呑むのを感じた。ドアが開けられ、H子の旦那は、「どうぞ、お入りください。」と応じた。
 部屋に入ると隅には小ぶりの机があり、その上にH子の遺影と骨壺が置いてあった。それで私は、確かにH子は死んだのだと思った。
 リビングには埃がつもり、食べかけのカップラーメンとゴミ袋が放置され、生活の荒廃を顕していた。それでもH子の遺影の周りだけは清潔に保たれていることを私は見逃さなかった。喉に異物が詰まるような気持ちになり、
「この度は、ご愁傷様でございました。」
 などという通り一遍の無意味なクリシェを絞り出すのが精一杯だった。しばし無言の時間が流れた。

 旦那さんは、H子の藁人形を片付けなかった。
 リビングには開きっぱなしのキャリーケースが放置され、中に「鳳凰酥」と書かれた黄色い箱が見えた。H子の死ぬ直前、二人は台湾旅行に出かけていた。
 この部屋の時間は、H子が死んだその日から止まってしまっていた。ここは廃墟なのだと思った。温度の無い悲しみが、塊のようにそこにあった。
 旦那さんの顔は蒼白で、白目は黄色く、まぶたの下には深い隈ができていた。
 以前H子に見せてもらった彼の健康的な写真とは似ても似つかない。小太りといっても良い体形だったはずだけれど、今目の前にいるこの男は、同じ顔をした別人のように骨と皮となっていた。数か月で人をこうまで変貌させる失意の深さを思った。
「こんな夜分に押しかけて申し訳ありません。手紙を書いたのですが、お返事を書くのはきっと負担が大きかろうと思って参りました。月末で転勤なさると聞いていたので、これがお会いできる最期かと思い……。」
「いいえ大丈夫です。私も返事を書きかねていたんです。お越しになった理由も何となくわかります。まあもう、仕事も月末で辞めるんですけどね。どうしても働く気にはなれなくて……。」

 彼の人生は否応なく変わってしまった。
 心身の健康を失い、仕事さえ失うことになってしまった。そして最愛の妻が自分以外の男を愛していたこと、苦悩を託したのも自分以外の男であったこと、その全てが彼を八つ裂きにしたに相違なかった。

 私は、H子との出会いから、抱えていた苦悩と、最後の日に至った経緯について話した。

「妻は、本当に自分勝手ですよね。なんて自分勝手なんだ、本当に……。」

 30歳近い男が、初対面の素性も不明の男の前で言葉を詰まらせ、涙を流していた。その痛ましさは見るに堪えなかったが、しかし私もまたH子と同じく身勝手で、心を喪った人間である。「死ねば現在の苦悩から解放される。」ことを知っているから、苦悩する目の前の人間に抱くべき感情を探しあぐねていた。死を引き当てにすれば万事が些細なことだった。しかし本当は、些細なことなど何一つなかった。

「こうして全てをお話し致しましたので、どんな目にも遭う覚悟でいます。お望みであれば。」
 というと、
「私は、貴方のことを責めるつもりはありません。今さら何を言ったところで妻は戻りませんから、遺された私たちは、前を向いて生きていかないと……。」

 そう自分に言い聞かせるように口にするのだった。
 それを聞いて私は、まともな人だな、と思った。しかしだからこそH子は彼に心を許し苦悩を打ち明けることができなかったのだろう。

「お願いがあります。手紙に書いたように、彼女の遺言と遺品を私に託して頂きたいんです。」
 私に宛てた遺書で、H子は、私にその他の遺書と遺品の扱いを託していた。そして昔の想い人・加藤と会い、遺品を直接手渡して欲しい旨。
「遺書と遺品は、今はお義母さんの元にあるんです。ああいうものは私よりも血縁の方が持っていたほうが良いと思いますので。」
「左様ですか。ではお母さんが加藤さんに遺品をもう手渡して頂いた、という認識でよろしいのでしょうか。」
「いえ、お義母さんには渡してあるんですが、『加藤さんとは連絡がつかない。』ということでした。」
 「嘘だ。」と思った。私は加藤と連絡をとることができる。
 H子の母親は、少なくとも今は未だ、娘を死に追いやる原因となった男に遺品を引き渡すつもりがないということを意味していた。
「そうですか。遺骨は、どうされるんですか。」
「遺骨も……、海に撒いて欲しいと遺書には書かれてましたが、私の実家の墓に納骨する予定です。彼女も私の祖父母や親戚ばかりで肩身が狭かろうと思いますが、それは、そういうものだと思っているので。」
 もはや死んでしまった人間の存在が、生きている人間の人生の邪魔をするべきではない。しかし死者の切実な願いは、こんなにも蔑ろにされるものなんだろうか。

 生きても死んでもままならないH子のことを想った。
 そうか、あの海に彼女はいなかったんだ。

 帰り際、H子の遺影に手を合わせた。遺影の横には私の置いた花束が添えられていた。
 昼間海に流した双子の花束を辿って、彼女の魂だけでも海へと還ってくれたらいいと思った。
 そんな都合のいい願いが叶うかどうかはわからないけれど、供養なんていうのは土台そのようなものだろう。手製の屁理屈でだって、生きている人間が少しでも納得できるように整理するしかない。

 例え、ウソを吐いても。
「H子は死に際、旦那さんのことを慮っていましたよ。旦那さんのことを『愛していた』と言っていました。どうかご自分を責めないで下さい。」

 家を後にしたとき、雨はもう止んでいた。数百m先に停めた車まで全力で走った。肺が破裂しそうだったが、「何か。」から逃げ出したかった。
 深夜、街灯のない畦道が延々と続いていた。

 

 ホテルのベッドで横になり、まんじりともせず過ごしていた。
朝の4時頃になって、今日はもう眠れないのだと諦め、服を着てその辺を散歩することにした。
 近くのコンビニで缶コーヒーを買い、田舎よろしく無駄にだだっ広い公園のベンチに腰掛け、モヤのかかったような頭でぼうっとしていたが、地平線の彼方から陽が昇り、その光が目に刺さって痛かった。しかし太陽から目を逸らすことができなかった。この痛みは罰なのだと思った。

 数年前の金曜日、新宿で飲んでいた私とH子は終電を逃し、カラオケで仮眠をとることにした。
 したたかに酔い、カラオケに着いて早々、大股を開いてソファに横になるH子にスーツのジャケットをかけてやった。H子は私のジャケットを掴んで自分の顔を覆うと、すぐに寝息を立て始めた。

 ある日、「だっちゃんと一緒に働きたい。」と私の職場の選考を受けていたH子は、書類選考、筆記、一次面接を突破して、残すところ役員面接だけとなっていた。
 お祝いと、慰労と、あとはただ話したかったから、その日のお酒も悪くなかった。

 私もソファに座ったまま眠りに落ちた。
気付くと3時間パック終了の電話が掛かって来て、私たちはカラオケを追い出された。そしてまだ薄暗く肌寒い新宿の街をゆくあてもなく彷徨い、高台の住宅街にある公園に辿り着いた。

 夜明け前、貸し切りのベンチに座り、私たちは缶コーヒー片手にまどろみながら世界の始まりを待った。
 やがてゆっくりと陽が昇り、街をあたたかく照らしてゆく。高層ビルの先端に反射した朝日が歯ブラシみたいに街を磨き、空の色が藍から青に変わっていった。
 私たちだけが知っていた。今日から違う世界になったのだということ。報われない世が終わり、やっと私たちが報われる時代になったのだと思った。
 私たちのコンビネーションに異論を挟む余地はない。きっと職場でも良いパートナーに成れるだろう。

 H子を見ると何も言わないまま、ただ遠くを見つめていた。「何を考えてるの?」とは訊けなかった。私が知る由もない、もう一人の自分と戦っているようなH子の浮かない顔を見ていると、胸が少しだけ痛んだ。
 私の視線に気付いたH子がこちらを向いて、

「どうしたの?」
 と訊いた。
「いや、何でもない。」

 やがて遠くで微かに電車の走る音が聞こえ、人影が散見されるようになった。

「始発、出てるみたいね。」
「オレの始発はもうまだ先だから、もう少しここで休んでるよ。」
「わかった。じゃあ、もう行くね。」

 H子の背中を見送りながら、こんな朝を迎えることができるんだったら、これから生きていくのもまんざら悪いことではないように思った。

 死の際、H子は私に、「愛してた。」「結婚したかった。」と言った。そのことが、鍋の焦げ付きのようにしつこくこびり付いて離れない。
 嘘をつけ。H子が男として愛してたのは私でも旦那でもなく、自分を裏切った男だ。
 私は、自分が彼女を救えないことを心得ていた。彼女に何もしてやれないけれど、それでも傍にいたいと思っていることをH子はよく解っていた。
 私に対するものは、そういう長年愛玩して来た忠犬に対するそれに近い。
 しかしそれでも私は嬉しかった。「死を任せる。」という他の誰にも担えない役割を貰ったことが。
「生を任せる。」こと、即ち共に生きてゆくことよりずっと容易だが、しかし人生を棄てる覚悟をした私でなければ担うことのできない役割だった。
 喉から手が出るほど欲していた、「私の意味。」そのものだ。私のこれまでの人生にはそんなものしか無かったが、しかしそれでも確かに私が得た意味なのだった。

 そうして私はH子を見送り、知らない町の公園のベンチで今も未だ、ひとりで夜明けを眺めていた。
 私は「私の意味。」を得たが、相変わらずただ生きて呼吸することそのものが苦痛であることに変わりなかった。
 あのときも結局H子は役員面接に落ちて、私の職場で働くことはなかった。世界は相変わらず彼女の報われない形のまま回り続けていた。

 雨上がりの朝焼けの美しさは胸を打つけれど、それは私たちの苦痛とは関係ない。何度朝を迎えても、私もまた死ぬまで救われることはないのだろう。そんなことは判り切っている。
 それでも、H子が「あなたの書く文章が好き。」と言ってくれたから、こうして私たちの過ごした時間について書きのこしておこうと思った。
 彼女の亡霊を追いながら、私は未だ「生きて救いを求める。」ことから、逃げられずにいる。

杏仁豆腐と過ごした一週間戦争。

 家庭を持ったら、猫を飼おうと思っていた。妻がいて、子どもがいて、そういう間取りを猫が横断していくような空間の体温に憧れを抱いていた。
 紆余曲折あって、私にはそもそも妻子を持つのが難しいんだろう、という現実をようやく、少しずつ受け入れられるようになってきた。

 となればもう遠慮することはない、猫を飼ってしまおう。と思い立った。
 私は自分のためだけに毎日満員電車に押し込められ、退屈な仕事に日々を埋没させていくようなことができない人間である。自分の所属している社会や、果ては自分自身に対する愛着が無いから、「最悪どうなっても構わない。」という擦れた心が常に傍らにあるせいで踏ん張りが効かない。
 そこで家に可愛い猫でもいてくれたら、猫のために食い扶持を稼がなければいけないと思うことができるだろう。猫の大好きな「ちゅーる」やおもちゃ、猫タワーを気前よく買ってやるためには、私一人がただ漫然と食っていく以上に稼がなければいけない。
 そういう責任感のようなもので、日々を乗り切れると思った。

 元々実家で数匹飼養していたので、世話の仕方はわかるつもりだ。猫には愛される自信がある。

 思い立ったが早いか、近所の猫を保護しているNPOや個人のボランティアさんに連絡をとった。が、「独身男性」であるということで何度も門前払いをされた。
 まず「独身である」ことがネックである。出勤して家を留守にしている間、猫が孤独だから、というのが方々で説明された理由だった。でもそれは、一人遊びが好きな子を選べば良いだけの話である。
 次に「男性である」ことがネックだった。
「女性ならいいんですけどねぇ。」と猫を保護しているおばちゃんに言われたことは一度や二度ではない。これは霊感だが、男性の攻撃的さが不穏な事態を想像させるからなのだろう。失礼な、少なくとも私には当てはまらない、全くの偏見である。と思いたいが、自分のことは本当のところ他人からどう見えているのかよく分らないから何とも言えない。

 そうして何件も断られ転々としていたある日、知り合った一人の猫ハンターの女性から、「知り合いが独身男性にもぴったりの子がいるって言ってたから、連絡してあげるわよ。」と言われ、ある保護親さんの連絡先を教えてもらった。
 ちなみに「猫ハンター」とは、野良猫が迷っているという情報を聞きつけたら現場に急行して猫を捕獲し、去勢して野に還すという猫にとっては大災厄のようなボランティアさんのことである。

 そしてその保護親さんと連絡をとり、私の住む部屋に白い子猫がやってきたのは先週のことだ。

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 まだ1歳くらいで、白い体毛の女の子だった。
 知らない人間(私)を見て怯えて小さくにゃあにゃあと鳴いて震えている姿が本当に愛らしいと思った。
「他にも良さそうな子を連れてきたので、もし良かったらご覧になりますか?」と訊かれたけれど、
「この子にします、最初に来てくれたということは、きっとご縁があるということだと思いますので。」と他の猫をろくすっぽ見ずにその白猫を引き取ることに決めた。

「猫を保護することにしました。名前の案を下さい。」とTwitterで募集すると、フォロワーからいくつか名前を提案して貰った。
 その中から選んで、「杏仁豆腐」と呼ぶことに決めた。


 白い体毛が寒天のようで、ピンク色の細長い鼻がクコの実のようではないか。女の子だから甘いものの名前はぴったりで、「杏ちゃん」と愛称で呼ぶこともでき実用的でよい名前だと思った。

 そこからシングルファザーとして愛される努力の日々だった。
 猫のベッドやちゅーる、玩具を買い揃え、Amazon段ボール箱を切って工作して家を作った。
 最初はおそるおそるという様子だった杏仁豆腐も、段ボール箱の中に敷いた私のパーカーの中で(しぶしぶ)丸くなって眠るようになった。

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 朝起きると、杏仁豆腐が段ボールハウスの中にいなかった。中々見つからず焦っていると、「カサ」という気配を感じた。
 そして冷蔵庫の裏を覗き込むと、杏仁豆腐は隙間に引っかかって出れなくなっており、ブルブル震え怯えていた。
 冷蔵庫をずらし杏仁豆腐に引っ掻かれながらつまみ出すと、ピャー!という勢いでまた何処かへ消えていった。もう挟まったりしないよう、冷蔵庫の裏の隙間を塞いだ。

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 次の日はカーテンの裏に隠れていて、触ろうとすると「フー!」と毛を逆立てて怒っていたのだけれど、ちゅーるを手のひらに出してやり、頭を撫でながら差し出すと、ペロペロと全て舐めとってしまうのだった。ゲンキンなやつ、猫はちょろいぜ。

 しかし手を洗っても、ちゅーるの魚臭いのが中々取れなかった。それを念入りに洗っていて、危うく会社に遅刻するところだった。
 毎朝、杏仁豆腐がどこにいるか探すことから始まる日々は鬱陶しくもあり、その煩わしさが楽しくもあった。
 帰り道、特に必要はなかったけれど、招き猫の置き物を100円ショップで買った。私は無用なモノを持たない主義なのだけれど、杏仁豆腐と同じ白猫だし、なんだか彼女がこれから良いことを運んできてくれるような気がしたのかもしれない。

 帰宅して杏仁豆腐を触ろうとすると、最初は「イヤダー!」みたいな声を出して拒否していたのだが、無理やりさわっているとなんだかんだ「ゴロゴロゴロ」とリラックスしているときの声を出すのだった。理性では警戒しているのに、人間に触られる快楽には打ち勝てないなんて、本当に猫はちょろいと思った。

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 ある夜、家に帰ると、今度は下駄箱の中に隠れていた。そして触ろうとすると、もう杏仁豆腐は怒らなかった。私の差し出した手に、自分の耳の根元を擦り付けて、お腹を出して甘えてくれるのだった。それからは、下駄箱が彼女の定住地になった。暗さとか、靴の柔らかさとか、臭いが気に入ったのかもしれない。

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 家に帰るのが楽しみになっていた。杏仁豆腐が待ってるからな、と思えばとりあえず面倒なこと、辛いことは脇に置いておくことができる。「これが守るべきものがあるってことなのかな?」と思いもした。
 保護親さんには杏仁豆腐の様子をLINEで逐一報告していたのだけれど、「順調そうで何よりです!」と褒められ、「いやはや、まあ、我々ですので。」とこう、私は根がお調子者なので、そういうことを思ってしまったりもした。
 変なところでウンチをしてしまったので、ウンチを取って猫のトイレに置いておくと、賢いもので「あ、ここがトイレなのね。」と理解して、それからはそこで用を足すようになった。
 猫のエサは基本的には魚系なので、やはり臭いが結構きつかった。
 まあこんなにナマ臭い部屋じゃ、もう女の子は呼べないわな、と思った。あわよくば、まあ、こういう猫ちゃんに理解のある女性と知り合えたらいいけれど、そうでなくてもこうして杏仁豆腐をなでていれば当面私は生きていける。
 猫の世話をしている分、絶対に可処分時間を盗られているはずだ。しかし補って余りあるくらい一日の充実度が段違いである。やっぱり猫を飼って良かったな、と思った。

 ところがある日、朝起きると顔が真っ赤になり、皮膚がカサついていた。咳が出て、喉に異物感があった。
「これは風邪でもひいたかな?いやコロナかな?」と思うことにしたが、翌日、私の顔は腫れてしまっていた。
 ただ家にいるだけで全身を虫が這い上がってくるような掻痒感があり、咳も悪化していた。空気清浄機を買ってみたものの症状は一向に良くならず、そして病院へ行くと、
「ああ、それは猫アレルギーですね。」とあっさり告げられた。嘘だろう?と思った。
「いやでも先生ね、私、実家にも猫いるんですよ。こんな症状でませんでしたけど。」と申し伝えると、
「猫との相性ってものがあるのですよ。それに、大人になって体質が変わって発症することもありますね。」と告げられるのだった。
「コロナで最近飼う人多くてね、猫アレルギーのひと増えてるんですよ。可能なら、保護親さんに返した方が良いですよ。それがあなたのため、そして猫のためでもあります。」
 とご丁寧に訊いてもいないようなクソバイスまでくれる親切な皮膚科医なのだった。

 そういえば、結構前に、Twitterで流れてきた猫のマンガを読んだことを思い出した。
 それはうだつの上がらない中年独身男性が猫を飼っていたのだが、ある日突然孤独死してしまう。そこからその家猫の受難の日々が始まるという話だった。
https://twitter.com/shinzokeigo/status/1231054374538858498?s=20

 以前、私もブログに「私はもう自分の未来が判る、私はある日身体が動かなくなり、溶けて畳の染みになるのだ。」というようなことを書いた記憶があるのだが、正にそのとおりではないか。
 となればこの受難を乗り越える家猫は、私の杏仁豆腐のことだろうか。臆病な杏仁豆腐はこの漫画の猫のようには野生で生きてはゆけないだろう。
「今なら杏仁豆腐は若い。新しい里親さんに引き取ってもらう方が、この子の為なんだろうな。」という結論にいたるのに、時間は掛からなかった。
 正直、もう情が湧いていて手放したくなんてなかった。帰宅して、下駄箱の中に棲んでいる杏仁豆腐を撫でて話しかけた。

「杏仁豆腐よ。オレ、本当はお前のこと触っちゃダメなんだって。」 と話しかけると、「にゃあ!」と元気に返事をくれるのだった。

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「ごめんね。」
 と口にすると、ほんの一週間の付き合いしかないクセに胸が一杯になって、ある種の込み上げてくる辛さがあった。猫アレルギーに勝てるような健康な身体さえオレにはないのかよ。やることなすこと裏目に出て、こんなに小さい杏仁豆腐とさえ一緒に暮らせない。それこそ、そうなることが「組み込まれている」のではないかと思えてきた。
 先日読んだHeinrich von Kleistの著作の巻末で、訳者が著者を評した言葉が印象に残っていた。
「何をやってもものにならなかった。地上とは別の真理が支配している他の天体からやってきて、その真理が通用しないここでの営みにはことごとく、あらかじめ失敗、挫折が組み込まれている、そういう人間、または人間の姿をしたなにものかであるかのように、やることなすことに失敗した。」
 私は、自分のことを言われているのかと思った。

 失うことには慣れているつもりだった。財産、信用、親友、この世のありとあらゆるものを失って来た自信があった。が、猫を失うのは初である。
 これは慣れない感覚だなあ、と思った。今まで失ってきたぶん、少しくらい何かを持たせてくれてもいいじゃないか……。

 後日、保護親さんが来て、杏仁豆腐を引き取っていった。
 猫は頭が悪いから、何日も離れていれば保護親さんも猫にとっては他人である。知らないケージに詰められて、不安そうな声で私に向かって「にゃあ、にゃあ。」と鳴くのが胸を打った。
「本当に、ご迷惑おかけしてすみませんでした。」
「いえ、いいんですよ、こんなことよくあることですから。他に猫を欲しい方が知り合いでいたら紹介して下さいね。」
 杏仁豆腐が「ニー!!」と悲痛な声をあげると、保護親さんが
「あら、この子『捨てられるー!助けてー!』って叫んでるわねぇ。」と笑った。
 あんた、何で目の前でそんな悲しいことを言うねん。と思った。
 保護親さんが杏仁豆腐を連れ去っていくとき、運ぶケージの中から杏仁豆腐の不安そうな表情が見えて、私は大きな罪悪感を覚えた。

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 部屋には、自分のほかにもう体温を持つ者はいなかった。その静寂がもはや遣り切れなくていたたまれず、失意を誤魔化すように部屋の掃除をした。
 段ボールハウスを壊し、ちゅーるや猫砂を捨てた。床にコロコロをすると、白い毛が沢山ついた。


 部屋は無臭になり、掻痒感も皮膚の赤みもすぐに軽くなった。
 ふと気づいて下駄箱を開くと、杏仁豆腐が私の靴を荒らしていった痕跡があり、杏仁豆腐の魚臭いニオイが染みついていた。
 私はそのニオイを愛おしく思ったが、もう二度と会うことはないだろう。

 

今も未だ旅の途中であること


 小学4年生のある年、京浜急行の出展で私の描いたマリーゴールドの花の絵が表彰を受け、電車の広告に数日貼り出されるということがあった。
 それは理科の、花を観察することにかこつけた課題だったのだ。しかしこうして目立つような事態になることは、私にとって決して喜ばしからぬことだった。
 私の絵は、家にあったwindows98のブラウン管に画用紙を押し当て、検索して出てきた適当な大輪の花の写真を模写したものだった。それはコンペの求める趣旨からすればイカサマだった。
 そして「明らかに私の技術より巧く描けている」その絵について問い詰められた私は容易くイカサマを自白した。そのことを知った母は、烈火の如く怒りを露わにした。

 けれど私はそうするしかなかった。そのような手を使わなければ、コンペに受賞する水準はもとより担任に「課題をこなした。」と認定を受ける水準のものさえ描けないことが私には判っていた。今まで何度もそうして放課後居残りをさせられ、暗くなるまで絵を描いてはボツを食らって難儀してきたからだ。
 私の心の中に、「じゃあもう、オレにはどうすることもできないな。」という大きな諦念が生れた。

 


 当時私は塾に通わせて貰っていたが、しかしその成績は小学校でも塾でも最下位だった。
 公文式では小4の課題をこなせず、小1の課題をやらされていた。小学生の中にあって、下学年の子どもたちと同じ課題を解かねばならないこと、そしてその中でも決して上位ではないことの屈辱は計り知れないものだった。
 物覚えが悪く、といってスポーツも人付き合いも得意ではなかった。
 「自分は出来損ないなんだ。」と子供ながら当然自覚しもした。

 そして、「特別学級」の知的障害を持つ子どもたちが目をひん剥いて何やらわけの分からないことを喚き廊下を彷徨う様に戦慄を覚えた。私も一歩踏み外せばあちら側へ落ちてしまうのではないか、そのことに恐怖していたのだ。
 そのときは未だ、「他人からどう思われても構わない。」という開き直りはしていなかった。


 ある日、知的障害を持つ同級生の男子が、登校する際かぶらねばならない「黄色い帽子」を無くして帰宅したことがあった。
 彼曰く、「だっちゃんが盗って、河に捨てた。」という。私は両親とともにその家に謝罪に出かけた。しかし私はやっていなかった。だが幾ら弁明しても無駄だった。
 「お前は素行が悪いから信じられなくて当然。黙って相手の言うことを受け容れていなさい。」と父に言われ、知的障害を持つ同級生より私の言葉が価値を持たないことに愕然とした。ここから逃げなければ、「あちら側の人間」になってしまうと思った。


 ある日、学校から帰宅すると、「野口君と遊びに行ってきます。」と書き残し、私は旅に出ることにした。何故野口君だったのか。それは仲が良くも悪くもなかったからに他ならない。どうでもいいと思っていたから、彼の名前を書いたのだった。
 お年玉を貯めておいた1万数千円と、親の財布から数千円を抜き出し、カバンの中にお菓子を詰め込んで自転車に乗った。
 とりあえず、都会へ行こうと思った。
 横須賀、浦賀金沢八景、、、と京浜急行線上を北上した。途中休憩し、腹が減ってお菓子はすぐに食べてしまった。よっちゃんイカ午後の紅茶ミルクティー買い足しひたすら走り続け、結局、上大岡駅の下にある駐輪場に自転車を乗り捨てた。長いようで短いツーリングだったけれど、もう辺りは真っ暗になっていた。
 横浜市営地下鉄に乗り、終点・あざみ野で下車した。バスの乗り方が判らず、闇夜の中、歩いて新百合ヶ丘駅へ向かった。そこには、祖母の家があったからだ。
 ここまで一人で遠くへ来たことは今までなかったけれど、親に連れられて来たことがあり道を覚えていた。また家を出ることを企図してからというもの、「おばあちゃんちの最寄駅って、なんだっけ。」等と折に触れて訊いては情報を集めていた。
 新百合ヶ丘駅の近くに在る祖母の家に2時間ほど歩いて、やっと辿り着いた。恐る恐る中を伺ったけれど、そこに人の気配はなかった。祖母は、両親から私が帰らないことを電話で連絡を受け、私の実家へ向かっていたのだった。
 これ幸いと私は祖母の家の合いカギの場所を思い出し、家の中へ侵入し、シャワーを浴びて適当な食料を漁った。冷たい納豆と魚肉ソーセージを食べ取りあえず満たされた私は、祖母のこたつで眠りについた。歯は磨かなかった。
 いつ祖母が帰って来るとも判らなかったから、家を漁りお金を盗むと、祖母の家を後にした。

 小田急線に乗ると、朝の通勤ラッシュだった。当時の小田急線の通勤はまさに戦争のようで、両脇をサラリーマンに挟まれ、私の小さい身体は宙に浮いた。そうして何とか、新宿へ出た。
 新宿は、当時小学生の体の小さい私には余りに複雑で、構造を把握することはできなかった。御苑の方へ歩いて行くとマクドナルドがあり、そこで昼飯を食べた。
 ガードレールの下をホームレスがリアカーを曳いて徘徊していた。家へ帰りたいとは思わなかった。このまま、ホームレスのように世捨てになることを望んだ。都会を延々と歩いていたけれど、疲れ果て、その辺の橋の欄干の下で眠った。

 翌朝、秋葉原に彷徨い出た。当時、テレビでオタクの聖地として度々取り上げられている光景が目の前に広がっていることに胸が膨らんだ。エッチな美少女の写真がいたるところに貼られていて、すごく興奮した。しかし頭が痒くてバリバリ掻き毟ると、白いフケが沢山でた。こんな汚い手で股間を触るのはよそうと思った。
 当時、秋葉原にはジャンクショップのようなお店が露店のように沢山軒を連ねていた。そういうものを搔き集めて何かを作るようなギークに憧れもしたし、用途不明のパーツを見て漠然と「良い形をしているから、欲しいな。」と思ったけれど、結局当時の私にはどうしようもできなくて、その日はコンビニで五目おにぎりと赤飯おにぎりを買って食べながら彷徨った。
 その辺のスーパーに入ると、コンビニでは高めだったお茶が少し安く売っていて、これからはスーパーでお茶を買おうと思った。また、疲れた身体にはミルクティーよりも甘くないお茶の方が美味しいということを発見した。
 そこからひたすら線路沿いを南下した。途中、神田あたりの汚い河に汚い野良猫を見付けて餌付けし、一緒に眠った。

 翌朝、東京駅の辺りを彷徨っていたが、ただただ大きい池と、城の堀を見付けた。行く当てもなく池の周りを歩いていると、段々見覚えのある景色が目に入って来た。霞が関上智大学、永田町、青山一丁目
 青山一丁目のマンションには、祖父が住んでいた。近くには青山霊園があり、怪談好きの祖父が四谷怪談を語って私を驚かせたことがあった。
 祖父の家は銀杏並木の隣だったから分かりやすく、すぐに辿り着くことができた。布団で眠りたいと思い祖父の家のドアの前に立ったがしかし、室内には祖父が在宅している気配があった。見つかりたくないと思った私は諦め、周辺のソバ屋で腹ごしらえをした。ただお金が目減りしていくことに危機感を抱いた。このペースならもって数日だろうと思った。

 青山霊園にも猫がいたので餌付けして遊んだ。そのとき季節は秋だった。連日の野宿で体が冷え込み、体力が低下しているのがよくわかった。
 しかしこれからどうしよう、とその辺をうろついていると、青山一丁目十字路の交番の婦警さんに「ぼく、どうしたの?」と捕まえられた。そこから何をどうしたのか、みるみるうちに私の素性は暴かれ、銀杏並木の祖父の家に強制送還された。

 


 祖父の家でシャワーを浴びテレビを見て寛いでいると、母が泣きはらした顔でドタドタ祖父の家に入って来て、私を抱きしめ「家に帰ろう。」と言うのだった。何故だか私も涙は出た。
 しかし心は醒めていて、ただただ「ああ、まだあの日常を続けなければいけないのか。」という気持ちに心を覆われていた。その後、家に帰ると私は勉強が出来るようになっていて、中学で一番の成績をとるようになり、学区で一番の高校に入学することが出来た。

 しかし結局、物事は人の与えられた能力のあるべき形になるらしい。
 気が付くと30歳の孤独でうだつの上がらない無能な大人になっていて、貧困を這いずっている。そして今もまだあの「自分は出来損ないなんだ。」、それなのに「この日常を続けなければいけないのか。」という醒めた気持ちの中にいる。

彼女は雨の日の夕暮れみたいで

 昼休みに会社を中抜けした私は、日比谷のカフェで男を待っていた。
 待ち合わせの時間にはまだ早いけれど、少しでも約束を確実なものにしたかった。
 店内は薄暗く閑散としていた。元号が令和になったというのに銀ブラよろしく昭和の歌謡曲がほんのり流れ、レトロな雰囲気を演出していた。
 そして今さらになって、「どうしてオレはこんなところにいるのだろう。」という根本的な疑問が頭をもたげてきた。
 私はこの一件に多大な労力を払ってきた。一銭の金にもならないばかりか、時間と私の有象無象を尻の穴から濁濁と無為へと流出させる日々を送っている。しかし私にはこうする他なかった。
 新型コロナウイルスの世界的な発生によって緊急事態宣言が政府から発令され、外出自粛要請が出されていた。
 この辺りの会社は大企業ばかりだから、テレワークを導入できているところも多いのだろう。街はさすがに閑散としていて、昼どきにも関わらず、平時は多数いる路上で弁当を販売するような者もいなかった。
 ふと数年前の冬、早朝の大手町の街角で薄幸の母親が、出勤を急ぐ私の手に弁当屋のチラシを手渡したことを思い出した。両脇にはその子どもと思しきどちらも6歳くらいの姉と弟が母親の手伝いをして立っていた。その健気な有り様がよぎり、あの母子は今ごろどうしているのだろうと生々しく想起された。それは私には関係のない事柄であったけれど、その姿からある種の呪いにも似た悲しみに触れてしまったから、忘れ去ることができなくなってしまった。
 所詮当事者ではない私にとって、あるかどうかも判らない悲しみは想像のものにすぎない。まるきりの他人でさえそうであるならば、親しい者の悲しみにひとたび触れようものなら呪いそのものと化してしまうのも必定だったということだ。
 どうにも落ち着かずネクタイを何度も締め直した。
 私は相手の男に、ただ事実を淡々と最後まで聞いて欲しいだけだ。しかし彼に私の話を聞く義務も義理もありはしない。この会合は全面的に相手の厚意に依っている不確かなものなのだった。彼にとって不都合な話をすることになるだろう。けれど相手に逃げられるような事態は避けなければならない。どうか何ごとも不穏が起こらないことを祈った。
 間もなく男が現れ、私は立って腰を折り名刺を渡し自己紹介をした。
「初めまして。この度とんだことでご足労いただいてありがとうございます。」
 男の方は男の方で、或いは正気を喪い怒り狂った男が待ち構えているとでも思っていたのかもしれない。敵意のないよう作った私の顔を見て、少しホッとした表情を見せるのだった。そして彼が私を値踏みしているように、私も彼を値踏みしていた。色白く細身で、かといって貧弱そうにも見えない。美容室で整えられた黒髪に悧巧な顔を見、良い男だなと思った。
 男も腰を折り名刺を差し出したのを私は受け取った。男の名前は加藤といった。年はひとつ上の31歳で職場は丸ノ内、私が以前働いていたところとは異なる政府系金融機関に勤務していた。
「とんでもない。私もビックリしているんです。警察から連絡があったんですが、それきりで。ずっと頭から離れなかったので連絡をいただいて助かりました。」
 私は、どうぞ。と男に差し向け、私たちはカフェのソファに腰を下ろした。ソファの生地が軋み、ブブブブブ、と間抜けな音を立てた。
「それでは早速ですが、ことの経緯についてお話させて下さい。」
 今私の目の前にいる加藤は5年前、H子と交際していた。その期間は15歳から25歳までの10年ともなり、婚約までしていた。しかし25歳の時分に加藤は浮気をし、そのとき相手の女に子どもができた。加藤は責任をとるつもりでいたが、それをH子に隠したまま、数か月H子を弄んでいた。間もなく浮気が露見し二人は別れ、加藤はその浮気相手と結婚した。
 中学生の頃から付き合いお互い仕事も安定し、年齢もアラサーに差し掛かり後は結婚してありふれた家庭を築いていく。好きな男と結ばれ子どもを作り、富裕とはいえないまでも安定した生活を目前にして、身に余る幸福を受け容れるその準備をしていたさ中だった。それでも加藤が、H子との関係をきちんと清算していれば或いはマシだったのかもしれない。
 私はH子の人生について、その不幸はこの世界の相対的には超大の不幸とまではいえないはずだと思っていたが、しかし順調に愛を育み明るい未来を思い描いていたはずの男が、別れると決心した後も自分のことを身体目当てに飼い殺しにしていたという残酷な現実は、H子が他人への信頼を失い、自分自身の人生に「ガッカリ。」するには十分な落差だった。
 H子はこの世界に失望しうつを患い、仕事も休職した。そうして苦悩の日々を送っていたが、加藤を忘れるために婚活を始めた。そこに現れたのが私だった。
 今思えば当初私と何度かデートをしたのも、政府系金融機関に勤めているという一事を以てH子は私の向こうに加藤の影を見ていたのだった。
「以上が、H子の亡くなった経緯です。」
 加藤は目を閉じ、眉間に深く皺を寄せたまま天井を仰いだ。大きく息を吸い、何かを言おうとするのを飲み込み、代わりに大きなため息をついた。「そうか。うん。そうか……。」と言葉にならない声を出していた。
 加藤は、私がH子の親友でありその死を看取った人間であることを警察から聞かされていて、それが分かった上でここに来た。私の人間性を知る由もない加藤にとって、私の目の前に姿を現すということはある程度リスクのある行為だ。そこには自分がしたことへの自責や、亡くなったH子に何かしてやりたい気持ちがあって、覚悟のようなものを抱いてここへ来たということなのだろうか。
 H子は今わの際、遺書と遺品を私に託した。遺族宛、私宛、そして加藤宛にそれぞれ遺品と遺書がある。しかしその全ては一旦警察の手によって押収され、今は遺族の下にある。
 遺書については全てスマホのカメラで写し画像データを持っていた。けれど遺品については回収することができなかった。私はH子の旦那さんに対して、遺書の現物と遺品を私に託して欲しい旨の手紙を書いた。けれどなしのつぶてだった。それも無理からぬことではある。
 H子の遺書には、私が加藤に遺書と遺品を直接手渡して欲しいということが書かれていた。遺品の中にはH子の写真もあった。だから私は遺品の代わりに私が持てるここ数年の彼女の写真を見せることにした。
 私はH子との来歴を話しながら、ノートパソコンを開きH子の写ったこの数年の写真を加藤に見せた。
 改めて見て、H子の変貌に愕然とした。会って間もない頃の彼女は確かに美しかった。それが徐々に心身を闇に侵されていくのが目に見えて判る。肌が荒れ頭髪が薄くなり、笑顔で写っているはずの写真が般若の面容を呈してゆくようになる有り様は、思わず目を背けたくなるほどに痛々しい。
「これが遺書の画像です。読み辛いかもしれませんが。」
 加藤宛の遺書には、彼に対する好きだった気持ちと、失意の日々について語られていた。画面に齧りついて読んでいる加藤の首筋が赤くなり、歯を食いしばり拳を握り締めているのがわかった。涙を堪えていた。
 読み終わり、加藤が口を開いた。
「彼女が私に連絡をとろうとしているのはわかっていたんです。でも私は応じなかった。私も彼女を好きでしたが、私には家庭があるんです。私に一体何か、何かできたんでしょうか……。」
「加藤さん、確かに……加藤さんは浮気をしたし、H子を裏切ったかもしれません。でも私は別にそれを責めようという気持ちは全くないんです。私も男なので気持ちは解ります。このくらいのことはよくあることですし、前を向いて生きてる人の方がほとんどです。それでもこういう結末になってしまったのは、H子自身の問題です。彼女もそのことは解っていたと思います。ただH子が、私がこうして加藤さんと直接お会いするのを望んでいたのは、どれくらい彼女が加藤さんのことを想っていたのかちゃんと伝えて欲しいということだったのだと思います。」
 私が激昂するような人間ではないことを、H子はよく知っていた。だから私が加藤を責めあげ傷つけるようなことは、H子の望むところではなかったはずだ。私はただ事実と気持ちをありのままに伝えるに徹した。
 人間不信だったH子は、最期まで私を信じてくれた。私が彼女にとってそういう存在でいられた。そして可能な限り気持ちに報いることができた。そのことに私は安堵した。
 加藤は自分の顔を手のひらで覆い、おしぼりを自分の目に押し当てていた。
「こんなことになっていたなんて、どうしてこんなことに……。」
 中3から付き合い始めて10年、若い男女にとっては途方もなく長い時間だ。気持ちを維持し続けるのは並大抵のことではない。他の人を好きになったり裏切られたり、それでも皆どこかで気持ちに折り合いをつけて次に進んで生きて行くしかない。けれど次へ進めない人間もいる。
「私にとって、この世は地獄でした。」と遺書には書いてある。
 人は死ぬまで終わることは無い。終わったと思ったところからまた何かが始まり、始まったからには必ず終わりのときが来る。
 そして何かに絶望をする度に加藤とのあり得たはずの明るい未来に直面し煉獄のように苦痛を味わい続けたH子は、次に進めないことを思い知ってしまった。
「遺品は回収できなかったので今はお渡しすることはできませんが、H子の気持ちは確かにお伝えしました。私がH子にしてやれることは今のところここまでです。もし遺品が私の手に亘ったら、加藤さんどうしたいですか?ご家庭もあるし、遺品なんて受け取っても困るという話も判ります。もしそうであれば……、」
 と話す私の言葉に、加藤は被せた。
「いえ、受け取ります。それが彼女の最期の願いなら、意思を尊重してやりたいですから……。」
「わかりました。遺品がもし手に入ったら連絡します。加藤さんも何かあったらいつでも連絡してください。」
 加藤は多分、基本的には誠実な男だったんだろう。だけど身の周りに在る誘惑に抗うほどには強くなかった、ただそれだけのことだ。 
「私がこんなことを言うのはおかしいですが、H子はもうこの世にはいません。彼女の冥福を祈り、できればたまに思い出してあげて下さい。それで十分かと思います。ご家族を大事になさって下さい。」
 項垂れる加藤を残し私はカフェを後にした。道すがら、店内で流れていた水前寺清子の歌謡曲を思い出していた。
 ♪ 幸せは歩いて来ないだから歩いてゆくんだね一日一歩、三日で三歩、三歩進んで二歩下がる~
 なんて寒々しい歌詞なんだろうと思った。単に生きて歩いていればいずれまほろばへと辿り着くとでも言うのか。そんなはずはない。一たび煉獄へ踏み出せば、もうその先には行けども行けども苦痛しかない。
 49日が明けようとしていた。仏教的には、この間死者の魂は現世とあの世に留まり、遺された者が死者へ手向ける祈りの多寡で来世の処遇が決定されるらしい。そんなこと、信じたくもないけれど。
 H子はオレのことを見てくれていただろうか。完璧な状態ではなかったけれど、頼みを果たしたのを見てH子は安心してくれたのだろうか。
 職場に戻ると、どうしようもないくらいいつもと変わらない時間が過ぎていった。その耐え難い苦痛に叫び出したい気持ちになった。けれど狂人になり切れず、叫び出すことなくその日の時間を打っ棄った。明日も明後日も、きっとこれからもH子がいた日々を忘れることはないままに、そして幸せなんて信じることのできないまま、私もまた煉獄を独り歩いて行くほかない。

空に舞う

 東京・丸の内。
 近代的なガラス張りのビル群の一角に、タイル張り旧耐震のビルが建て替えもされずに鎮座している。都市開発で遠からず取り壊される予定のこのビルには多数の企業が入居している。
 あたかもそこで働いているかのような顔で正面玄関から入り、どこのメーカーとも判らないやたらと遅い古びたエレベータに乗り込み12階へ行く。到着するまでに、同乗者は全員途中の階で降りてしまう。12階へと到着しドアが開くと、薄暗く電灯さえついていない不気味な廊下が広がっている。折り畳み式のテーブルやチェアが放置されておりどうやら資材置き場となっている様子の廊下を進むと一番奥に金属製の扉があり、何故か、いつも鍵が掛かっていない。
 鉄扉を抜けると東京の空を一望できる屋上空間となっていて、視線を遮るものは何もない。快晴なら一面真っ青で気分は悪くない。普段私たちの視界はビル群に覆われていて、空なんて意識して暮らしいないんだということを思い知らされる。
 そこには丁寧に手入れをされた朱色の鳥居と祠のみ備えられていて、その祠の隣に無造作に置いてあるコンクリートブロックが、私が日々一人で昼飯を食べる特等席なのである。
 都会のカフェや雑踏で精神的に孤独になることは難しくないけれど、物理的に一人になることのできる場所はそう多くない。ましてやこんな広い空間であれば猶更。
 ドラッグストアのビニール袋からカロリーメイトを取り出し半分に割って口に放り込む。味なんて飽きてしまっているけれど、多少腹に入れられれば何だって構わない。ガソリンだと割り切って食事をすることにもはや非人間的だとかいう感慨を抱くこともない。慣れてしまった。
 カロリーメイトがボロボロと零れ落ち、風に流されてどこかへ消えていった。
 あのクズはこれからもっと細かく粉砕され、粒子のように細かくなるのだろう。そうして一体どこへ行ってしまうのだろうか。風に流され海に着き、何処か私の知らない国に運ばれて行くのだろうか。或いはその辺の下水で粘着性の澱に捕まり二度とこの世に浮かび上がってくることもないのだろうか。
 いずれにしても私も今すぐ砂のように崩れ落ち、春風に舞ってどこかへ消えたいと思った。流されるまま、行きつくまま、と考えたところで、ああわざわざ風になんて流されなくたって自分はとっくに漂流者なのだということに思い至る。
 ひたすら女にアプローチし愛されないままに愛されず、投資や事業で損するままに損をして、殺して欲しいと頼む親友を跳ね除けることもしなかった。
 仕事も別に好き好んでしているわけではない。たまたま見つけた求人に応募し、内定を出した会社に入った。ただ仕事の為、生きる為、生きる意味もわからないままに、そんなことはさておいてただただ身体を有象無象の求めるままに動かしその日その日を凌いでいる、ただそれだけだ。そんな私と風に舞う塵芥の一体何が違うだろう。最初から私の意志なんてありはしなかった。あったように勘違いしていただけだ。
 イヤホンから何万回も聴いた曲が流れていた。

「お、いたな。」
 誰か私に話しかける者があり、振り向くと職場の同期・M男が立っていた。
「ほら何ため息ついてるんだよ。」
 といって缶コーヒーを手渡すのを私は素直に受け取った。
「おお、気が利きますねぇ。」
「最近元気なさそうにしてるから、たまには一緒にお昼食べたいと思ってたんだよ。でもだっちゃん、昼休み始まる前に出てっちゃうし。」
「しかも昼休み終わっても30分は帰って来ないというな?」
「皆にバレてるから。いい加減にしないと何が起こっても知らないよ。」
「心配ばかりかけてすみませんねぇ。ガハハ」
 いやいや、とM男がかぶりを振り、私の隣に座って弁当を食べ始めた。M男のお嫁さんの作ったお弁当だ。共働きのお嫁さんも忙しいはずだけど、結構凝ったものを作ってくれるものなのだなと思う。それがたまらなく羨ましい。それを口にすると、
「実は交互に作り合ってるんだ、ケンカした日は手紙とか入れて謝るんだよ。生活の工夫ってやつ。」
 と恥ずかしそうに笑った。交互に作るのだって大変なことだろう、愛情のない相手には到底できることではない。
 それから私たちは「世界の株価」を見ながら適当に世間話をした。先物ばかりトレードしていた私と異なりM男のポートフォリオは大体インデックスだ。昨今のコロナ禍による乱高下でも十分な含み益を確保しており、破産してしまった私とは正に明暗が分かれている。
 同じ年に入社した私とM男は、会ったその日からよく気が合った。大学浪人し大学院まで進学した私と異なり、ストレートに旧帝国大学を卒業しずっと金融畑のM男は転職組だ。何歳か年上で物腰柔らかいM男の振る舞いは、気性の荒い私とはまるで凸と凹のようで心地よかった。職場の飲み会を忌避する私もM男のいる場には顔を出す。
 私たちはお互い家庭を持つことを望んでいた。私は学生時代に付き合った異性が何人かいたけれど、M男は0人、そして童貞だった。そのことを恥ずかしそうに打ち明けてきたので、合コンや街コンに誘って何度か一緒に参加した。
 そして数年前、mixiの絵本朗読サークルで知り合った優しいお嫁さんとM男は結婚した。職場には生涯独身の濡れ落ち葉のような陰険な男性が沢山いるから、気の良いM男が結婚することができきっとこれからも穏やかで誠実な男であり続けるであろうことを心の底から祝福した。
 職場でのM男は、入社から数年までは私とライバル同士だなんて言われていたけれど、今は一番の出世頭と言われている優秀な男だ。他方、私の陰惨たる来歴について改めては語るまい。心許すM男にはその全てを打ち明けていた。
「一体どこでこんな差がついたんだろうな~。」
「どこでっていうか、だっちゃんの身の持ち崩し方が異常なんだよ。」
「そういう星の下に生まれてきたんだと思っておれはもう諦めてるよ。」
 M男は笑った。
「まあでもM男は良い奴だからさ。こうやって心配してくれるような奴だから、幸せな結末になるのは当然だって感じはあるよ。」
 私が笑って言うと、
「それはだっちゃんもだろ。」
 と言って真剣な顔をするのだった。
「俺はだっちゃんが今こんな風になっちゃったこと、結構怒ってるからな。」
 そんなことを言われて私は、「そうか。」と返すしかなかった。
「それでいいならそれでいいけど、何十年も先の未来が俺は怖いんだよ。」
 昼休みの5分前には着席する主義だからなどと言ってM男は去り、屋上の鉄扉がバタンと閉まった。閉まった後で「ありがとな。」と声を掛けたけれど、当然私の声が届くはずもない。
 M男の言うように、M男も私もどうも他人を切り捨てる酷薄さを持てないというか、甘さを捨てられないようなところがある。そういう意味では私たちはどちらも優しくて良い奴なのかもしれない。
 だけど私は、親友が究極の堕落を望めば不本意だろうが手を貸す悪魔のような人間だ。M男は自分の中に確立した倫理を超えたりすることはない。誰かが思いつくような"有り得るけど受け入れ難い選択肢"について、思い描いたり理解は示しても行動に現すような一線を超えることは絶対に無い。その一線が途方もなく深い海溝のように私たちの間には横たわっていて、それを境に潮の流れが変わっている。
 M男がどんなに手を差し伸べても、私のことを救うことはできない。その一線を飛びこえない限りは。しかしどうか飛びこえてくれるな、と思う。
 私たちは同じ場所で同じ方角を向いてるようでいて、全然違う場所にいたんだ。

 10年以上前、東北のある町にM男は住んでいた。
 大学を卒業した時分は就職氷河期で、同級生たちが中々職にありつけずにいる中、地元出身で地元の一流高・大学を出たということも手伝ってか、とある有名銀行に内定を貰うことになる。
 そして営業部門に配属された。中小企業に資金需要のお伺いを立て、融資の稟議を通す仕事だ。
 当時世の中は不況で、既存の運転資金以上の規模拡大に向けて投資をしようとするような資金需要はほぼ皆無に近かった。しかし"良い時代"しか知らない上司にそのことをどう説明したところで理解をしてもらえるはずもない。
 しかしまた外交的とはいえないM男の営業成績は、その中でも最底辺を這っていた。
 銀行において、成績を上げられない営業が人間扱いされることはない。粘着質な上司に日々給料泥棒扱いされ、日常的に何時間も詰められるようになるのに時間はかからなかった。
 M男は確かに学力的には優秀だったけれど、それは他の同期も同じことだ。良いとこ無し、そして内気な性格が災いし、上司は自らの留飲を下げるため、特に何がなくともM男を詰った。
 他の職員はその有り様をみて、「ああはならないようにしよう。」と思った。また自らの優位な立場を対外的に示し矛先が自分に向うことがないよう、上司のM男を批難する口上に加担することさえあった。
 男性独身職員は寮制の銀行だったので、帰宅しても隣室には職場の先輩がいる。その息遣いにM男は心休まる暇がなかった。
 足を棒にして外回りをしても成績が上がらず、職場では誰にも求めらない。「辞めちまえ。」と罵られてものうのうと居座っていることに心が捩れ、いつか自分の頭はおかしくなってしまうんじゃないかと思った。しかし上司から「お前は頭がおかしいのか!」と怒鳴られているのに誰も味方をしてくれない現状に鑑みれば、実はとっくに自分は狂ってしまっていて、周りの人間が正常なのではないかという疑念を払拭することができなかった。


 そんな日々を送っていたある日、外回りをしていると突如として営業車のハンドルをとられM男は急ブレーキを踏み込んだ。幸い事故にはならなかった。
 車は止まったはずなのに、頭がグルグル回転し世界が反転した。「ああ、遂に自分はおかしくなったんだ。」と確信し、一体どこまで自分は堕ちていくんだだろうなどと思ったりしていたが、実は本当に日本は激震に包まれていた。
 3月11日金曜14時、東日本大震災の渦中にM男はいた。
 揺れが収まり、M男は気を取り直して営業車を走らせた。何か大変なことが起こっていると思った。しかし銀行から支給された携帯は不通となっていた。
 暫く車を転がしていると、高台に人が集まっていた。事情を訊こうと思い路肩に営業車を停めた。けれど何が起こっているのかまともに把握している者はいなかったし、携帯は相変わらずどこにも繋がらなかった。とにかく大きな地震が起こり、彼らは指示に従って避難してきたのだということだけは判った。
 町のどこからかけたたましくサイレンが鳴り続けている。外回り先に行くべきか支店に帰るべきか迷った末、M男は決断できなかった。そして決断しなかったことが功を奏した。
 暫くして、避難した人たちから悲鳴が上がり、彼はそこでこの世の終わりを見た。 
 自分の暮らしていた町が黒い水に飲み込まれていく。人びとはただただ呆然とするしかなかった。耳鳴りがした。
 そこからのことを、M男はあまりよく覚えていない。体育館のようなところに人びとと共に避難し一夜を明かした。ふらつく足で営業車に戻り、そのまま支店ではなく自分の実家に向かった。幸いなことに実家は無事で、家族も全員帰宅していた。M男はそのまま土日を実家の布団に丸まって過ごした。
 週明けの月曜となり、職場から何の音沙汰もなかった。M男は出社するかどうか悩んだ末に、営業車を持って来たままだということを思い出して頭を抱えた。
 営業車に乗り職場の支店へ向かうと、M男の職場は完全に水没していたらしく何もかも無事ではなかった。
 朝礼があり、ひとまず通常業務は一旦止め、復旧作業に従事するよう上司から命令があった。同僚の何名かは行方不明となっていた。スーツ姿のまま軍手とマスクを着け支店を掃除し、泥の中から現金をかき集めた。
 結局、支店で逸失した現金は300万円程度だった。支店が水没するという事態になり300万円の逸失で済んだとみるべきか、普段1円の誤りさえ許されない銀行員が300万円も失ったことを遺憾だと思うべきかM男には判断しかねるのだった。
 ひと段落し、全職員に新しい業務分担の振り分けがあった。全て手書きだった。
 M男に与えられた仕事は、「水没した稟議書を天日干しすること。」だった。また、土日は地域の復旧作業に従事するよう厳命があった。無論、全てボランティアである。
 M男は来る日も来る日もべちょべちょした、あるいはカピカピになった稟議書を、洗濯ばさみに挟んで天日干しして、再度まとめ直すようなことをしていた。ある日の通勤中、瓦礫の山の中で、漁師がアジを干物にする為のネットが張った木箱を見付け、支店に持って行ったことで効率的に天日干しできるようになった。
 晴れの日はまだ良い。問題は雨の日だった。津波に沈んだ稟議書は、乾かすと死体の臭いがした。
 雨の日はどうしても室内で干さざるを得ない。すると室内に何とも言えない磯と腐った臭いが充満し、上司から「M男お前その臭いの何とかならんのか。」と詰られた。
 日々紙を干し続け指の皮がひび割れ、傷口から泥水に繁殖した菌が侵入したのか頻繁に膿み、風邪を引いた。
 土日、地域の復旧作業に従事すると、瓦礫の下からドザエモンを発見することも度々あった。M男は死体を触れなかった。自治体の人に報告すると、およそ警察でも救急でもない服装をした数人の中年男性がやってきて、遺体をどこかへ片付けて行った。
 営業をしなくてよくなったことにM男が内心少しホッとしていたことは否めない。けれど給与も7割に削減され、今後の見通しもつかない。当然のことながら、震災前よりずっと心を消耗していた。もう限界だと思った。
 徐々に銀行業務が再開しているのに、M男だけは延々相変わらず稟議書の天日干しをしていることに、「ああ、こんな見返したりしないようなゴミの整理をさせるくらいしか自分にはやることがないんだな。」と確信し、M男は銀行を辞めた。

 M男は暫く実家で引きこもっていたものの、このままではまずいと思い、公務員になることにした。とにかく東北の、その町を去りたかった。
 公務員試験の勉強を始め、半官半民のような組織を含め日本全国の自治体を受けた。
 M男はやはり学力的には優秀だったので、ペーパー試験においては常に満点近いスコアを出していたという。しかしM男は絶望的に人見知りで、アガリ症だった。また新卒優先の中、転職組には相応のスキルが求められることが多い。M男には銀行員検定くらいしか書くべきものが無かった。世間はまだ不景気で、公務員の倍率は相応に高かった。だから内定が一向に出なかったのである。全く関係の無いことではあるが、M男は在日朝鮮人の三世でその名前は18歳の時分に改名した通称だった。そのことについて心の奥底に拭いきれない罪悪感のようなものがあった。履歴書からそんなことが露見するはずはないけれど、相手は自治体だけに実は受験者の身元調査をされたりなんかしていて、自分が受からないのはそのせいなのではないかと邪推もした。
 いくつもの自治体を受け捲っているのに、別にえり好みなんてしていないのにただの一つも受からない事実に辟易し、民間企業を受けたこともあった。けれど結局内定の出ない事実に変わらなかった。
 そんな中、とある政府系の金融機関が職員を募集しているという情報をネットで見つけダメもとで応募した。震災から2年近い月日が経っていた。

 数年前、大学院を中退し就職することにした私は、東京のある政府系金融機関の職員採用試験に応募書類を送った。
 すぐ書類審査合格の返事が来て筆記試験・一次二次面接にも合格し、指定された期日に最終面接会場の待合室に行くと、狭い部屋に10名ほどの男性が押し込められていた。ここまでで倍率は数百倍だったという。しかしこの中から、内定を貰えるのは精々2人、多くて3人程度なのだ。
 全員にタイムテーブルが手渡され、この時刻までに待合室に戻って来て下さいね、それまでは外出たりして休んでいていいですよ、ということを告げられた。タイムテーブル上の私の順番は最後だった。自分の番が回って来るのに、2時間以上空いていた。
 どうやって時間を潰そうかと思っていると、緊張で唇を真っ青にして手をぶるぶると震わせている男がいた。
 この人落ちたな等と思っていたけれど、迷った末に声をかけた。
「大丈夫ですか?体調、悪いんですか?」
「だ、大丈夫です。き、緊張してて、」
 男は震えた声のまま応えた。
「そうですか。面接の順番、何番目ですか?」
「最後から二番目です。」
 彼もまた、順番が回ってくるのに2時間以上あった。
「そうなんですね。そっか、じゃあちょっと地下の食堂に探検に行きませんか?」
 と誘うと、
「あ、どうしようかな。あ、はい。」
 と言って付いてきた。地下の食堂の自販機コーナーで、私は缶コーヒーを買って手渡した。
「おごりです、一緒に頑張りましょう!」
 と言うと、男はやっとホッとしたように笑うのだった。そして私たちは、食堂で自己紹介をし合った。
「だっちゃんって呼んで下さい。」
「M男って言います、よろしく」
 それから私たちは面接の模擬練習をしあった。そして私は大学院を中退したことと、すぐ内定を貰った旅行会社の研修がとんでもないブラックだったことを話し、M男は銀行の営業がきつかったことや、中々自治体の内定が出なくて緊張していたことを話してくれた。
 暫くすると私たちは打ち解けていて、時間が来たM男を面接に送り出し、その後私も面接を受けた。

 その政府系金融機関から内定を受け内定式に向かうと、M男がいた。思わず「あ!」と声をあげると、M男も「おお!」と声をあげ、私たちは固く握手を交わした。
 それから二人で飲みにでかけ、M男は震災のことやら色々なことを話してくれた。ただとにかく私たちは彼女が欲しいということで一致していることが判り、後日一緒に銀座で開催されていた街コンに参加した。街コンの結果は、連絡先一つ聞けない散々なものだった。
 残念会ついでに二人で酒を飲み、銭湯に行った。二人で湯船に浸かっていると、M男が
「ああ、何か、街コンすごいきつかった~」
 と独り言ちた。私も
「いや、おれも辛いから!非モテ辛いよ~!」
 と叫び、二人で笑い合った。
「だっちゃんは気楽っぽくていいなぁ。俺、彼女どうやって作れば良いのか全然わかんないもん。」
「大丈夫ですよ。ずーっと内定出なかったのに、内定出たじゃないですか。世間体的に悪くない職場だと思うし、きっと女の子にもモテるはず!とおれは思いますけどね。」
「いやマジで本当にやばかったかも。面接だっちゃんに声かけて貰わなかったら死んでた、絶対。」
「多分おれも。つまり運が向いてきてるってこと。風は吹いてるぞ!ガハハ」
 深夜、人の少ない銭湯に私たちの笑い声が響いていた。私たちの目には、そのとき希望しか写っていなかったのに。

49日は祈ることにした。

 「誕生日までに死ぬ。」と宣言した親友は、その言葉どおり逝ってしまった。

 

 3月17日、それが親友の誕生日だ。

 数年前のその日、私たちは牡蠣の食べ放題にでかけた。ふたりとも牡蠣が大好物だった。

   今はもう潰れてしまったけれど神田駅の近くにあるおせっかい屋弐号店という良心的な居酒屋で、私はそこの常連だった。

   牡蠣を焼きながら日本酒をのみ、

「あ、そういえば今日誕生日だったでしょ。」

 とそういうわざとらしいことを言って彼女に干芋の束を手渡した。干芋は親友の大好物だ。

 前日、銀座にある茨城県の物産展で名産の干芋を全種類購入していた。といっても数千円するかしないか程度のものだ、何しろ干芋なので。

 しかし彼女は顔を紅潮させて、

「牡蠣と干芋をこんなに沢山!こんな幸せな誕生日があっていいのか?!」

 と口に牡蠣を詰め込みながら大喜びしてくれるのだった。私が調子に乗って、

「おれ、出来る男だろ?」

 とおどけると、彼女も口をもぐもぐさせながら、「うんうん!」と首を縦に振ってくれた。

 その後、私たちは調子に乗って牡蠣を食べ過ぎ、店主に「負けました、もうこれ以上牡蠣を食べるのは勘弁して下さい!」と言わせたのだった。

 彼女はあれから度々その日のことを話題にした。店主に「負けた」と言わせたくだりでは、得意げな顔をして。きっと本当に嬉しく思ってくれていたのだろうと思う。

 私も嬉しかった。

 

 辛いばかりの日々じゃなかった。一緒にいる時間は、楽しかったよね。

 ああでももう、失われた時間も、命も、元には戻せないな。戻したら、きっと怒るだろうしな。

 

 今年3月17日、そうして私が親友に思いを馳せていたその頃、名古屋のある病院で一つの命が生まれた。

 私の元同期で、未だに友人として連絡を取り合っていたM央が出産したのだ。そのとき胎盤の剥がれ方がまずかったとかで数ℓもの出血をし、生死の淵を彷徨っていたのだという。

 輸血より出て行く血の量が余りに多く、混濁する意識の中で、霧中に三途の川を見たという。そこでM央は一人の女と出会い、M央の顔を見るや強く突き飛ばした。

 そしてこの世に戻って来た。

 出産を報告する電話でM央はそれを怖い話のトーンで話していた。けれど私は、もしやその女とは親友だったのではないかと思わずにはおれなかった。そして3月17日に生を享けたその赤ん坊は親友が転生してきたのではないか、という思いを否応なく抱かずにおれなかった。少なくとも、運命的なものを感じた。

 相変わらず生き急いでるのだろうか、49日も経ってないのに気が早い。

 

 とはいえ、こんなときに見も知らない死んだ友人の話を聞かされても良い気持ちではなかろうと思った。そして当然のことながら親友の死とそのいきさつについて私は自らM央に語らなかった。

 

 ところが人の口に戸は立てられず、M央は私以外の同僚から噂話で、私と親友の話を知ることになった。別段隠していたわけでもない。

「だっちゃんのことが心配、何でも話して欲しい。」

 というM央に心を許し、私は親友の死とそれを看取った経緯について話したのだった。

 全てを聞き、M央は当初同情をしてくれた。

 しかし何度かやりとりしているうち、LINEに既読がつくことはなくなり音信不通となってしまった。そして調べてみると、やはりブロックされていることが判った。

 

 M央との思い出も5年分あり、何度も遊んだ浅からぬ縁である、と私は思っていた。が、それをあっさりと断ち切られたことに私は寧ろ安堵を覚えた。責める気なんて毛頭ない。

 

 人は一人で不幸になることはできない。私も親友を失い一人で不幸になっているようで、本当は私を慮ってくれる人たちを少しずつ悲しく忸怩たる気持ちにせしめている。

 不幸は伝染しかねない危ういものだ。

 第一子誕生の目出度い折に不幸は似合わない。そしてまた、そのとき私には嘱託殺人の嫌疑がかけられ目下捜査中の身だった。

 そんな不甲斐ない私に、気遣いは要らない。

 きっと若い頃のM央なら、私に情けをかけて深く関わろうとしたように思う。しかし今彼女には、私の知らない数多の大事なものがあるのだろう。

 

 不幸な人間に関わり救おうとすることそのものが、不健全で病的な人間の行動だ。不幸な人間を見つけたら踵を返すことが健常な人間、守るべきもののある人間の採るべき正解だろうと思う。

 ゆらい守るべきもののある人のことについて、守るべきものを持たない私はただ想像するしかない。しかしおおよそこういうことなのではないか。

 

「私はきっと、本当は一人で死ぬべきなんだと思う。」

 と漏らした親友に、私は

「うん、死ぬんだったら一人でね。」

 と応えることもできた。しかしそうしなかったのは、私がH子を深く想っていたことと同じくらい、狂っているからだ。狂人に関わるべきではない。

 

 勿論完全に達観できるはずもなく内心は寂しく思う。けれど親友の死を看取ると決めたとき、こうなることも十分判っていた。

 服役し完全な孤独となり親友の後を追うことまで想定していた。

 

 しかし実際はそうはならず、私は娑婆でアスベストのように不幸を撒き散らしている。

 罰せられるべき罪を罰せられずのうのうと生活していることが、たまらなく居心地が悪い。他人と一緒にいることが不安でたまらず、今はただ、来る日も来る日も死人の冥福を祈って暮らしている。

 

 この世を生き地獄だと常々語っていた親友も、向こうの世界では心穏やかに過ごせているのだろうか。そうあって欲しい。

 

 神も仏もいなかったように霊だって存在するはずもないんだとか、心なんて生きてる者の特権なんだとか、死人の為にすることは須らく徒労なんだとか、それは私もそう思う。あの世なんてないんだろう。

 でも、もし、万一そんなものがあったとして、生死の淵を彷徨うM央を三途から押し返した親友が、祈りが足りないことで川を渡れず成仏できなかったらあんまりじゃないかと思う。

 だから当面、彼女のために祈ることにした。バカバカしいと思うだろう。だけど私は守るもののない狂人だから、死者を思うことを辞められない。