「学校」「教師」の存在意義
『ポスト・コロナショックの学校で教師が考えておきたいこと』
コロナショックで問われる「学校」「教師」の存在意義(苫野一徳)
私も筆者と同じように、今の公教育のシステムは限界を迎えていると感じています。
今やデジタル途上国になってしまった日本は、近いうちに教育途上国ともなるのではないでしょうか。
以下、原文引用。
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・コロナ災害を受けて、学校や教師はその存在意義が根底から問い直されている。
・「みんなを一斉に学校に集め、同じことを、同じペースで、同質性の高い学年学級編成の中で、出来合いの問いと答えを勉強するシステム」そのものが成り立たなくなってしまっている。
・しかしそもそもこのシステムは、コロナ以前から限界を迎えている。みんなで同じことを同じペースで学んでいれば、必ず授業についていけない子どもや、逆にわかっていることをくりかえし勉強させられる子どもが生まれる。
・この問題を、どうすれば克服できるか。その一つに「学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合」と呼んでいる「学びの構造転換」がある。
・学校は「相互依存的アーキテクチャ」だと言われる。カリキュラム、教育方法、教員養成、あらゆるシステムがお互いをガチガチに規定し合っているため、一部を変えようと思うとすべてを変えなくてはならない。だから、結局なにも変えることができない。
・「わかってはいるけど実現は無理。」といった反応が予想されるが、今動き出さずにいつ動くのか。(今でしょ!)
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筆者は参考事例としてオンライン朝の会などを挙げており、そのような実践を行っている学校はいくつもある。
しかし学校の実情を見ると、それで状況が改善するとは思えない。
休校中勉強をしないこどもたちは、恐らくオンライン環境が整っても勉強をしない。
その子たちは、学校という「勉強する空間」に詰め込まれることでようやく重い腰を上げ始める。
しかしそうしてしまったのは、我々教師ではないかと、日本の教育システムではないかと思っている。だから筆者が述べるように、「学びの構造転換」が必要になる。
「みんなを一斉に学校に集め、同じことを、同じペースで、同質性の高い学年学級編成の中で、出来合いの問いと答えを勉強するシステム」が変わらない限り、オンラインを導入しようが探求学習を取り入れようが変わらない。
Aに+αしたところで、基本はAのままである。
AをBに変えようとしなければ、緊急事態は改善しない。
学校を一から作り直すくらいじゃないと、日本の教育は変わらないのではないか。