ビズショカ(ビジネスの書架)

ビジネス書、新書などの感想を書いていきます

『ナポレオン四代』野村啓介 二人の皇帝、二人の息子

本ページはプロモーションが含まれています

四人のナポレオンの生涯をたどる

2019年刊行。筆者は1965年生まれ。東北大学大学院国際文化研究科の准教授。

副題に「二人のフランス皇帝と悲運の後継者たち」とあり、更に帯の惹句には「栄光と没落 偉大な父とその影を追った息子」とある。ナポレオン一世や、ナポレオン三世について取り扱った書籍は多いが、二世や四世について言及したものは僅かである。

本書では栄光の初代ナポレオンから、非業の死を遂げた四世までの四人を、それぞれほぼ同じ頁数を割いて紹介している。

内容はこんな感じ

フランス革命の申し子として、一軍人から皇帝にまで上り詰めたナポレオン一世。ドイツ貴族として若くして世を去った二世。強烈な使命感と上昇志向を持ち、クーデタにより第二帝政を実現させた三世。将来を嘱望されながらも異国の地で戦死した四世。数奇な運命をたどった四人のナポレオンの足跡から欧州の近代史を読み解く。

『レ・ミゼラブル』から見るナポレオンの影響力

ヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』は、ナポレオン一世没落の契機となったワーテルローの戦い直後から、七月王政期までのフランスを舞台とした物語だ。作中ではたびたびナポレオンの名が登場するが、決して良い意味ばかりでは出てこない。いくつかの例を紹介してみよう。

まずはマドレーヌ氏(ジャン・バルジャン)が裁判時の証言で、ナポレオンのことを蔑称であるブオナパルトと呼ばず、皇帝と呼んだことに裁判長が不快感を覚えるシーン。

なおついでに言ってしまえば、裁判長は善良なかなり頭のいい男ではあったが、同時に非常なほとんど激烈な王党であって、モントルイュ・スュール・メールの市長がカーヌ上陸のことを言うおり、ブオナパルトと言わないで皇帝と言ったことに気を悪くしていたのである。

ヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル 第一部ファンティーヌ』青空文庫版より

フォーシュルヴァン老人(ジャン・バルジャンとコゼットを匿うことになる)と、修道院長の会話。皇帝と言おうとしたところで、ブオナパルトと言い直している。

「あの冠を授けられた方でございましょう、皇……ブオナパルトに。」
 フォーシュルヴァンのような、りこうな者としては、そういう思い出はまずいことだった。ただ仕合わせにも院長は自分の考えばかりに没頭して、それを耳にしなかった。彼女は続けて言った。

ヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル 第二部コゼット』青空文庫版より

他にも、作中でたびたび登場する、ナポレオン嫌いで鳴らしたマリユスの祖父の姿を覚えておられる方はいないだろうか?『レ・ミゼラブル』作中で描かれるように、昔ながらの人々にとってナポレオンは唾棄すべき存在だったわけである。

ナポレオン後のフランス社会は、王党派に共和派と、さまざまな思想がせめぎ合っていた。加えて栄光のナポレオン時代を懐かしむ皇帝派も依然として大きな勢力を締めていたのである。

『レ・ミゼラブル』を読んでいると、この時代のフランス人にナポレオンが与えた影響の強さに想いを馳せずにはいられなくなる。

さて、話がずれてしまったが、『ナポレオン四代』は4人のナポレオンを通じて、19世紀フランス社会を読み取っていこうとする意欲的な一冊である。一世から四世まで、それぞれの見所を挙げていこう。

「異邦人」ナポレオン

こちらwikipediaから引用させて頂いた、皇帝になる前のナポレオン。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/38/Bonabarte_Premier_consul.jpg

ナポレオン・ボナパルト - Wikipediaより

コルシカ島は中世以来ジェノヴァ共和国の支配下にあったが、独立戦争の激化に伴いジェノヴァの手には負えなくなり、反乱を鎮圧したフランスの支配下に入る。ナポレオン生誕時は、コルシカ島はフランスにとって新しい領土であった。フランス革命後の救世主として現れたナポレオンだが、意識的には「コルシカ人」としての側面強かったのではという指摘はなかなかに興味深かった。

フランス国民にとっても、登場初期のナポレオンは異邦人であったに違いないだろうが、ナポレオンは自らの実力でその存在を認めさせたのである。

ドイツ貴族として飼い殺された二世

こちらwikipediaから引用させて頂いたナポレオン二世(ローマ王、ライヒシュタット公爵)。偉人補正かかっているとはいえ格好いいよね。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7f/Nap-receis_50.jpg

ナポレオン2世 - Wikipediaより

ナポレオン二世は、ナポレオンとオーストリア王女マリ=ルイーズの間に生まれた人物である。没落したナポレオンの子ではあるが、ハプスブルクの血を引く人間をぞんざいには出来ず、かといってフランスに戻せば皇帝派の神輿になる。ということで、二世は実権の無い公爵位をあてがわれて飼い殺しにされた。

ライヒシュタット公は21歳の若さで夭逝してしまうが、彼がもう少し長生きしていればフランスの歴史は変わっていたかもしれない。

民衆の力を背景に皇帝になった三世

こちらwikipediaから引用させて頂いたナポレオン三世。容姿にはあまり恵まれていなかったらしい。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/74/Napole%C3%B3n_3%C2%BA_%281865%29.jpg

ナポレオン3世 - Wikipediaより

 ナポレオン二世が死んだことで一世の直系血統は絶えてしまい、ナポレオン三世の名は一世の甥ルイ・ナポレオンに受け継がれる。

ルイ・ナポレオン(三世)の凄いところは、自分はナポレオンの甥なのだから、大きなことが出来る筈、フランスの栄光は俺が守る!的なノリで一族の反対をはねつけて政治活動を続けて、とうとう皇帝位まで上り詰めてしまっていることであろう。

その背景には、七月王政への失望とか、普通選挙権が民衆にまで解放されたことなど、多数の追い風的な側面もあったにせよ、ここまで成り上がるのは並大抵の政治力では無い。普仏戦争での惨敗で捕虜になり皇位を追われただけに、最後の印象が悪くてバカにされがちなナポレオン三世だけど、もっと評価されて良い人物だと思う。在位期間は18年に及び、一世よりもよほど長かった。

異郷の地に斃れた四世

wikipedia先生から四世の近影。育ちが良くて頭の良さそうな感じ。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/73/Prince_Imp%C3%A9rial%2C_1878%2C_Londres%2C_BNF_Gallica.jpg

ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト - Wikipediaより

 ウジェーヌ(四世)は三世の長男。三世の失脚後はイギリスに亡命している。愛称はなんとルルである。国を追われた皇子ルル!可憐なビジュアルと相まってロマンを誘う生い立ちである。

真面目な人物であったようで、イギリスの兵学校を優秀な成績で卒業する。しかし南アフリカで発生したズールー戦争に、士官として従軍し、衝撃的なことに彼の地で戦死してしまうのである。高貴な生まれの人間は、最前線で戦死などしないものだと思っていたのだが、四世に関してはそうではなかった。

イギリスへの恩義なのか、高貴なるものこそ義務を果たすべきという思想があったのか。四世に三世並みの野心とバイタリティがあれば、戦地に赴くような判断はしなかったかもしれない。

四代すべてが異国で死んでいる

初代ナポレオンが絶海の孤島セント・ヘレナで没したのは有名な話だが、二世はドイツで、三世は亡命先のイギリスで、そして前述したように四世は戦地南アメリカでその生涯を終えている。彼らの中でただの一人として、フランスで生を終えることが出来なかったのである。

それだけナポレオン一族を取り巻く政治環境は厳しかったわけだ。フランス革命から、第一帝政、復古王政に七月王政、更には第二帝政から第三共和政の成立まで、19世紀のフランス政体の変転はめまぐるしい。

四世の死は、フランスのナポレオン復活に望みをかけていた皇帝派に相当のダメージを与えたらしいが、その後も、20世紀前半まで一定数の議席を議会に持っていたらしい。

その後ナポレオン七世を称するシャルル・ナポレオンは、2007年のフランス下院選に出馬するも当選は果たせなかった。現代にあっては、さすがにナポレオンの威光も通用しなかったようである。次期家長はジャン・クリストフ・ナポレオンになるようだが、彼が政界に打って出てくるようなことはあるのだろうか?