雨霞 あめがすみ

過去に書き溜めたものを小説にするでもなくストーリーを纏めるでもなく公開します。

水色の日傘 9

☆今回は少し長いです。お付き合いください。☆

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篠田に影響された訳ではないが、噂と言ってもアリバイは作っておかねばならない。幼い頭脳で健気にも考えた私は、月曜日の休み時間、直ちにピッチャーの橋田に接近した。

「橋田、お前、土曜日は散々やったな」

嫌味でも言いに来たのかと、最初橋田は嫌な顔をしていた。

「それにしてもよう打ちよったなあいつ、噂通りのことはあるわな」

橋田は横を向いて鼻で吹いた。「ふん!」

ちょっと間をおいて、誘うように私は言った。

「お前、ほんとは調子悪かったんとちゃうんか」

橋田は伏し目がちに呟やくように言った。「まあな…」

「そやろと思うたわ、お前が本調子やったらあんなことないもんな」

「まあな…」

「なんで黙ってたんや」

「言う訳に行かんがな、他にピッチャーも居らんし」

誘い水に乗ったが、橋田は一度も調子が悪いなどと言っていなかった。

 「それはそうや、お前以外に投げるやつは居てへん。そやけど、いくら調子の悪いピッチャーでも、あれだけ打ったら大したもんや、メンタもキャーキャー言うとったしなあ」

ここまで言うとさすがに橋田はムッとした。

 

「半分はまぐれやないけ」

「まぐれか、うーん、そうかなあ、でも橋田でも打たれるんやから、まぐれでも大したもんやと思うけど」

「あのな、全部がまぐれやとは言わへんで、確かにあいつは上手い。そやけど、調子の悪かった相手を打って大したもんはないやろ」

「そやけど、あいつはきっと自慢してるやろ、となりのピッチャーなんか相手にならへんとか」

「そんなこと言うとんのか」

「言うてへんでも想像着くがな。ホームラン打ってベース回る時のあいつの顔みたか」

橋田は押し黙った。

「あの得意顔をそのままにしとくのはちょっと悔しいな」

「どないすんねん」

「今度は違うとこを見せたらんかいな」

「もう一回やるんか」

「俺は別にどうでもええけど、人間にはメンツっちゅうもんがあるし…」

橋田は内心分かっている。もう一回やってもまた打たれる。思案のしどろこだった。

「まあ元気出せや、四組はクラスのまとまりは最高や。今度根性入れたら、例え負けたとしてもええ試合になるで。あいつも見直すやろ」

橋田は横目で私を睨んでいた。

目的は達した。兎にも角にも、半分でもあれはまぐれだと橋田は言った。アリバイは成立した。


橋田の次はリーダーの萩野だ。萩野は野球をする時のリーダーだった。

別に合意で選んでいたわけではないが、いつの間にか自然にそういう風になっていた。勉学もできるし、歳もひとふたつ上の感じがあった。おまけに野球もそこそこ上手という、大体このタイプは私は好きではなかったが、萩野は実際はなかなかの好人物だった。

ところが萩野は乗り気ではない。土曜日だからといっていつも空いているわけではないし、続けさまだったから。

「お前が持ちかけてくるとはどういうこっちゃねん」

既にかなりの近視で、肉厚の黒縁の眼鏡をかけた、どことなく若い頃の森繁久弥を思わせる顔をゆらゆらと揺らしながら萩野はまじまじと私を見つめた。

私は思いつく限りの理屈をあれこれと捏ね回した。

「俺な、運動神経鈍いけど、こういうことはわかるんや。あれだけ打たれたままにしとったら橋田も可哀想やで。あいつきっと体調悪かったんや」

「そうかな、調子ええ言うとったけどな」

「そら口ではそう言うやろ。それはプライドちゅうもんやがな。投げる前から調子悪い言うてたら話にならへん。それに…」

私は敢えてここで思わせぶりに言葉を切った。

「それになんやねん」

「徳田や」

「徳田がどないしてん」

まるで篠田の手法だが、ここぞとばかりに、私は声をひそめた。

「これ、内緒やけどな、あいつどうも水口に気いあるらしいんや」

「ほんまか」

萩野は好奇心を浮かび上がらせた。この手の話はガキタレの誰もが興味を持っている。逆らいようがないのだ。

 

「誰にも言うたらあかんで。あいつ、わざわざ家からバットとグローブぶら下げて、今まさに練習してきたばっかりな雰囲気作って毎日水口とこへ牛乳買いに行きおるらしいんや」

「へえ、マメなやっちゃな」

「水口に逢いたい一心やろ」

「そうか、そら目出度いこっちゃ」

はっはっはと萩野は笑った。妙な余裕だ。

「水口はな、店に出入りすることなんかないねん。あそこ店だけなんや」

「え、そしたら家は別にあるんか」

「そや、知らんかったんかお前」

「知らんよそら、特別な仲でもないし。お前は何で知ってるんや」

「俺、何回か遊びに行ったことあんねん」

「え?」

私は思わず萩野を見つめた。いったい水口とどういう仲なのだろう。何回か----というのはどういうことか。

「それにしても、それと試合とどう関係があるんや。なんでそう熱心なんや」

萩野は尚も猜疑の目で私を見つめた。私は困った。どうしたものか。

「いや、熱心というわけやないけど、なんかイマイチピリッとせん試合やったやろ、打たれたままの橋田もスッキリせえへんと思うで」

「そうかなあ、あいつがそんなこと気にするかな」

「せっかく応援に来てくれたメンタらの前で徳田にボカスカ打たれて面目丸潰れやがな、あれは橋田が可愛そうや、ここはひとつ、夏休み前に仕切り直ししてもええんとちゃうか」

「もう一回投げたらまた打たれよるで」

「そない言うたら身も蓋もないがな。橋田は悔しいけど、黙ってるんやろ」

「そうかなあ、ほんならいっぺん橋田に聞いてみよか、どうせそこに居るんやから。でも…」

一旦言葉を区切って萩野はまた私をまじまじと見つめた。

「なんか変やな、お前いつも誘われるの嫌がってたやないか、迷惑な話やとか言うて」

「そのとき、悪うはせえへんからと言うてたのはお前やで」

私にしては見事な切り返しだった。

萩野は急に笑い出した。わっはっは。

「お前、急に賢こなったんか」

ムカつくことを言って萩野はまた笑った。


と、そこへ、教室の引き戸をガラガラと開けて、驚いたことに徳田そのものが乗り込んできた。

あ、きよった!と私は一瞬呆気にとられた。篠田の細工が、こうもいきなり効果を発揮したのか。

一旦教室全体を眺め回してから、徳田は私と話中だった萩野を認めると、つかつかと歩み寄ってきて、まるで果たし状でも突きつけるように萩野の顔を睨み付けた。

喧嘩でも始まるのかと、周りの注目が一点に集まった。水口の視線もあった。

徳田は眉にシワを寄せ、眼を細めてひょっとこのように口を突き出した。

「お前の組では、俺が打ちまくったのは、まぐれやとか言うてるらしいな」

いきなりのことで萩野の眼が点になった。

「え、そんなこと誰か言うとったかな」

「とぼけんでもええがな。そう言うのを負け惜しみと言うんや」

「はあ…」

「なるほどあれ一回やったらそう言われても仕方ない。それやったらもう一回やろう。本物がどういうもんか見せたろやないか」

萩野は小声で私に訊いた。「こいつ、なに怒ってんねん」

私はとぼけた。「知らん…」

「この土曜日や、もう一回やろう。浅丘には俺から話とく。ええな…」

念を押すように言うと、徳田は踵をかえしてさっさと出入り口に向かい、そこでまた向き直った。

「誰が投げてもええけど、この前みたいな奴やったら話しにならんで」

念の駄目押しだった。

恐らく徳田はこのとき既に快感に身を震わせて居たであろう。そのかっこよさを、水口も目の当たりにして痺れたであろうと勝手に思い込んだに違いないのだった。
 
萩野はしばらくポカンとしていたが、次第に眼鏡が湯気で曇ってくるように感じた。そして椅子からすっくと立ち上がって、叫んだ。

「おい! 皆集まれ」

ゾロゾロとメンバーが萩野の前に集まった。

橋田は顔を真っ赤にしていた。今のセリフを聞いて黙って居れるものではない。ここでよく喧嘩にならなかったものだ。

もっとも、勝てる見込みもなかっただろうが。

萩野はもうすっかり怒りの血をたぎらせていた。

「いまの聞いたか。あれは果たし状やぞ」

橋田が続いた。「言いたい放題言いやがって」

「転校した来たばっかりやのに、生意気なやっちゃ」

「ああ言われて逃げるわけに行かんで」

皆口々に言い始めた。実力はともかく、取り合えず威勢だけ盛り上がるのは世の常だ。

萩野は今度は椅子の上に立ち上がってますます声を張り上げた。

「メンタらも聞いてくれ。たった今、三組の徳田から、次の土曜日に再試合をするよう果たし状を突きつけられた。今も聞いたとおり、えらい偉そうな物言いや。そういうこっちゃったら、こっちは受けて立たんわけには行かん。俺らはこれから放課後毎日秘密の空き地で練習する。皆も都合があると思うけど、試合にはなるべく駆けつけて応援してやってほしい。頼むわ」

女子たちから一斉に拍手があがった。キャーとか言ってる女子も居た。

思わぬところで萩野に晴れの舞台を提供することになってしまったが、これはまあ仕方がない。運のいい奴はどこにでも居るのだ。

萩野は私に向き直った。

「浜田、こういうこっちゃから、もしかしたらお前は試合に出られへんかも知れん。今度は本腰入れた勝負や、なるべく、ちょっとでも経験の多い奴に出てもらいたいのや、悪いけどな」

いささか演技っぽいが、萩野の表情は申し訳なさそうだ。

「かめへん、こうなったら俺なんかの出る幕やない。俺は縁の下でええんや」

言いながら私は、やったやったと腹の中で喝采を叫んでいた。

 

続きます。