一般の行事としては、新しい春を向けるにあたって、一年間の厄を払うところから、宮中の追儺(ついな)[鬼払い]
の儀にならって炒り豆を鬼豆と称してまいたり、柊の枝に鰯の頭を刺して、戸口に立てたりするそうです。
そのほかにも地方によって様々な風習がありますが、、東北山形のある地方に伝わる節分は、節分の晩に鬼のために、お膳を用意してお酒をふるまいます。
家長が床の間を背にしつらえたお膳に向い、東北弁で丁寧に挨拶しおもてなしをします。
そして、翌朝、手土産をお渡してお見送りする時に、「鬼さん、つでに悪霊がもしこの家に居んなら一緒に連れて帰ってくんねえべか」と丁寧にお願いをするのが、行事となっているのだそうです。
自分の都合で鬼を悪と決めつけ、豆をぶつけてどこかに行けとは、傲慢に過ぎる態度ではないでしょうか。
「鬼」とはどんな存在なのかを理解していきたいと思います。
大聖人様は、『十字御書』(御書1551㌻)に
「抑地獄と仏はいづれの所に候ぞとたづね候へば、或は地の下と申す経もあり、或は西方等と申す経も候。しかれども委細にたづね候へば、我等が五尺の身に候とみへて候」と仰せになっています。
地獄が我が身の内にいるのなら、地獄の使者である鬼もまた我が身の内にいると理解するのが当然です。
もともと内側にいる鬼に対して、いくら追い払おうとしても、どこにも行く場所などないのです。
それどころか、傲慢な態度は結局自分に戻ってきますから、罪悪というべきです。
鬼の栖といわれる方角は「鬼門」といって東北にあたり、十二支でいえば丑寅にあたります。
それゆえに鬼の風貌は丑の二本の角に寅のシマシマパンツというのが定番になっています。
さらに仏教では東北の方角、すなわち丑寅の方角というのは、上行菩薩の住処であり、末法においては久遠の御本仏である日蓮大聖人の住処にあたります。
本来「鬼」というのは仏様の使者なのであて、追い払うべき対象ではありません。
つまり節分は、己に内在する「懈怠や愚痴、妬み、恨み、反発心、怒り」などのあらゆる悪心、あるいは欲にまみれた自らの煩悩を払うべきなのです。