体温と血圧、血中酸素濃度の3種を測るバイタル測定は、明け方のオムツ交換の後に行う。着替えとベッドからの離床はその後だ。

 

基本的に、特別養護老人ホームは体調や容体が安定している人が入居する施設なので、実際、以前はナースが指示した容体を観察しなければならない人々だけを測定していたのだが、1年前に施設長が突然「全ての人が安心できる、温かくて手厚い介護」を謳いだして、独断で毎朝全員やることに変えてしまったのだ。

 

それでなくても朝方は限られた職員数で朝食の時間という動かせない時間に向けてほとんどの入居者の介助を行うため時間に余裕がなく、見守り切れない故の事故も起きやすいのに、不必要な仕事を増やすなと、職員から大反対が起こったのだが、

 

「安定しているといっても介護の必要なお年寄りだ、いつ、大きく体調を崩すか分からないのだから、普段からきちんとした健康管理を実施して記録していくのは当然。それによってご本人やご家族がどれだけ普段の様子を把握できて、もしものとき大きな目安となるか。みな、自分の親や自分自身がベッドに寝かされ介護を受けていると思いなさい」という、しごく当然の理屈で夜勤者は明け方の30分という時間を捻出しなければならなくなった。

 

施設長がそうした会議で孤高の正義漢然として熱弁を振るい始めると、介護職員たちは一様に申し訳なさそうな表情を浮かべて沈黙を貫き、冷めた視線を机の下に落として終りを待った。

施設長自身はその時間帯の現場を見たことはない。

 

佐奈子が入職した時には今の体制になっていたので、楽だった頃からの落差を感じることはないのだが、課された業務をこなさなければならない大変さは━━皆、なんだかんだ言いながら涼しい顔で時間内に終わらせているのに━━やはり、常に切羽詰まる大変さだった。

 

 寝たきりの池田ナミさんは痩せているので脇の下が窪んでいて体温計を挟んでも先端のセンサーが肌に触れないことがままある。

佐奈子はナミさんの右腕に自動血圧計のカフを巻いてスイッチを入れ、右手中指に血中酸素濃度の測定器を挟むと、左の脇の下に体温計を差し入れて二の腕の肉を脇の下集めて体温計に当たるように押さえた。

 

ナミさんは静かな胸呼吸で、これから血圧を測りますよと声を掛けたときは目を閉じたままだったが、カフを巻かれ、二の腕を押えられると目を開いた。

佐奈子が「おはようございます。体温を測らせてくださいね」と笑顔で言うと、ナミさんは目だけを佐奈子に向けてにっこりと頷いた。

 

少し心が和みながら腕を押さえてしばらく待ったが、思った以上の時間が経っているはずなのに体温計のアラームが鳴らなかった。

何かでかすかな電子音を聞き逃したかと、体温計を取り出すと、数字が動き続けている。まだ計測中だったのだ。

 

すぐに戻して腕を押さえたが、間もなく無残なエラー音が響いた。

口惜しさと焦りを募らせつつ「ナミさん、ごめんね、もう一回ねー」と言いながら体温計を入れ直して二の腕の肉を押さえる。

ナミさんは目を閉じて同じ無表情、姿勢でいる。

 

腕を押さえながらさっき止まった血圧計を見ると、上が72しかなかった。低い。

何かの不具合かもしれない。

佐奈子は不安を感じてもう一度測ろうと考えている。

カフの巻き方に問題がなく、普段の血圧を把握していればそれなりの判断もできるが、佐奈子にそんな知識は入っていない。

失敗を恐れるあまり、何度も測り直ししてばかりいる。

 

やっと測定を終えて数値を記入し、おはようございます、血圧を測らせてくださいと言いながら次の居室の戸を開けると、その居室の利用者、仲田義江さんは窓を開け、空に向かって自分の鼻歌でラジオ体操をしているところだった。

 

仲田義江さんは75歳。認知症は軽いのだが、目が不自由で身寄りがなく、一人暮らしのアパートでボヤを出したのをきっかけに入居となった。

明るい性格で、いつもはつらつとしている。

 

佐奈子の声に気付いて、くるりと振り返った。満面の笑顔で軽く息を切らしている。

「おはよう。今朝も気持ちいいね。私、この時間の空気が一番好きなの。冬でも窓は全開にして空気を入れ替えるのよ」

 

 屈託のない仲田さんの笑顔を見ながら佐奈子は言葉を失う。

ああ、これから血圧を測るのに……。さっき時間を取り過ぎた自分が悪いのだ。

佐奈子は仕方なく、今、血圧を測らなければならないけど、運動の直後は正しい数字が出ないのだと説明する。

 

「また来ますから、その時、血圧を測りますから、それまでじっとして待っててくださいね」と、

何度もお願いして次の部屋に向かう。

仲田さんは、優しくうん分かった、大丈夫よと言ってくれるのだが、きっとすぐに忘れて身支度を始め、元気にあれこれと動き回ってしまうに違いない。いつも、大概そうなっている。

佐奈子の記録用紙はなかなか埋まらない。

 

 


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