江戸時代の日本とフィリピン 日本人のフィリピン移住は16世紀から

呂宋壺(ルソンツボ)って知っていますか?

マニラについて調べていたところ、何となく聞いたことがある気になる言葉が出てきたので詳しく調べてみました。16世紀~のフィリピンと日本の貿易に関することだったので、まとめています。

今回は、日本とフィリピンの交流が始まった頃の歴史です。

目次

フィリピンと日本の歴史

日本とフィリピンは、1592年のスペインによる植民地支配の前から関係がありました。

1543年、ポルトガル人が種子島に漂着、1549年、フランシスコ・ザビエル到着。この辺りから南蛮貿易、朱印船貿易が始まり、東南アジアとの貿易もありました。そのため、東南アジアに住む日本人もいて、日本町ができ始めました。

今でも色んなところに名残がありますよね。僕もいくつか行きました。

1591年豊臣秀吉はスペインのゴメス・ペレス・ダスマリニャス総督に、日本に入貢を促す書簡を持たせて原田孫七郎を派遣した。
1592年7月、ルソン総督ゴメス・ペレス・ダスマリニャスは、ドミニコ会士のフアン・コボを派遣、秀吉に書信と贈物を届けると共に、在ルソン日本人をマニラのデイオラ地区に集団居住させる措置をとった。

Wikipedia

豊臣秀吉からの書簡には、フィリピンを制圧しようとする旨が書かれていました。それを恐れて、日本人を集団居住させることになりました。
ちょうど朝鮮出兵の頃で、豊臣秀吉は東南アジア進出も考えていました。フィリピンを脅したということです。

1570年の時点ですでに20人の日本人居住者がいたそうです。フィリピン移住者の大先輩たちですね。

17世紀には1,500人になり、バテレン追放令を受けた高山右近もマニラに移住しています。その後、日本町は鎖国令で衰退していきます。

貿易品

フィリピンから日本に輸入されたものの一つが呂宋壺です。ルソンはマニラがあるルソン島のことです。豊臣秀吉が、珍しいと気に入りました。

そんな感じのシーンを、大河ドラマ真田丸で、豊臣秀吉役の小日向文世が演じていたような気がします。

呂宋助左衛門(るそんすけざえもん)という貿易商人によって献上されました。
公益財団法人 関西・大阪21世紀協会

大阪府堺市の駅ビルには呂宋壺のレプリカがあり、堺港とマニラには呂宋助左衛門の銅像もあります。呂宋助左衛門が主役の大河ドラマもあるらしいです。

その他の貿易品として、鹿革は柔らかくて丈夫なので、戦国時代の装備として重宝されたそうです。

メキシコとフィリピンの間のガレオン貿易もあったので、日本や中国はフィリピンを中継して貿易していました。

キリスト教

キリスト教の布教を始めたフィリピンを拠点に、フランシスコ会やドミニコ会は日本にも布教しようと試みました。

中国人とフィリピン人の間に生まれたロレンソ・ルイスは日本に最初に到着したフィリピン人といわれています。
1637年、長崎で殉教し、1987年、フィリピン人初で、唯一の聖人になりました。

日本人にキリスト教徒が増えてくると、幕府は警戒し始めます。1639年の鎖国令以降は交流が制限されました。

開国

鎖国をしていた日本は、1854年、日米和親条約によって開国しました。フィリピンとの国交が回復したのは1868年、日西修好通商航海条約が結ばれ、日本とスペインの国交が回復してからです。

200年以上とびました。その後、フィリピンは独立革命、米比戦争へと向かっていきます。

まとめ

今回は16世紀、日本とフィリピンの関係が始まってから、独立革命前までの歴史をまとめました。
日本では貿易の後すぐに鎖国が始まったので、関係は短かったですね。

1500年代にどうやって行き来するのか、言葉はどうするのか、めちゃくちゃ気になります。

多分船で何ヶ月もかかりますよね。難破したり遭難することも多かったと思います。

僕もその頃に生きていたらぜひ外国に行ってみたいです。1900年代でも簡単には行けませんでしたから。

以上、江戸時代の日本とフィリピンの交流でした。

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