道を聞かれた?聞いてきた?

突然ですが、今あなたは旅行中です。スマホ片手に目的地まで歩いていると、正面から歩いてきた地元住人とおぼしき人が急にあなたに道を尋ねました。後日、このことを友人に話すとしたら(1)と(2)どちらを使いますか。

(1)「・・・地元っぽい人に道聞かれて・・・」

(2)「・・・地元っぽい人が道聞いてきて・・・」

どちらも自然な表現ですが、(1)の方は旅行者である自分が地元の人に道を聞かれたということ自体が話のオチになり得ますが、(2)の方はまだ話の続きがあるようなニュアンスがありませんか。

(1)「・・・地元っぽい人に道聞かれて、ちょっと焦った。」

(2)「・・・地元っぽい人が道聞いてきて、『えっ?』みたいな、で・・・」

(1)の「聞かれる」は[聞く]の受身形、(2)の「聞いてくる」は[聞く]のテ形に補助動詞のクルがくっついた複合動詞です。客観的事実(人が私に道を聞いた)は同じでも、当人の捉え方によって「れる・られる」「てくる」「てくれる」など様々に言い表すことができます。

前出の二つの例のように動詞が自分以外の誰かの行為を表していて、その行為が自分に何らかの影響(物理的であれ心理的であれ)を与えているとき、【受身形】を使うと「自分にはコントロールしようのない、すでに結果の出ている行為」という意味合いになり、【てくる】を使うと「自分に向けて仕掛けられた行為ではあるが、応酬・展開の余地あり」という意味合いになります。

【てくる】の方が【受身形】に比べ臨場感があるのは、動詞の「くる(来る)」が話者方向への空間的移動を表していることと関係しているようです。(ちょい脱線しますが、古語の「来」は英語の “I’m coming.” のように相手方向への移動も表現できました。言語が常に変化しているという一例ですね。)

とあるインターネット掲示板のセクハラ体験談では、『セクハラ行為の描写に【受身形】を使用しているか【てくる】を使用しているか』と『被害者のセクハラ行為に対する心情』との間に相関性が見られました。

セクハラ行為、そして加害者に対し強い怒りや非難(「怒りが爆発しそう」「闘いたい」「刑罰が必要」等)を表現している体験談では【てくる】が多く使われ、恐怖や悲しみなど内向きの気持ち(「怖い」「死にたい」「すぐに辞めたい」等)のみ語っている体験談では【受身形】が多く使われていたということです。

セクハラ行為の種類や個々の動詞と【受身形・てくる】の使用との間には相関性は見られませんでした。

次の(3)は【てくる】、(4)は【受身形】の例です。

(3)すごい勢いでスカートをめくってきて、・・・

(4)ほっぺや口にキスされたり、・・・

主観的視点が組み込まれた言葉は「れる・られる」「てくる」「てくれる」の他にも感情表現や思考表現など数多くあります。日本語で「わたし」が言葉として表わされることが少ないのはこれら主観的表現の中にすでに「わたし」の存在と立ち位置が含意されているからという理由もあるでしょう。

自分の身に起きたことを誰かに伝えるとき、誰が誰に何をしたかという客観的事実をそのまま描写するより、その行為を自分がどのように捉えたか、どのような影響を感じたかといった主観的なフィルターを通した描写を好むのも日本語の言語感覚の一側面といえます。


引用・参考文献

Maynard, Senko, K. 1997. Japanese Communication: Language and Thought in Context. University of Hawai'i Press.

Minagawa, Harumi. 2018. Psychological deictic -te kuru compared to passive: The case of victims’ stories in Japanese. Journal of Japanese Linguistics 34(1) 23-46.

澤田淳. 2009. 移動動詞「来る」の文法化と方向づけ機能 ー「場所ダイクシス」から「心理的ダイクシス」へー 『語用論研究』11, 1-20.