小文化学会の生活

Soliloquies of Associate Association for Subculture

コミュ障はハゲか妖術か

 こんにちは、ぽわとりぃぬです。このインパクト重視なタイトルを言い換えるとこうなります。コミュ障は社会的に構築された病(ハゲ)か、それとも集団幻想(妖術)か。コミュ障という得体の知れないレッテルについて、ハゲと妖術に関する人類学的知識を参考に考えていこうと思います。

 

 コミュ障の正式名称はコミュニケーション障害。といっても吃音症のような病気的な意味でも、外国語が習得できないというような語学能力的な意味でもありません。「学校やら飲み会やらで仲良く盛り上がる能力」である、いわゆる「コミュ力」の欠如を意味するのであり、またそういう人たちを揶揄する言葉です。

 社会背景としては産業構造の変化があります。主に先進国では1970年頃から産業の中心が第三次産業へと移行しました。具体的なモノの生産をしない金融やサービス、情報通信業へと移行したことに加え、グローバル化も相まって、現代日本のホワイトカラー(あえてかなり限定した言い方をしています)にはコミュニケーション能力がなによりも必要とされるようになりました。聞いたことがあるかと思います。

 しかし、ここでいうコミュニケーション能力とはれっきとした専門知識であり技術です。すなわち、論理的に説明する能力ないしは他者と情報をやりとりする力です。コミュ障という自己診断の流行には、コミュニケーション能力を重視する社会が先立つし、確かに企業が新卒に求めるスキルは2003年から2018年まで16年連続でコミュニケーション能力が1位。現代日本社会がコミュニケーション能力を重視しているのは事実です。でも、企業の求めるコミュニケーション能力はいわゆる「ウェーイする能力」ではありません。

 

 コミュ障を不登校のきっかけと捉え、広く「生きづらさ」について研究した貴戸理恵は、コミュニケーション能力とコミュ力とを分けるべきと主張します。彼女によれば、コミュニケーション能力が語学力やディベート力、プレゼン力、さらには相手とよい関係を構築する能力といった幅広い技術であるのに対し、コミュ力は学校のクラスのような限定された集団に馴染んで和気あいあいと楽しく過ごす能力なのです(貴戸 2018:24-29)。

 さらに貴戸によればコミュ力

・長期的に見ればたいして重要ではなく(ibid:30)

・「何となく」つくられる「空気」に馴染めるかどうか(ibid:30)」が判断基準で

・あるかなしかが、「生まれ持った性格」のように本人の裁量の及ばないところで決まってしまう(ibid:30)」

ものだそうです。そしてコミュ力の高い人とは、「空気」を作り上げることによって巧みに集団を自分の「ノリ」に従わせる人です。そのためにはあくまで自然にそうしているかのように振る舞う必要があるそうで、また時にはバラエティ番組のような「いじり」をする場合もあります(ibid:32-40)。

 貴戸は不登校や「生きづらさ」のきっかけとしてコミュ障を捉えているため、コミュ障という名指しについて、いじめといった排除につながる点や局所的なコミュニケーションにしか生まれないという点を問題として指摘し、これ以降の議論を発展させております。これはこれでおもしろいから読んでね。

 

 さて、貴戸が明らかにしたように、コミュ力もコミュ障もかなりあいまいな存在です。この時点で、結構社会的に構築されている感が漂ってきております。上記の特徴からわかるのは、コミュ障というレッテルが自分の意図とは無関係に決められるということです。自分なりに振る舞った結果、障がい者扱いされるのは何とも理不尽ですが、ここに苦しみの源がありそうです。似たような事例はあるのでしょうか。

 たとえば髪色。金髪の日本人はヤンキーの印象を与える一方で、金髪の白人は何とも思いません。むしろ下手なステレオタイプを持てば差別者にさえなりかねません。いくらかの白人にとって金髪は生得的な性質であり、日本人の金髪はその人が意図して選択したからです。

 

 

 コミュ障を個人の意図という文脈においてみましょう。生まれつきの身体欠損や病気は当人が望んだわけではないので、その人に責任はないとされます。吃音症はこちらに属するといえますが、コミュ障はそうはなっておりません。意図して場に馴染まないとみなされております。ここで比較対象とするのがハゲなんですが、その議論は人類学的な個人と意図の延長上に位置します。

 私たち現代に生きる日本人は自由意志を持つ個人individualを自明視し、特に疑問も持たずに生きています。個人とはこれ以上分割divideできない人間の最小単位です。平たく言って自我。外面も含めると私selfとなり、この私selfが演じるのがパーソンpersonです。ラテン語の仮面personaに由来し、「役割としての人間」を意味します。パーソンは替えがききますが私ないし個人は替えがききません。「メガネをかけた日本の人気AV女優」というパーソンは複数人いますし、今後も出てくるでしょうが、「深田えいみ」という個人はただ一人しかいません。

 このように個人とパーソンを分ける人間観はきわめて現代的であり局所的です。西洋において長い時間をかけて作り上げられ、近代になってようやく出来上がったものです。かつて古代ローマにおいては市民権というペルソナを持つローマ市民だけが人間でしたし、キリスト教世界においては神によって人間たらしめられました。

 われわれの良く知る個人が成立するのは、王権神授説を背にした絶対王政が打倒され民主主義が誕生してからです。王(神)との関係で人間の役割が決められるのではなく、人間一人ひとりの自由な社会契約で世間は統べられる。個人のために社会が存在するようになり、個人主義がうまれました。

 というわけで、自由な意思を持つ個人は西洋近代特有の人間観でしかないわけです。北米インディアンにおいては氏族ごとに一定数の個人名が存在し、それによって各人の配役が定められます。この個人名とはトーテム動物の一部や状態の名で、序列や関係のアナロジーとなっているわけです。例えば「オオカミの右足の一本目の爪」という名を与えられたら、それに応じた労役・財産・踊り・儀礼序列をこなして生きていくのであり、そうしてこそ人なのです。

 

 さて、こうして西洋近代に創造された個人ですが、行動原理が自由意志へと帰属されるために、新たに説明責任が発生しました。神でもペルソナでもなく自分が意図したのだから、自分の行為を説明しなくてはならなくなったのです。そんなつもりはなかった場合のために、「無意識」という特殊なシステムが作り出されたりもしました。「魔が差した」、「ついやっちゃった」というように西洋近代の人間観では捉えきれない部分はあるわけです。

 他方で医学・科学の発展により、生得的な性質が治療可能な病気・ハンディキャップへと変更されていきます。義肢なんかがそうで、義肢も含めて人間なのか(義肢は単なる道具なのか)なんて議論もあるくらいに、技術の進化は人間の境界を揺るがしております。ペッパーくんとかアレクサとかもそうなりそうな気がします。

 そうした変更の代表例がハゲです。遺伝子を書き換えるまではいかないものの、従来始まったらしょうがない、カツラで隠すしかなかったハゲでしたが、現在はAGAとしてお医者さんに相談する病気へと変わりました。このようにハゲを取り巻く社会状況がかわってしまうと、ハゲにも意図が見いだされます。「治せるハゲを治さないということはあなたの中にそういう気持ちが実はあるんだ」とされるのです。また、ハゲがブサイクであるという美的感覚が現代日本に成立した価値観であるということはいうまでもありません。

 では、コミュ障はどうでしょうか。コミュ障DNAはなさそうですし、吃音症のように明確な病気でもありません。この辺はハゲと違う点です。ただ、語学能力のように本人の努力次第の問題とはされています。障がいといっても身体障がいのようではありませんし、話し方教室やコミュ力アップの本もあります。そして、治さなければならなくなったのは社会状況の変化によるものでした。ハゲの場合は医学の発展でしたが、コミュ障は産業構造の変化でした。コミュニケーション能力の重視がコミュ力という尺度を作り、結果コミュ障はうまれました。

 また、「学校のクラスなどの限定された集団」という条件を思い出してください。これは具体的にどういう場面でしょうか。おそらく休み時間や放課後かと思います。すなわち、コミュ障が顕在化するのは役割から解放された後なのです。授業中は、「直江津高校3年B組で数学を学んでいる生徒」という役割が与えられます。この「オオカミの右足の一本目の爪」的ペルソナを被っている間はその通りに振る舞えばよいのでありそこに個人の意志は見出されません。しかし、休み時間になると友達関係という個々人の自由な社会契約が顕在化します。そこでは個人の意志で友達の輪に入るかどうかを選択します。というより、そうしているとみなされます。「何故かはわからないんだが場に馴染めないんだ」という状況を自分にも他人にも説明するための社会的システムが、コミュ障なのです。

 

 

 ここまでコミュ障を作り出した社会状況について考察しました。個人の意志と社会状況が関係しており複雑でしたが、同じようなハゲと明確に違う点があります。コミュ障は実体がありません。ハゲは毛が抜けるから客観的判断が可能なのですが、コミュ力は判断基準があいまいです。そもそも、自分の伝えたいことが伝わらないなんて悩みは誰だって持っています。また人によって馴染みやすい集団は異なります。クラスでは静かなあの子も放課後の科学部では元気だったりするわけです。あと接客のバイトをしているからか、ろくに会話もできない「一人前の大人」をたくさんみるんですよね。

 社会的に構築されたかどうかを考えてきましたが、ここからはもっと極端に考えてみることにします。われわれはコミュ障という幻に踊らされているのではないか。

 

 妖術witchcraftとは呪術magicの一形態です。呪術の定義は難しく、「超自然的な存在にたいする人間の信仰」という漠然としたかたちでしかできません。なぜなら呪術を定義するのは消去法、すなわち科学でも宗教でもないという引き算で残った領域だからです。そんな呪術ですが、今でもわりと身近に存在します。てるてる坊主、運転お守りなんかがそうですね。

 呪術のうち、他人に危害を加えるとかの悪い意図で使われるのを邪術sorceryといいます。わら人形とか。ただ、イギリスの社会人類学エドワード・エヴァン・エヴァンズ=プリチャード(略してE=P、これを使うと通ぶれる)がアフリカのアザンデ社会において、本人が意図しないところで他人に危害を加える邪術を報告します。以来、各地で同じような事例が報告され、妖術という分類がうまれました。ちなみに妖術は農耕社会によくみられ、狩猟民や牧畜民の社会ではまれだそうです。つまり、人間関係が薄く役割が明確な社会では妖術信仰は弱く、人間関係が緊密で役割や社会関係があいまいな社会では妖術信仰が盛んになるというわけだそうです。

 妖術の特徴は、他者からの告発が伴うことです。本人が自覚してないところで発生するんだから当然ですね。「私が浮気をしたのは、〇〇が妖術をかけたからだ!」みたいな。この特徴により、社会秩序を維持する機能があります。社会のメンバーが妖術をかけられないよう人から恨みをかうような言動を控えるからです。

 そしてもう1つ重要な機能があります。不幸や災難を説明し、社会不安を取り除くのです。これはエヴァンズ=プリチャードによる穀物倉の例えが有名です。昼飯時に穀物倉が倒れ、かげで休んでいた人が下敷きになったとします。この一連の出来事をアザンデ族はどう解釈するでしょうか。穀物倉が倒れたのは柱を白アリが食っていたからです。下敷きになった人も周りの人もそれは承知していました。ただ「その人が座ったその時に穀物倉が崩れてきたこと」を説明するのは科学ではなく妖術なのです。このように原因を妖術に帰すると、社会から不安が取り除かれるのです。このような妖術は、外部からは集団幻想にしかみえません。ニワトリの託宣で解決を図ったり、ティッシュを丸めて窓に吊るしたりするわけですし、集団外から見ればなんのこっちゃって感じです。なので、上記のような「科学的」「合理的」理由を考えます。しかしながら、当事者にとってはリアリティのある現実なのです。

 

 こうして妖術を概観してみると、コミュ障との接点が見いだせます。まず、他者からの告発が必要であるという点ですね。妖術ほど明確な告発じゃないにしろ、他者からの「話が合わない」だとか会話が続かないというアプローチによってコミュ障であるとされます。

 また、自分の言いたいことが伝わらないなんて経験は誰もが持つのであり、つまりは誰しもがコミュ障になり得るということです。貴戸も、コミュ力があるとされる生徒が昼休みの時に周りから「一人でいる」と思われるのが嫌で、わざわざ一緒に食べる友達を探す事例を報告しております(貴戸 2018:40)。コミュ障とみなされるのをコミュ力のある人でさえ恐怖し、自分の意志とは違う行動をしているのです。

 こうした不安を取り除くためには、スケープゴート的に誰かを妖術師、つまりコミュ障に仕立て上げ責任を押し付けると便利です。「その時にそのコミュニケーションが盛り上がらなかったこと」の説明としてコミュ障が機能を果たすのです。そもそも「コミュニケーションが成立する」ってどういうことでしょうか。あるコミュニケーションが心地よいかどうかは当人たちの主観ですし、自分もそうだからといって相手もそうだとは限りません。こうしてみると、コミュニケーションの良し悪しも非常にあいまいで客観的な証明などないといえます。しかし、当人たちには実感のあるリアリティであり、コミュ障であるかどうか、場が盛り上がるかどうかは命がけの問題なのです。

 

 

 以上、本稿ではコミュ障について考えてきました。ハゲと比較することによってコミュ障は社会状況の変化によって生み出された病であることがわかりました。コミュ障とは障がいではなく、単に「自分の役割が見つからない状態」なのかもしれません。そして妖術と比較することによって、我々が集団幻想を見ている可能性も出てきました。客観的な基準もない現象にあれやこれやと振り回されたり、他者からの告発に怯えて集団内で行動を抑制したりしている姿は、集団外からみれば奇妙に映るのかもしれません。結論「コミュ障はハゲで妖術だ」。個人的には妖術要素強めであってほしいですね。お守り1つで解決ですから。

 

 

〈参考文献〉

 貴戸理恵(2018)『コミュ障の社会学青土社

 Hendry, Joy(1999)「CosmologyⅡ:Witchcraft, Shamanism and Syncretism」『An Introduction to Social Anthropology: Other People’s World』Palgrave.(=桑山克己,堀口佐知子訳『〈増補新版〉社会人類学入門』法政大学出版局