トールキンのファンタジー「ホビットの冒険」を読んだ。



「読書の秋」、読書の愉しさに再びハマってしまった。

とくに、子供の頃(小学生時代)夢中になって読んだような本がなつかしく、

あの頃のように「読書が愉しみ」で、

「勉強」その他の好きじゃないことを我慢するための「原動力」になってくれた頃に、

なんだか戻りたい気分だ。

「好きこそものの上手なれ」で、

その頃「読書」が好きだったことは、その後の人生をだいぶ助けてくれたように思う。

「国語」が得意分野になったし、その他の「勉強」にも多少はよい影響があったようだ。

おとなになって「読書」の習慣をなくしてしまったことで、

頭のなかで「眠りについてしまった」部分を、なんとか取り戻したい。

「ホビットの冒険」は、

最近になって切れ切れにTVの映画放送で見て、やっぱりほれぼれだったけど、

「バトルシーン」が怖くて、

ホビットの家のシーンのような心温まるシーンでさえ、

その後に起こるバトルが恐ろしくて、素直に楽しめなかった。

その後、「グレーテルのかまど」でシードケーキを見て「いいなあ」と思い、

岩波書店から出た瀬田貞二さんの訳が

子供からおとなまで心に響く「名訳」だということで、

「読書の秋」に目覚めたときから、読んでみたかった。

そして、「源氏物語」は1か月が過ぎていったん図書館に返したので、

さっそく「ホビットの冒険」を読みだした。

小学生のときも「ファンタジー」「童話」がだいすきだったけど、

やっぱり「ファンタジー」は面白くて、すっかりハマってしまった。

最近の「純文学」は、人間の「悪」の部分とか「救いのなさ」を描くようなものが

多いという印象があって、とりあえず取りつきにくかった。

「ファンタジー」の名作は、「善悪」の混在する世界をリアルに描きながらも、

最期には救いのもてる大団円を迎えるものが多いから、

なんだか「安心感」がある。

それに、英国文学の「ファンタジー」は、「教育的」な面を含んでいるので、

なんだか主人公といっしょに「経験」して「成長」できたような気になれる。

そして、「魔法の宝物」を手に入れるところも、

子供心に帰ったようにわくわくするところだ。

たとえば、ゴブリンの洞窟で、

「指輪物語」でフロドに託される「指輪」をビルボが手に入れたり、

後にフロドに贈られるエルフの短剣「つらぬき丸」をトロルの住処からゲットするシーン、

またドラゴンの宝の山や、ビルボがゲットする(フロドに贈る)鎖かたびらなどにも

なんだか「ドワーフ」に似た欲深い気持ちで

わくわくしてしまった。

昨年10月末ごろのちょうど一年くらい前から、

「踊れる」なんて思ってもみなかった私が突然「ダンス」の魅力に目覚め、

「運動不足解消」を兼ねて毎日「踊る」ようになった。



もとはといえば「タロット」の札を、

自分なりに「表現」しようとして踊ってみたのがはじまりだった。



たとえば

「ソードの2」



「月」



「女教皇」



「ソードクイーン」



「ワンドクイーン」



「魔術師」



などetc神秘的なタロットを「身体」で表現することが楽しくて、

「踊れる」ようになってきた。



自分のなかにある(!?)と思われる「神秘的な力」の表現が最初の「踊り」のテーマで、

それをきっかけに、いろんなテーマで「身体での表現」が可能になった。



子供のころからやってきた「ヴァイオリン」や「ピアノ」では、

(テクニックや練習不足とかを勘定に入れなければ)

「感情表現の才能」だけはあるといわれた

(先生に「演歌になるな」と怒られたり、聴きにきた人には「ジェットコースターみたい」といわれたりした)

けれど、苦手だった「対人」でも、

「楽器」よりは「自分の身体」のほうが、

「より細やかに繊細な感情表現」が可能ではないかと思うようになった。



それが「対人のスランプ」の克服には、助けになった。

ヒトには「できるところ」「できないところ」「才能のある部分」「苦手な部分」がある。



「できるところ」を伸ばして、「できないところ」をカバーしていくしかない。

私の場合は、「感情表現の才能」が(テクニックや練習不足を忘れれば)

「音楽演奏」ではずっと保っていた(というか、人生経験に合わせて育ったり飽きたりを繰り返してきた)

けれど「対人」において「感情表現」に失敗する「スランプ」の時期も長かった。



「身体」を「楽器」のように「感情表現の手段」として使えれば、

「対人」でも「自分らしい魅力」を発揮できるのではないか。



そう思うようになって、現在の「わりとコンプレックスの少なめの自分」ができあがった。



コロナにもある意味で感謝している(外出の機会が減って、自分の「対人」を見つめ直す機会になった)



もとはといえば、「タロットに表された神秘性や不思議な力」を

身体で表現するところから「身体表現」が始まったのだから、

「ファンタジー」を読みたい気持ちや、

自分も「ファンタジー」の冒険をしているかのように「空想」したい気持ち、

自分自身や「宝物」のなかに「魔法の力」を「空想」したい気持ち、

こういう気持ちは、いろんな「新しい自分」を見つける「原動力」になるかもしれない。



うーんこうなったら、やっぱり「指輪物語」も読みたいなあ…。