リートリンの覚書

日本書紀 巻第七 大足彦忍代別天皇 四 ・五つの土蜘蛛の討伐 ・天皇の誓約 ・行宮・高屋宮


日本書紀 巻第七 
大足彦忍代別天皇 四


・五つの土蜘蛛の討伐
・天皇の誓約
・行宮・高屋宮



冬十月、
碩田国(おおきたのくに)に到着しました。

その地形は広大でまた麗しいところでした。
そこで碩田と名づけました。

速見邑(はやみのむら)に到着しました。

女人がいて速津姫(はやつひめ)といいました。
一処の長でした。

天皇の行幸を聞き、
みずからお迎え奉り、
「この山に大石窟があり、
(ねずみ)の石窟といいます。

二つの土蜘蛛がいて、
その石窟に住んでいます。

一を青といい、二を白といいます。

また直入県(なおりのあがた)
禰疑野(ねぎの)三つの土蜘蛛がいます。 

一を打猨(うちさる)
二を八田(やた)
三を国摩侶(くにまろ)といいます。

この五人は、
普通の人より力が強く、
また衆類(ともから)が多く、

皆『天皇の命に従わない』と言っています。

もし、
強制的にこの者たちを招喚するのであれば、
挙兵して抵抗するでしょう。」
といいました。

天皇は悪(にくいんで)
進み行くことが出来ませんでした。

即、来田見邑(くたみのむら)に留まり、
行宮(かりみや)を興して居ました。

そして群臣に議論して、
「今、多いに兵衆を動かして、
土蜘蛛を討つとして。

もし、
わが兵の勢におそれて、
山野に隠れたなら、

かならず後の愁いごととなるだろう」
といいました。

則、海石榴(つばき)の木を採り、
(つち)に作って
(つわもの)としました。

勇猛な兵卒を選び、
(つわもの)の椎(つち)を授けて、

それを以て、
山に穴あけ、草を排除し、
石室(いわむろ)の土蜘蛛を襲い、

稲葉の川上にて破って、
ことごとくその徒党を殺しました。

血が流れ、踝(くるぶし)までとどきました。

それゆえ、時の人は、
海石榴椎(つばきのつち)を作った所海を
石榴市(つばきち)といいます。

また血の流れた処を血田(ちた)といいます。

打猨(うちさる)を討伐しようとして、
おろかに禰疑山(ねぎやま)を超えました。

この時、
賊虜の矢が、横から山へと射られました。
官軍の前に流れてくる様子は、
降る雨のようでした。

天皇は城原(きはら)にひき返し、
水上(かわのほとり)で卜(うらない)をしました。

兵を整えて、
先に八田を禰疑野にて撃ち破りました。

ここで打猨は、
勝ことはできないと思い、
降服を願い出ましたが、

然るに、許しませんでした。
皆、自ら洞谷に投身して死んでしまいました。

天皇は、初めに、
賊を討とうとして、

柏狭(かしわお)の大野に留まりました。
その野に石があり、
長さ六尺、幅三尺、厚さ一尺五寸
もありました。

天皇は祈(うけ)いて、
「朕が土蜘蛛を滅することができるのなら、
将にこの石を蹴ったら、
柏葉のように挙がれ」
といいました。

そこで蹴ると、
たちまち柏のように大空に上がりました。

故にその石を、
蹈石(ほみし)と名づけました。

この時、祈った神は、
志我神(しがのかみ)、
直入物部神(なおいりのもののべのかみ)、
直入中臣神の三神です。

十一月、
日向国(ひむかのくに)に到着して、
行宮(かりみや)を起こして居ました。
これを高屋宮といいます。



・碩田国(おおきた)
現在の大分県大分市周囲

・来田見邑(くたみのむら)
久住町・直入町周辺

(つち)、(槌、鎚・つち)
物を叩く工具。木槌や金槌。

兵(つわもの)
武器

・稲葉
飛田川

城原(きはら)
大分県竹田市木原



感想

冬11月、
碩田国に到着しました。

その地形は広大で
また麗しいところでした。
そこで碩田と名づけました。

速見邑に到着しました。
女人がいて速津姫といいました。
一処の首領でした。

天皇の行幸を聞き、自ら迎え、
「この山に大石窟があり、
鼠の石窟といいます。

二つの土蜘蛛がいて、
その石窟に住んでいます。
一を青といい、二を白といいます。

また直入県禰疑野に三つの土蜘蛛がいます。
一を打猨、二を八田、三を国摩侶といいます。

この五人は、普通の人より力が強く、
また郎党が多く、
皆『天皇の命に従わない』と言っています。

もし、
強制的にこの者たちを招喚するのであれば、
挙兵して抵抗するでしょう。」
といいました。

土蜘蛛とは、
大和朝廷に従わない、
異民族視された人々です。
背が低く手足が長い容姿、
穴居していたとされています。

天皇は憎いんで、
進み行くことが出来ませんでした。

そこで、
来田見邑に留まり、
行宮を興して居ました。

そして群臣に議論して、
「今、多いに兵衆を動かして、
土蜘蛛を討つとして。

もし、
わが兵の威勢に恐れをなし、
山野に隠れたとしたら、

かならずや、
後々の愁いごととなるだろう」
といいました。

そこで、
海石榴の木を採り、
椎(木槌)を作り、武器としました。

勇猛な兵卒を選び、
武器の椎を授け、

それを使い、
山に穴あけ、草を排除し、
石室の土蜘蛛を襲い、
稲葉の川上にて破り、
ことごとくその徒党を殺しました。

血が流れ出し、
踝までとどきました。

それゆえ、時の人は、
海石榴椎を作った所海を石榴市といいます。
また血の流れた処を血田といいました。

打猨を討伐しようとして、
愚かに禰疑山を超えました。

この時、賊虜の矢が、
横から山へと射られました。

官軍の前に流れてくる様子は、
降る雨のようでした。

天皇は城原にひき返し、
川の辺で占いをしました。

そして、
兵を整えて、
先に八田を禰疑野にて撃ち破りました。

ここで打猨は、
勝ことはできないと思い、
降服を願い出ましたが、

しかし、許しませんでした。
皆、自ら洞谷に投身し、
死んでしまいました。

天皇は、初めに賊を討とうとして、
柏狭大野に留まりました。
その野に石があり、

長さ六尺、幅三尺、
厚さ一尺五寸もありました。

石の大きさは、
長さ六尺は、約1.8メートル、
幅三尺は、約90センチ、
厚さ一尺五寸は、45.5センチ、

天皇は祈(うけ)いて、
「朕が土蜘蛛を滅することができるのなら、
将にこの石を蹴ったら、
柏葉のように挙がれ」
といいました。

そこで蹴ると、
たちまち柏のように大空に上がりました。

故にその石を、
蹈石と名づけました。

デッカい石ですね。
それが、蹴ったら、
柏の葉のように大空に舞い上がったとは、
驚きですね。

この時、祈った神は、
志我神、直入物部神、直入中臣神の三神です。

12月、
日向国に到着して、
行宮を起こして居ました。
これを高屋宮といいます。

本日はこの辺で、
明日に続きます。

最後まで読んで頂き
ありがとうございました。


ランキングに参加中!励みになります。
ポチッとお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 神話・伝説へ  

ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

最近の「日本書紀・現代語訳」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事