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2018年8月19日(主) 堅振式東京御説教 聖ピオ十世会 デ・ガラレタ司教様 「堅振の秘跡―3重の使命を果たすために必要なこと」

2018年10月22日 | お説教・霊的講話
2018年8月19日(主日)堅振式御説教(東京)
デ・ガレラタ司教様

同時通訳:小野田圭志神父


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

親愛なる兄弟の皆さん、聖ピオ十世教皇様の公教要理によると、この堅振の秘跡とは何かと説明して、「堅振の秘跡は私たちに聖霊を与え、それを受ける事によって私たちは、完全なキリスト者となり、そして私たちをイエズス・キリストの兵士とすると」あります。

そして私たちの主イエズス・キリスト御自身も、その事を説明しました。主が天に昇られる前に、御昇天のその直前に使徒たちにこう仰ったからです、「お前たちが聖霊を受ける時、お前たちは力を受けるだろう。そして私の証人として、証し人として、エルサレム、そして全ユダヤ、サマリア、そして地の果てまでも証をせよ」(使徒行録1章8節)と仰いました。

つまり堅振というのは、本質的に、聖霊御自身を私たちが受ける秘跡です。したがって、聖霊を受けて堅振を受けた者は、完全な聖霊の神殿となります。つまり私たちの霊魂と肉体において、聖霊が宿るのです。私たちはこの霊魂において聖霊が宿るので、完璧な生ける神殿となります。

使徒聖パウロも私たちに同じ事を言っています、「お前たちは聖霊の神殿であるという事を知らないのか。聖霊はお前たちの中に宿っておられる。ところで、天主の神殿というのはつまりお前たちの事であって、聖なるものである。お前たちは天主の神殿であって、聖なるものである。」(コリント前書6章19節)

堅振を受ける事によって、私たちは完璧なキリスト者となります。なぜなら、私たちに超自然の生命が、聖寵が完全に与えられ、霊魂が完成させれるからです。

したがって堅振の秘跡とは、天主の聖寵の、天主の命の増加の秘跡と言えます。こうする事によって皆さんは、完璧なキリスト者となって、そして超自然の徳においても、聖霊の賜物においても、その充満を受ける事になります。

聖霊の秘跡、聖霊の賜物を受ける効果は、私たちを強める事です。この秘跡の固有の特別の効果というのは、私たちを強め、固め、そして私たちがイエズス・キリストの為に、その証し人として、私たちを強める、という目的があります。私たちは「イエズス・キリストの証をする」という目的の為に、この堅振の恵みを受けます、聖霊の恵みを受けます。

この堅振の秘跡は、私たちの主イエズス・キリスト御自身から皆さんは受けます。なぜかというと、皆さんに堅振の秘跡を授けるのは、イエズス様ですから。なぜかというと、秘跡、七つの秘跡は、キリストの秘跡であって、司祭の職務を聖務を通して与えられるからです。

そしてイエズス・キリストは、堅振を受ける皆さんに、教会における、また社会における、3つの特別の使命・職務を与えます。それは、「証し人となる事、証人となる事」もう1つは、「兵士となる事、軍人となる事」そして、「使徒となる事」です。

1つまず第1に、「証し人となる、証人となる」という事は、私たちの主イエズス・キリストを、公に告白しなければなりません。私たちの本当の信仰を、イエズス・キリストの名誉を告白しなければなりません。特に公の礼拝と儀式に与る事によって、尊敬を表明しなければなりません。

第2に、私たちは「兵士」となります。つまり戦わなければなりません。戦闘の使命があります。これはどういう事かというと、私たちの主の権利を、天主の権利を、本当の信仰を守るという義務です。

第3に、私たちは「使徒」となります。使徒というのは、私たちの主イエズス・キリストに対する本当の信仰を伝えて、そしてそれを広めて、それを皆に知らせる、という職務です。

この今日、堅振を受けるこの日に皆さんは、私たちの主から、そして教会から、この3つの責務を使命を受けるのです。


この3つの、三重の役割、職務を、私たちはどのように務めたら良いでしょうか?

まず第1に、信仰において。つまり、「本当のカトリックの健全な信仰の教義」において、私たちはまずこれを皆の前に公に告白しなければなりません。そしてそれを守らなければなりません。そしてそれを伝えなければなりません。

「真の健全なカトリックの信仰」というのは何かというと、つまり「聖伝のカトリック信仰」の事で、永遠の教導職によって伝えられた、この変わる事のない信仰です。

聖ユダがその書簡の中にこう書いています、「私はお前たちを励まして、そして聖徒たちに聖なる者たちに、たった一度だけ伝えられたこの信仰を守る為に戦え、と励ます」(ユダ1章3節)とあります。

つまり、信仰というのは、変わる事のない変化する事のないものであって、啓示された、天主が私たちに教えられた真理です。ですからこれを守り、これを保持し、そして擁護し、これを隣人に伝えなければなりません。

「これを守る、これを擁護する」というのはどういう事かというと、特に現代、教会の中にまでも浸み込んでしまった、浸透してしまっている、自由主義、リベラリズムや、あるいは近代主義に対してです。


第2に、私たちにこの三重の務めを、単なる知的な教義を教えるのみならず、イエズス・キリストが教えた道徳の、生き方の教えに関しても、それを守る為に戦わなければなりません。

つまり、イエズス様は私たちに、「どのように聖なる一生を送るべきか」という事を教えて下さいました。私たちの主の教えを、私たちは生きなければなりません。それを生きる事によって、守らなければなりません、擁護しなければなりません。

特に現代では、この教会の中に、これに反対する教えが教会当局によって、この教えを変えてしまうような教えが入ってしまっています。特に十字架に関する、「十字架を私たちが担わなければならない」という教え、あるいは「犠牲の精神」の教え、あるいは「婚姻が唯一のものであって、聖なるものである」という教えに反対する教えが教会の中に入っているので、これを私たちは生きる事によって守り、そして教会の中のみならず、社会においても、これを擁護しなければなりません。これはそうする事によって、私たちは超自然の秩序を、キリスト教の秩序を守る事になります。

またキリストの兵士として、超自然の、しかし本物の真理の、イエズス・キリストの統治の為に戦わなければなりません。そうする事によって皆さんは、王であるキリスト、そして最高司祭であるキリスト、救い主であるキリストの御国の拡張の為に戦う兵士となります。

そしてこの為にも、私たちがイエズス様の教えた十字架の教えを生きる為にも、永遠のミサ、変わる事のないこの聖伝のミサを守って下さい。十字架のいけにえを守って下さい。

第3に、この三重の務めは、教会の中においても、教会に対しても果たさなければなりません。

つまり私たちは、「真の、一・聖・公の使徒継承のローマカトリック教会こそが、唯一、イエズス・キリスト様の立てた教会である」という事を告白し、これを守り、これを伝えなければなりません。なぜならば、なぜ唯一かというと、イエズス様の花嫁はたった一人しかおられないからです。つまりカトリック教会です。カトリック教会の外にある敵、あるいはこれを辱める、これを汚すような内の敵、内部にいる敵に対して、私たちは教会を守らなければ、擁護しなければなりません。

そして聖パウロの証言によれば、「私たちは、キリストの体を建てる、建設する協力者とならなければならない」(エフェゾ2章22節)と言います。

「キリストの体を建てる」というのはどういう事かというと、つまりキリストの神秘体であって、教会というのは、キリストの神秘体です。その基礎の石はイエズス・キリスト、そしてそれを建てる石は、生ける石である私たちです。私たちが回心してキリストの信仰に帰依し、そして聖なる一生を送る事によって、私たちは生ける石となって、教会を建てる事になります。

多くの霊魂たちを、この聖なる教えへと引き寄せるようになさって下さい。

では親愛なる受堅者の皆さん、そしてすでに堅振を受けた信徒の皆さん、この証し人、証人に必要な「徳」とは何でしょうか?

ところで証人というのは、ギリシャ語では“Martyrion μαρτύριον マルテュリオン”つまり「殉教者」と同じ単語を使っています。証人となる為には証し人となる為には、兵士となり、使徒となる者と同じ徳が必要であって、すなわち「勇気」であって、「寛大さ」であって、そして天主の奉仕の為のいつも準備ができている、またこの霊魂の力強さ、最後まで続く「堅忍」の力、そして「忠実さ」、これが必要です。この徳が必要です。

この色々な徳を受ける為に、私たちの主は特別な助けを与えて下さいました。なぜかというと、今現代に生きる私たちには、難しい時代を生きているからです。

それはどのような助けかというと、私たちの主イエズス・キリストにいつも緊密に、個人的に、友として一致している事が必要である、という事です。つまり、私たちの主は、「十字架に付けられた、キリスト御自身」を助け手として与えて下さいました。

聖パウロは言います、「十字架に付けられたキリスト、これは異教徒にとっては愚かさであり、ユダヤ人にとっては躓き、しかし天主を信じる選ばれた者にとっては、天主の知恵であり、力である。」(コリント前書1章23節)

天主の知恵であり、力である、この十字架に付けられたキリストから、私たちはその力を汲み取らなければなりません。永遠の救いにまで達する力を汲み取らなければなりません。その為に私たちは、祈りの生活を、祈りを大切にする必要があります。

アビラの聖テレジアは祈りについてこう言います、「祈りとは、私たちを愛している方と、信頼を持って語り合う事である。」

「語り合う」という事はつまり、知性を以て、そして心を込めて話す、対話する、という事ですから、私たちは知性を以て、誰と話しているかを知りつつ、心を込めて、十字架に付けられたイエズス・キリストと話をする、そうする事によって私たちは、聖徳と力を受ける事ができます。

特にその為にも、永遠のミサである、イエズス・キリストの十字架の再現であるこのミサ、聖伝のミサに特に愛着して下さい。これにピッタリとくっついて下さい。なぜかというと、たった1つのミサであっても、この何百万の多くの霊魂たちを聖化する、十分なその効果と力、十字架の力、イエズス・キリストの死の力が含まれているからです。ですからこのミサを生きて下さい。ミサにピッタリとくっついて下さい。

特に現代では、イエズス様は更に私たちに別の救いも与えて下さいました。それは「マリア様の苦しみに満ちた汚れない御心」です。

マリア様が仰るに、「私の汚れなき御心はあなたの避難所であり、天主へと導く道となるでしょう」と。

「避難所」という事は、私たちがそこに居れば決して攻撃を受ける事のない、安全な場所であって、例えで言えば、固く守られたお城のような要塞のようなものであって、あるいは城壁で固められて守られている街のようである、と言う事ができます。そこに私たちが入れば、守られる所です。

マリア様は栄光を受けて天に昇られた、栄冠を受けられた元后であって、そして私たちの為の全ての御恵みの仲介者であって、優しい御母であります。このマリア様の汚れなき御心の中に入って下さい。なぜかというと、この汚れなき御心は同時に、天主へと必ず連れて行く、導く王道であるからです。王様の通る道であるからです。このマリア様の役目とは、私たちにキリストを与える事であって、そしてキリストへと私たちを導く、そして永遠の救いへと導く役割を持つ母であるからです。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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