戦闘能力の無い文官を戦地に派遣していた?

〜〜半年以上、駄文を書いていませんでした・・・ボチボチ再開します〜〜


目の前の現実の解釈をきちんとできない脳味噌を有する方々が、自衛隊の海外派遣に関し反対する為に「戦闘地域に派遣するとは何事だ!」と叫び続けて久しいと思います。建前として「邦人(自衛隊員)が危険に晒される状況である」と叫んでおられる方々が多々おられると思います。そんな中、駐大韓民国長嶺大使が一時帰国しました。釜山の日本総領事館前に捏造事件に抵抗すると称して下品な「高級売春婦記念像」などを設置し、我が国に対しイチャモンをつけていることに対する措置としての事だそうです。この行為は当然といえば当然ですが、腰の引けた外交戦略を繰り返してきた我が国のトップに対しては「よくやった」「これぞ『はじめの一歩』」と申し上げたいところです。

小さな学習塾を運営している立場として、生徒に、この「時事問題」をこのように説明してみました。「もし、この塾の昔の卒業生が、『20年前、先生に酷いことをされた。だから、ここにいじめられている生徒の像を設置する』と言い、実際にそのミョウチクリンな像が塾の前に置かれたとする。そして、近隣の人々がその像を囲んで、『酷い先生だ!』とか『謝れ!』とか言っていたとする。実際に酷い事などした記憶は一切ない。そんな君達がオレの立場だったらどうする?」と・・・生徒達は「冗談じゃないですね。」「ばかばかしくてやってられませんね。」といった反応でしたが、愚生は、更に言いました。「オレはそんな事を言われるなら塾は閉鎖するし、この街にガソリンをまいて火をつけてしまうかもしれないよ。」・・・極論は承知の上ですが、そのくらい腹が立つよということです。長年、この塾をやってきて、保護者からの苦情などほぼ皆無、感謝の言葉は数多いただいてきた立場ですから。つまり、現在の価値に換算したら何兆、いや、何十兆円に匹敵するであろうインフラを大東亜戦争後彼の国に譲渡したにも関わらず、下品な事象を捏造し(朝日新聞なる反日組織が捏造したというのが本当かもしれませんが)、反社会的勢力のように「カネを寄越せ!」「カネを寄越せ!」「謝罪しろ!」・・・と言い続けている三流国家のやっている事です。

さて、ここで、今更気が付きました。現在、朝鮮半島では、朝鮮民主主義人民共和国大韓民国が「戦争中」であります。つまり、我が国は、何の間違いからか、それなりに訓練を受けた自衛隊員ではなく、全く戦闘能力の無い外交官をその戦闘地域に派遣し、危険に晒してきたのです。なんということでしょう・・・しかも、そんな危険な地域に観光旅行と称して、多くの邦人が「遊びに」行っていたのです。よくよく考えれば、中東に行く連中にそれなりの注意喚起をしている日本政府ですが、この朝鮮半島こそが訪問を制限すべき危険地帯であったということです。実際に、報道されてはいませんが、毎年多くの邦人が彼の地で不法監禁されたり強盗に遭遇したり命を落としたりしているのです。

ここで、声を大にして言いたい・・・そんな危険な国家とはさっさと国交を断絶してしまえ!・・・と・・・
隣の家に反社会的勢力の方々が暮らしているとして、その家に「おすそわけです」と言いつつ、自分の家ではほとんど食さない高級なモノを差し上げたり、自分の子供がその家に遊びに行っていたりしているなどというバカな家庭は無いと思います。この先、良識あるニッポンジンは、彼の国に旅行などせず、彼の国のモノを購入することなどせず、自らの国家を大事にしていくことにあらためて関心を持つべきではないでしょうか?

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文武併道

我が母校、埼玉県立浦和高等学校の校訓は「尚文昌武」であります。19世紀末、日清戦争に勝利し、欧米列強への対抗心が強くなる中、世間が「尚武の精神」を強く説いていた時代、当時の校長先生が、「武にのみ偏るなかれ」との考え方からその真ん中に「文」と「昌」の字を挟み込んで作られた造語であり、四字熟語辞典には掲載されておらず、母校関係者のごく一部のみにしか知られておりません。「文を尚(たっと)び武を昌(さか)んにす」とも読みます。類似する・・と言うより、世間的に認知度が高い四字熟語に「文武両道」がありますが、まあ、意味としてはほぼ同義と考えられるでしょう。

この文武両道に関し、我が母校のみならず、埼玉県内の旧制中学から継承した五つの男子校(浦和・熊谷・川越・春日部・松山)は概ねその考えを踏襲しております。文に関してはいわゆる一流大学に進学する比率が非常に高く、川越高校からはノーベル賞受賞者も輩出しておりますし、武に関しては県内に200以上存在する高等学校の中で、多くのスポーツでベスト8に入り、また、多くの全国大会出場者を輩出いたしております。重要なのは「成績優秀な生徒『が』全国大会レベルのアスリートである」ことであり、それを以て「文武両道」とすべきであることを理解している・・・ということであります。多分、他県でも、旧制中学時代からの学校は、ほぼ同じような動きをしているのではないかと想像できます。

しかし、昨今では、その意味をはき違えた「世間」が存在いたしております。元々、歴史と伝統を持つ、私立高校や、一流大学の付属高校等では、その傾向は見られませんが、戦後あたりから今日まで、徐々に頭角を現してきた私立高校に見られる傾向として、「文武併道」の学校が多々あります。前述の『が』を『と』に置き換え、文末を少々いじって「成績優秀な生徒『と』全国大会レベルのアスリートがいる」といった学校が平成時代に入ってから増殖してきております。「偏差値70以上だが、100mを走らせると20秒以上かかる生徒」がおり、「七の段の掛け算が言えないが、100mを10秒台前半で走る生徒」が同じ学校(或いは系列校)に存在し、それを堂々と「文武両道」と称しております。つまり、「文武両道」の生徒がいるのではなく、「文に長けた者」と「武に長けた者」の2人を以て構成されている、分業制が出来上がっている訳です。これを「世間」は、「あの学校はトーダイに受かる子がコーシエン出場するんだから凄いね」と考えてしまうのです。一部の(ややもすると大多数の)私立高校では、片やアスリートコースで短縮時間割を組み、朝練+14時〜19時の練習を行い、他方スーパーアカデミックコースでは部活動禁止・7時間目〜10時間目の授業を「勉強部という部活動」として行うので実質8時〜19時まで授業なんぞというところもあるくらいです。

この「分業制」の先には何が存在するか・・・簡単に言ってしまえば、「勉強しかできない子」と「運動しかできない子」を・・・要するに偏った人間を創造しているわけですから、当然、その子供達が社会に出てからの人間性に関しては推して知るべしです。「それは個性というものだ」と言われれば、それも一理ありますが、食事に例えれば、3年間、牛丼しか食していない子とカレーライスしか食していない子がマトモな人間になれるはずがない・・・というのは極論でしょうか?愚生から見れば、その危険性が理解できないのはその時点で、愚者であると思いますので、この風潮をもてはやす方がおられたら勝手にされたら良い。しかし、零細企業の経営者としては、そのような人間は採用せず、「偏差値50程度・100mを13秒程度で走る」若者を大事にしていきたいです。

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下戸の嘆き

愚生、全く酒をたしなめません。呑み助の諸先輩方には「オマエは人生の八割を無駄に生きている。」とか「呑めないヤカラとは腹を割って話すことはできぬ。」と言われ続け、いわゆる「下戸」と蔑まれる立場として約60年の人生を歩んでまいりました。元々、許される酒量が存在し、「上戸」という上流階級はその量が多く、「下戸」という下層階級は少ないというところがこの「下戸」の語源とされているそうですから、一昔前までは「下戸と鬼は無い」*1などと言われており、大酒のみこそがステイタスを誇示する道具であったわけです。ましてや、「下戸の建てたる蔵は無し」*2つまり、たくさんお酒を召し上がる方々にとって、愚生は下層階級の人間であり、蔑む対象であることは否定してはならないのでしょう。

昨今、科学的に下戸のメカニズムが少しづつ解明されている中、そもそもモンゴロイドにはこの下戸遺伝子が強く発生し、二種あるアセトアルデヒド脱水素酵素なるものの片方が欠落しているとそれなりの下戸、そして、数パーセントの両方の酵素が欠落している本物の下戸が存在しているとか。愚生は、その両方が欠落した「障害者」いや、むしろ、カタワなのかヒトモドキなのか、碌でもない存在であるということが徐々に明らかにされていっています。当然、酒席に於いては「下戸は上戸の被官」*3の立場として、説教の対象から始まり、吐瀉物の処理係やら、同席者やお店への謝罪係やら、廃棄物と化した「元人格者」をその住処にお届けする係やらを務めさせていただき、後日、「何かあったか?オレ、何も覚えていないんで・・・」というシレっとした発言*4に再度腹を立てると言うこと数限りなしでございます。

既に時効でしょうが、愚生の高校時代など、合宿の初夜に卒業生の鬼達が手に手に一升瓶をぶら下げてやってきて、純真無垢な一年生を押さえつけ、その崇高なる液体を流し込み、「このくらい呑めなくてオトコか!!」と言いたい放題でした。愚生の場合、そのまま気を失い、翌朝になって、殴ろうが蹴ろうが起きずにいたため、「こいつはオンナノコだからほっとけ!」ということになったそうで、正気を取り戻したのは、その夕方であり、合宿期間中はほぼ稽古などできなかった・・・などという苦い思い出があったりいたします。まあ、昭和時代後半、旧制高校に対する憧れや歪んだ軍国主義の残像が存在し、学校内はあたかも戦時中にタイムスリップしたかの如き全く別世界であったので仕方なかったといえば仕方なかった・・・とは言え、こういう事件の後、未だに「被官」として生きて行かなくてはならない刷り込みが行われたわけであります。

しかし・・・「下戸の手強」*5ということもお忘れなく・・・と申し上げておきましょう。昔は無かった事でしょうが、昨今では、誰もが大変便利な機器を持ち歩いており、その様子をしっかり動画に収めてネット上で公開するなどというこれまた愚行が当然のように行われていることをお忘れなく。愚生の如き矮小な最下層の人間でも窮鼠かえって猫を噛む・・・ことがあるかもしれませんので・・・

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*1:この世には酒を呑めない人間など存在しない

*2:酒を呑めないからと言って節約に繋がるわけでは無いという、上戸が下戸を馬鹿にする表現・・強いて言い返すなら「上戸の潰した蔵は数多」です。

*3:下戸は酔った上戸の世話をしなくてはならない

*4:実は、覚えていたからそんなこと言ってオレの顔色見てるんでしょっ!!

*5:呑めない人を酒で籠絡することはできない。転じて、「酒席でも正気を保っているので、酔った者の失言等も聞きもらさず、更には発言していなかった事すらでっち上げることもできる」といった解釈もあります。

七草粥と恵方巻

一月九日に、とあるPTA関係の会合にて講演をさせていただきました。愚生の如き市井の片隅で世間の動向を斜眼視し、小言と皮肉しか言わないガクシャ崩れによくもまあそんな依頼が来たものだ・・・と思いつつも、実は意外とそこここで頼まれており、それなりにご好評を頂戴しているようです。落語だろうと講演だろうと与太話だろうと、導入部分というのは大切なものですので、この時は、七草粥を話題にいたしました。「せり なずな ごぎょう はこべら ほとけのざ すずな すずしろ はるのななくさ・・・昔の人は良い覚え方をされたものです。五七五七七となっており・・・」といったいわゆる「枕」を置いたのち、本題に入っていったのですが、さて、講演後、質疑応答となったところ、「最初に仰った『なんとか粥』ってどういうものですか?」という質問が飛び出しました。

この時点で、こんな駄文をすき好んでお読みになっておられる方であれば、その質問をされた方に対して「バカ!」で片づけたい気分でありましょう。愚生も全くそんな気持ちでありましたが、そこは、一応、「講師の大先生様」としての矜持と品格を失う訳にはいかないので、いやらしく、その方を貶めてやろうと考え、「では、七草粥をご存じない方、どのくらいおられます?」と問うてみました。きっと、他にいても一人か二人であろうという愚生の想像は間違っており、約60人の聴衆の中で、多分、20人弱の挙手がありました。概ね30代〜40代の女性、そして「お母さん」の3割が七草粥をご存じない・・・なるほど、これが時代の流れなのかはたまた文化の盛衰なのか・・・いや、愚生の勝手な思い込みであろうか・・・と当惑いたしました。

気持ちを建て直し、「では、おととい、七草粥を食した方はどのくらいおられますか?」と問うたところ、挙手されたのは10人に満たず・・・そこで思い立って、「では、昨年の節分に恵方巻というものを食した方は?」と問うたところ、今度は、7割程度の挙手がありました。思わず、そこから、今度はその恵方巻きなるモノに対するウンチク*1 *2をまくしたてて、司会進行の方に、「その辺は、また今度、ご講演をお願い致しますので*3とさえぎられる始末でしたが、終了後、「女性の品格」を具えたことがありありとわかる方が愚生のところにやってきて「PTAって、こんな程度ですから・・・でも、この国の未来に不安を感じてしまいますよね。」と囁かれたのは、まあ、暗闇に一筋の光明とでも申しましょうか・・・といったところです。

七草粥そのものが「国民的行事」である必要性は感じておりません。その文化背景によってはご存じない方が多々おられても決してそれを責めるつもりもありません。ただ、平安時代からの風習であろうと思われること、そして、医食同源或いは食育という見地から実に理に叶ったものであることを考えますと、七草粥恵方巻(とやら)が同じ土俵に立つことに嫌悪感を覚えてしまうのがヘソマガリの真骨頂なのであります。コマーシャリズムのバイラル・マーケティングに踊らされ、気が付けば節分に恵方巻、バレンタインデー、全く根拠のないホワイトデー、そして、10月にはケルト人の一部の行事をゆがめたハロウィーン等々・・・このままいけば、次は、イスラム暦に従って行われるハジの儀式などが形を変えて「ず〜っと昔からやっている祭」として「今年は〇月〇日がその日です」などというキャンペーンが行われ、気が付けば毎日がお祭りになる=結果、国が亡びる・・・と危惧してしまうのは我ながら如何なものか?と思いつつも、所詮は遊びたいだけの愚民に対して相手にとってはカエルノツラニションベンであるところの冷ややかな視線を投げるしかできません。もしかしたら、平安末期くらいに、愚生の祖先が「近頃は七草粥などといういかがわしい習慣を流行らせようとする国賊がおる」などと言っていたのかもしれませんが・・・*4

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*1:一説には関西の郭の行事であり、太巻きを男根に見立てた下品なモノであるという話

*2:実は、10年少々前に、コンビニと酢メーカーが相当なキャンペーンを張って「全国区」になったという話

*3:「二度と来るな!このクソジジィ!!」と考えているのがありありとうかがえましたが・・・

*4:恵方巻に関しては、10年前の今頃にもう少しおだやかな記事を書いておりました。

国家間における歴史観の相違

大東亜戦争終結30年目の米国派遣生として中西部の小さな村の高校にいた頃、彼の国での「米国史」の授業で、「我が合衆国大統領フランクリン・デラノ・ルーズヴェルトは世界の如何なる国家とも戦うことをしない〜不戦宣言〜を全世界に発信したが、その一週間後、東洋の矮小な国家が我が国・真珠湾を卑怯にも不意討ちし、多くの同胞の命が失われた。結果、その報復として『太平洋戦争』が開戦した」といった内容をを、そのクラスに日本からの留学生がいることを知らなかった代用教員(担当の先生が出張中のため)-当時50代だったと思われる--が語りました。当時18歳の愚生は、知識と言語能力の不足から、衝撃的に感じつつも深く理解できていませんでした。覚えているのは、授業が終わってから、クラスメイトの多くが「オレとオマエが戦争したわけじゃないよな」「あの教員、あとでボコってやろうか」等々言ってきたことです。

その後、もっと「それなりの知識」を身につけてからこの時の「事件」を思い返した時に、「学校での歴史教育はその国家の側から見た『歴史観』に過ぎない」「歴史は勝者の理論でいくらでも書き換えられる」ということに気が付きました。それからというもの、「南京で大日本帝国軍が百万人の大虐殺を行った」といったような話に対して、「オマエ、それ、見たんか?」と言ってしまうヒネクレモノとして生きております。当然、「南京」に関しては、その大虐殺が行われたとされる直前の人口が20万人程度、そして、その翌々年頃には25万人を超えたという数値がありますので、そもそも百万人を殺戮することは不可能であり、且つ、数年で流入人口まで発生したということは、よほど平和であったことを物語っておりますので、それが真実では無い事は明白です。

つまりは、どこの国でも勝手に為政者の側に都合の良い「史実の書き換え」が行われているということであります。そして、それは、侵略によりその国家の版図を拡げた者によって書かれたものにすぎないと言えます。我が国でも、原始以来、小さな都市国家的な村と村の抗争が繰り広げられてきたことでしょう。そして、それをほぼ統一し、2千7百年前には天皇家*1が存在するようになってから、「王朝の交代」は行われておりませんが、4千年とか5千年の歴史を有すると豪語される大陸の大国では王朝が交代するたびに、前王朝の墓を暴き、代々の皇帝の遺骨を粉々に砕き、残されている書物を全て消去するという、良心のあるものにとっては愚行以外の何ものでも無いことを繰り返してきました。

21世紀になって、いくらか人類もオリコウサンになってきました。人類が「記録する」という能力を身につけてから数千年が経過し、やっと、その記録することによる契約、合意等が行われ始めています。まだまだその「解釈」に相違が発生し、それが紛争の原因となることもありますが、このまま、良い方向に行けば、人類の未来は明るいはずです。そして、前述の「現地の同級生との会話」の通り、「国家と国家」に確執が存在したとしても、「人と人」に確執が無ければ平和を希求できるんじゃないかな???というのが大事です。それを阻止し、破壊したいのが、世界各地に存在するテロリスト集団であり、それは、様々な形態をとっているのでは・・・イルミ〇ティ、ア〇カイーダ、中華〇民共和国、ニッキョーソ等々・・・愚生、基督教徒ではありませんが、「人と人」の繋がりを大事にし、残された余生を穏やかに過ごしたいと考えております。

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*1:この表現をミギやヒダリのダンナサマはお嫌いになられます。ミギの方は「皇室」を推奨し、ヒダリの方は「天皇制」という本来制度では無いものを説き、こきおろすことに幸せを感じておられるようです。

戦争の大好きな左翼・平和の好きな右翼

「右翼」「左翼」とは、そもそも、フランス革命後の国民議会議場において、議長から見たとき、保守派が右側、急進派が左側に座ったところから俗称として使われるようになったとのことですが、現在の日本において、「右翼」とは、旧大日本帝国時代の軍国主義のみを懐かしみ、あわよくば再度大東亜にその覇権を築こうとしている人種として、他方「左翼」とは、民衆の力で「現政権」を倒し、「新しい・正しい政治を行う」ことを目指すマイノリティ集団である・・・といったような曲解がされています。当然、保守といえば、元々あったものを引きずり、現体制を維持しようとする思想であり、革新といえば、現状に満足せず「理想的な」ものを作ろうとしている思想でしょう。

しかし、最近、その辺の考え方が妙にズレてきていて、革新を求める方々(愚生は彼等を「なんでもはんた〜い教」というカルト教団と呼んでいます)は、「憲法九条を守る」ことが全てであり、その為には現政権を打倒し、新しい政府を作らなくてはいけない!といった、矛盾のようなそうでないような不思議な旗印を掲げています。何しろ、元々の左翼集団というのは、「民衆が勝つには、独裁者全ての息の根を止めるべし!」といった過激な発想の方々で、「平和のための闘い」が大好きです。そうやって「自由」と信じたものを勝ち取った民衆とやらのトップにいた人が何故か独裁者としてその後君臨するようになり、また新たな革命が起こるという歴史が繰り返していることには気が付かず、「とにかくはんた〜い!!」を繰り返しますが、何故か「憲法九条」だけは絶対に守らなくてはならず、しまいには、「我が国は戦争を放棄しているのだから他国が攻めてきたらおとなしく捕虜になるか殺されるかすればよい」などと言いだす人までいる始末です。

他方、保守派の人間は、70年前に「とりあえず」つくられた憲法というものを見直し、或いは解釈しなおし、現在の政治的・経済的国際関係及びパワーバランスを鑑み、必要な変革を加えようと考えています。良く良く考えてみれば、これは「改革」〜「革新」であるわけです。現状を見据えて、ちゃんとした改革さえおこなえれば、妄信的に「憲法九条があれば台風は日本に上陸しない」(とある立派なシャミントー=捨民党とやらの方が仰った話を縮めてみました)などという世迷言を吐いている方々より、余程建設的であり、且つ現状に則した考え方でしょう。本当に保守派の人間は「守る」を考えながらも戦争は嫌いなんだなぁと痛感します。

小さな一戸建てで幸せに暮らしていたら、隣の広い土地に大きな屋敷が建設されはじめ、何やら高い塀でかこまれました。その片隅にはもっと高い塀とその上に鉄条網が張り巡らされた小さな家と、その傍らに一応外からは見えますが、猛犬を何頭も放し飼いにしている家があります。そして、広い土地の大きな屋敷には何十人もの屈強な男たちが暮らしており、彼らは木刀や日本刀や時には鉄砲のようなものまで持っているようです。先日(9月3日)、隣町等から大勢の人を招いて、その日本刀や鉄砲を披露し、その家の主のような方が「いや〜・・・物騒な世の中ですからねぇ・・・あの隣の『日の丸』の家や、隣町の『星条旗』の家がナニするかわからんので、とりあえず、この程度の『備え』をしているわけですよ。ついでに言っておくとねぇ、最近のワカいモンは言う事聞かないんでねぇ・・・ウチの西側や南側の家は時々こらしめてやったりしてるんですよ。それもこれもこの町内会の平和の為ですからねぇ・・・」と言っていたとしたら・・・きっと戦争の大好きな左翼はその傘下に入り、他の家々を支配する手先になりたいが、平和の好きな右翼はそんなならず者が町内に住んでいることを憂え、どうしたらそれを改善できるかを考えているのでしょう。さて、我が家の、そして我が国の未来は如何なるものになるのでしょうか。

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敢えて反日思想を以て考える「日本侵略計画」

      • あくまでも、愚生は、こういった考え方を持った人間ではありません---

8月30日、我らが35万人の同胞*1は矮小なるこの国の国会議事堂を包囲し、戦争法案*2を強硬に推し進める安倍伸三他、この国に徴兵制・軍国主義を復活させ、今にも戦争を始めようとしている*3悪の手先を震え上がらせた。そして、闘いはこれからである。当然、我々、この国の国籍を有する反日主義者はこの国では至ってマイノリティであり、政権を手に入れることも革命を起こすことも不可能である。因って、ここは、大陸や半島の国家の協力を仰ぎ、水先案内人となり、政権を奪取し、罠腫党(みんしゅとう)・捨民党(しゃみんとう)・兇惨党(きょうさんとう)による連立政権を以て腐りきったこの国の粛清を行うことにする。

この国には、在日外国人として、大陸人が約65万人、半島人が約50万人生活している。*4当然、それぞれ3万や5万増えたところで、この国の政府は驚きもしない。そこで、これから数年かけて、訓練を積んだ特殊工作員を数万人、さりげなくこの国に招聘し、全国に配備する。しかも、既に帰化し、この国の国籍を取得している同胞の一部は、財界・政界の要所に配置されている*5上に、実は既に数万人の工作員が江戸時代の「草」と呼ばれた種族のように全国に潜んでいる。

この国の自衛隊と称する軍隊はせいぜい15万人の兵力しか有していない。それに対し、半島軍総数は65万人超、大陸人民解放軍は総数200万人超である。それぞれの兵力の一割強を以てこの国に総攻撃をかけたとすれば、既に兵の数だけでも2倍を超えるものである。既に潜入している約10万人の工作員は半島軍・大陸軍の海軍・空軍がこの国の領海に侵入するまでに全国の自衛隊基地、米軍基地周辺に地雷等を仕掛け、身動きできない状態を作りだし、その後、警察署・消防署等を制圧する。しかも、この国の通信網の3割は既に犬印の電話機であるから、当然、その使用ができない状態を作り出すことは簡単であり、それ以外の通信機器も既に多くの携帯電話にアプリという名で仕込んだ妨害機能を一斉発動させることにより、その混乱度合いは格段に大きくなる。この矮小な国家の自称「無辜の民」は殺戮し放題である。

孫子の兵法、三国志の兵法他を駆使し、「笑裏蔵刀の計」ハンリュウとかヨン様とかで、この国のバカ女達を友達にし、蹴球世界大会で共同開催による友好とかいえば、尻尾を振って喜ぶ国民性である。その後、「瞞天過海の計」として、釣魚島、独島等を含め、既にこの国は攪乱済みである。国会前の「虚兵の計」は既にその効果を大々的に顕している。まともな考え方を持った人々でさえ、離反を余儀なくされている。ジミンとイシンとジセダイとコーメイと・・・これらも「離間の計」により、関係がぎくしゃくしてきているところである。これから数年かけて、これらの計画を粛々と水面下で推し進める。東京五輪とか言ってうかれている時が、この国の夜明けだ!

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      • くれぐれも、愚生がこういう計画を企んでいるのではありません。実際に愚生が考えただけでこの程度の計画ができるのですから、「しいるず」とか「しゅーしょくできなくてふるえる」とか叫んでいる非国民の中には愚生より格段に優秀な連中がいる訳ですから・・・・国の為の備えはくれぐれもしっかりとしたうえで、愚生は外敵が攻めてきた時には、未来ある若者(しいるずとかではなく)の楯となって死んでいく覚悟はできております----
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*1:主催者側発表であり、実際は3万人いたのかどうか・・・ただ、ゴキブリは1匹見つけたら30匹はいるものですから、要注意です

*2:そんな法案は日本国では提案すらされていません

*3:そんな事は日本国政府は一言も発していません

*4:半島人の数は30年前とさほど変わっていませんが、大陸人の数は5倍に増加しています

*5:蓮〇、白〇勲、孫〇義等々