次の文章を読んで、「私の風景」という題で、感じたこと、考えたことを、160字以上200字以内でしるせ(題を書く必要はない。句読点も1字として数える)。
 注意
 1. 例文の鑑賞や批評を求めているのではない。
 2. 採点に際しては、表記についても考慮する。


 夏が、そろそろ終わる。
 そう思うと、いつも、なぜだか、あたしの心の中にうかんでくる情景がある。
 そこは、どこかの空き地なのだ。雑草が適当にのび、地肌は見えない。別に囲いもさくもないから、空き地のすぐわきは道路で、その道路はアスファルトで舗装してある。そして、道路には、電柱が一本たっており、その電柱にはセミがとまっている。もちろん、セミはうるさいほどに泣いている。これは何の風景なのだろうか。
 夏の終わりっていうと、必ずこの情景が頭の中にうかんでしまうので、あたしはずっとそれを考えてきた。何度考えても、空き地と電柱以外には何もうかばないので、ひょっとすると、その辺は、全部空き地なのかも知れない。だが ー どこをどう、自分の記憶をひっぱりまわしても、あたしには、その情景に該当する風景の心あたりがないのだ。
 あたしが子供のころには、もうすでに東京は大都会で、空き地なんでめったになかった。一応、二つほどの空き地を覚えているのだが ー どっちも、すぐ横に、電柱なんてなかったし、一つは明確にさくでかこまれていたはずだ。
 それでも、なぜかこの情景は、あたしにとってとても懐かしく、おまけに思い出すと少々胸が痛む。泣きたいほどに、懐かしすぎるのだ。
 あれは、何の情景、どこの風景なのだろうか。現実にある風景なのだろうか。それとも、あたしの心の中だけに存在する、あたしにとって、夏の終わりの原風景なのだろうか。
 今でも、あの電柱では、夏の終わりにはセミが鳴いているのだろうか。



東京大学 1987年現代文[2]の問題。


1999年まで東大現代文が出題していた「死の第二問」のひとつ。
いままでたくつぶでは、このシリーズの出題を、1981年の「樹木の言葉」、1982年の「国木田独歩の手紙」、1985年の「金子みすゞの詩」と3題にわたって紹介してきた。
今回の出題も、それと同じカテゴリーの問題だ。題材にそこはかとなく「死の匂い」が漂い、受験生にとっては「何をどう書けばいいのかさっぱり分からない」という、文字通り「死の問題」だ。

余談だが、たくつぶの「東大現代文 死の第二問」シリーズはなかなか人気のある記事らしい。たまにアクセスランキングなどを見てみると、これらの記事を検索してたくつぶにいらっしゃる読者の方々が多い。どこかの文章作法の問題として使っていらっしゃる方がいるのかもしれない。
著作権など主張しませんのでどうぞご自由にお使いください。辻ちゃんと違ってブログで儲けようなどとはちっとも思っていません。


この問題が出題された1987年には、東大現代文第二問は、すでに受験業界で有名な話題になっていた。「作文」という客観的な優劣判断が難しい出題形式で、何を書けば合格答案になるのか、受験業界は必死に頭を絞っていた。
そして、ほとんどの場合が頭の絞り損に終わっていた。あからさまに「感性」「人間性」を問われている、と勘違いした模範解答が氾濫した。 

これは東大の出題が上手すぎた故のことだろう。東大は、感情で答案を書く受験生を嘲笑うかのごとく、罠として、一読して「かわいそう」と思わせるような内容を好んで出題していた。たとえば「国木田独歩の手紙」の1982年には、大学入試を勘違いした「人格者」が、たくさん不合格を喰らったことだろう。 

今回の「私の風景」でも、
喧噪渦巻く都会から隔絶された、隙間のような空き地で鳴くセミは、いままで勉強ばかりに励んできた自分の生き方が正しいのかどうかを突きつけてくる
どんなに都会であろうと、セミのように死ぬべきときが来れば死ぬしかない。このような寂寥とした風景を常に頭に留めて、後悔のない一生を送らなければならない
・・・のような零点答案が続出したのではあるまいか。 

いままでたくつぶの「死の第二問」を読んだことがある読者の方であれば、東大はこの問題であくまでも「学問を修めるに足りる資質」を問うているのであり、人間性や感性は関係ないということをご存知だろう。現代文という、感性に寄ってると思われがちな科目でも、あくまでも問われているのは「科学研究に必要な観察・分析能力」だ。

答案に際してのコツは、この問題を通して東大は「同じ内容を、違った形で何度も問うている」ということだ。すなわち、

・「主観」と「客観」の区別が問われやすい
・「循環構造」が隠れている

という「出題の癖」がある。
それを参考に今回の問題を見れば、何を答えなければならないのかは一目瞭然だろう。

一読して分かるのは、この筆者が「現実世界」と隔絶しているとおぼしき「心の風景」を設定していることだ。だから少なくとも、「現実」と「私の中の世界」の対比が答案の骨子となることが想像できる。「現実」が客観で、「私の中の世界」が主観だろう。客観と主観という、科学研究に必須な区別を問うのは十分に納得できる。
では、「現実」の何と、「私の世界」の何が、比較の対象となっているのか。

夏の終わりのセミ、ということは、このセミはそろそろ死ぬ運命にある。だから対比のもととなっているのは「死の概念」だろう。これは従来の「死の第二問」と同じ導入のしかただ。
ここで学問に必須な能力、「謎を発見する」が合否を分ける。この文章を読んで、ある箇所に対して「そりゃおかしいだろ」と感じられるかどうか。それが見つからなければ、答案は書けない。

普通、人は生まれて死ぬまで、人生を一度しか生きられない。生まれるのは一度きり、死ぬのも一度きりだ。人の人生というのは生まれてから死ぬまでの一直線であって、終わってしまえばその先はない。

しかし、筆者の「心の中の情景」には、それに反する記述が出てくる。


夏が、そろそろ終わる。そう思うと、いつも、なぜだか、あたしの心の中にうかんでくる情景がある

夏の終わりっていうと、必ずこの情景が頭の中にうかんでしまうので、あたしはずっとそれを考えてきた

何度考えても、空き地と電柱以外には何もうかばない


つまり、この文章の中では、「夏の終わり」が何度もあるのだ。現実の我々の時間概念からすれば、「終わり」というのは一度しかないはずだ。しかし、心の中の「私の風景」では、夏が何度も何度も巡ってきて、そのたびにセミが電柱で鳴いている。



endlesseight

「今回が15532回めに該当する」 


現実では「終わり」は一回しかないのに、心の風景では「終わり」が何度も巡ってくる。つまり心の中では時間が循環構造をしており、ぐるっと巡って同じ情景が何度も繰り返される。我々の死生観に立脚する直線的な時間概念とは異なり、観念上では、このように循環構造をする時間概念も有り得る。「季節」というのは、そういう観念を引き起こす概念のひとつだ。

そう考えれば、なぜ本文中で「それでも、なぜかこの情景は、あたしにとってとても懐かしく、おまけに思い出すと少々胸が痛む。泣きたいほどに、懐かしすぎるのだ」という感想になるのかも分かるだろう。夏の終わりは毎度繰り返されるから「とても懐かしい」のであり、そういう循環的な繰り返しは、自分の生死を司る直線的な時間観では「現実のものではない」から「少々胸が痛む」のだ。現実ではない観念を風景として見ているので「泣きたいほどに、懐かしい」という相反した感情になる。

なんのことはない、書くべき内容は、1981年の「樹木の言葉」と、まったく同じなのだ。「同じ内容を、違う形で何度も何度も問う」という東大の傾向は、ここでも適用されている。主観としての概念世界と、客観としての現実世界の対比を、わかりやすく出題に盛り込んでくれている分、「樹木の言葉」よりも難易度は低かろう。この「死の第二問」、よほど正答率が低かったと見えて、年を追うごとにヒントが分かりやすくなっている。

もっとも、ここまであからさまにヒントを出せば、気づく人も出てくる。「死の第二問」のからくりを見抜いて、対策を立ててくる人もいるだろう。
東大は、そういう受験生の対策を見抜いて、さらに上をいく出題をしてくる。この「私の風景」の2年後の1989年に、今では「伝説の第二問」と呼ばれている「啓蟄」の問題で、東大は出題の視点をがらっと変えてくる。通常の現代文では決して出題されない俳句という題材で、その感想文を問う問題を出題してくる。
その問題については、いずれ気が向いたらたくつぶでも記事にしましょうかね。


(解答例)
現実の我々は生から死まで一直線の時間軸を生きているが、観念上は始まりと終わりが循環する世界観が有り得る。一例として、毎年繰り返される季節がある。季節の境目となる情景を繰り返し思い浮かべるということは、生から死への直線的な時間概念の現実を生きていながら、循環的に繰り返す季節を何度も思い浮かべていることになる。何度も「終わり」を体感するという、矛盾した情景を思い浮かべるため、その感想は感傷的である。
(199字)




今年の夏は猛暑でセミが少なかったそうですね。