哲学の科学

science of philosophy

私はなぜ顔を洗うのか(10)

2018-12-02 | yy65私はなぜ顔を洗うのか


場合によっては、単語、映像、顔写真、音声、匂いなどが引き金となって過去の感情が思い出されるという自覚体験が起こります。これも客観的記憶を想起することで同時に身体の中に感情や感覚が再生成されてくることで記憶は主観的なものに感じられます。映画を見て、あるいは小説を読んだ場合でも涙が出てくるという人も少なくありませんが、そのエピソードが自分の体験とそっくりであれば、ますます強い感情が現れるでしょう。
現時点で感じ取れる自我意識は(私の内面で感じている)主観的部分をはっきりと含んでいますが、これが過去の自分が内面で感じていた出来事として記憶されるためには、強烈な身体の反射運動が起こって(膝が震えて転倒するなど、コンテキストを伴った)客観的に観察できる身体行動の記憶となるか、あるいは独語のような言語表現に変換される必要があります。
たとえば「はらわたが煮えくり返った」とか「背筋に寒気が走った」とかいうような身体反射として言語に変換される場合、(コンテキストを伴った)記憶ができあがり、そのコンテキストを想起することで感覚や感情が湧き起こります。そうでない場合、つまり無意識の弱い身体反射や習慣的行動あるいは言語以前のおぼろげな感覚や感情は、記憶されずに消えていきます。

近年、研究者の層が厚くなってきている脳神経科学、認知心理学などでは自我概念や記憶のメカニズムなどの解明を目指して種々の最新技法が開発されていますが、まだまだ実証科学の対象としては掴みがたい精神的領域でありつづけています。
いまひとつ、自我意識の存在問題が科学の対象として図式化できていないことの大きな原因は、これが伝統的哲学の心身二元論と絡み合うからです(拙稿14章「人類最大の謎」)。
私達自身がこれは主観的なものでしかないと分かってはいても、かなり強烈な存在感があると感じられる自我意識や激痛や神や悪魔などは他の人にも分かるはずだ、分かってほしい、客観的な存在のようなものではないか、と思いたくなります。その気持が人類最大の謎を呼んでしまう。科学者も人間である以上、必ずこれに巻き込まれてしまいます(拙稿34章「この世に神秘はない」)。
このように、方法論も確定しておらず、ひどくアプローチのむずかしい問題は、正面から攻めるよりも、時間をかけてでも、外堀の下を掘ったり、埋め戻したりして攻める方法がしばしば功を奏するようです。そのような回り道を使ってでも、いつか拙稿がいう自我意識の存在論が科学として記述される日を期待して本章を終えます。

今朝、私は洗面所で顔を洗ったはずだが、はっきりとは覚えていない。シャツはどこにしまってあるか、などと考えていたらしい。しかし、ひげをそりながら、この顔で外出しておかしくないか、とも、うっすらと、考えていたのでしょう。かすかに、そういう記憶があります。■






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