こんなにも、「人は人を憎むことが出来るのか?」と、このところ、とても悲しい思いで過ごしている。
それが、赤の他人ならまだしも…「美人でやさしい」と世間体も完璧、世渡りに長けた方からとなると、これはかなりこたえる…。
が、こちとら、まんざらバカでもボケてもいないから、なぜ憎むのかの理由は、およそ、いや、かなりハッキリと分かっている。
私などからすると、そんなことでと思える、親しい第三者からの、もっともらしい、裏取りのない「つげ口」を金科玉条のごとくし、いつまでも徹底的に責めたてる(当事者の事実は、聞こうとしない)。
おまけに、まるで「咎人」に向けるような斜め右下目線で、冷ややかに、過去のあれこれを、蔑んだ言葉でむしかえされると、私ってそんなに「性悪な男」かしらとつらつら我が身を省みるのである。
確かに、私の生きてきた行状は、隙だらけ欠点だらけ、かなり「馬馬虎虎」で、「女」にも「金」にも(因みに、下戸ではないが、何十年も「酒」はたしなまず、「ギャンブル」の才はないので、とことんやったことはない)、「夢屋の雲」(『はぐれ雲』はご存知だろう)のごとしで、それらの件に関して何と言われようと「暖簾に腕押し」の感があるのは自ら認めるところ…いつも、ことの核心から逃げている「卑怯」極まりない生き方をしてきた「ろくでなし」…である。
そんな私が、今度ばかりは、両手の爪が波打つほど変形し、日々の暮らしに障害があるほどのダウン状態である。
人は誰しも「弱さ」はあるもので、それらを欠点(罪)として「一刀両断」に糾弾(断罪)できない「救い」の隙間があってこそ、人々はなんとか穏やかに生きていけるのではないか。…少なくとも、この私はそのような思いを抱いて生きている。
それは、「甘え」かもしれないけれど、日々の生活の「潤滑油」であり、しなやかな「思いやり」であり、生きとし生けるものの「やさしさ」ではないだろうか。…つまり、他者からの言辞から、そのまま判断を下すのではなく、現象、起こったこと、事実から、その背景や、それらを生んだ心理を読み解いてみようと努力し、"imagination"しながら、あれこれと考える。
件の方々にとっては、私のそんな言い分は、「盗っ人猛々しい」というわけだろう。
しかし、それでもなおかつ、「盗人にも三分の理」などと言ってみたいのは、余程、私は身勝手なのだろう。
まァ、「なんとかは他人の始まり」とか「血は汚いもの」と、巷間、言われていることには、それなりの根拠があるわけで、誰しも実証済みの体験を持ち、現実は恐らくそんなもので、まっとうに対処することなど出来はしないのであろう…。
それに、「他人の不幸は蜜の味」なんて言うではないか…。
とにもかくにも、私は、血縁というものは「情」であり、「理屈」や「数字」、まして「金」などではないということを絶対的に信じているのである。
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