ワールドカップ特集(笑)2:ワールドカップと独裁政権 | PAGES D'ECRITURE

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フランス語の勉強のために、フランスの雑誌 Le Nouvel Observateur や新聞の記事を日本語に訳して掲載していました。たまには、フランス語の記事と関係ないことも書きます。

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この度の西日本の豪雨災害に遭われました方々には、心よりお見舞い申し上げます。 

前回の記事を書いてから、様々な出来事があり、続きを上げるのを躊躇していました。国内ではサッカーワールドカップの熱も少し冷めてきつつあるようなので、ここで続きを書いておきます。

週刊誌 L'Obs の2018年6月7日(通巻2796)に掲載された La politique en crampons  (スパイクを履いた政治、あるいは、うるさい奴らの政治)という記事です。


FOOT-DICTATURES




PASSÉ/PRÉSENT

La politique en crampons

Comme Mussolini en 1934 ou Videla en 1978, Poutine mise sur la Coupe du Monde de Football pour faire sa propagande

 

1934年のムッソリーニや1978年のビデラのように、プーチンは宣伝工作をするためにサッカーワールドカップに賭ける。


Par SÉBASTIEN BILLARD


ソチ冬季オリンピックから4年後、スポーツ界は既にロシアに再び足を踏み入れようとしている。ウラジミール・プーチンの剛腕に率いられるこの国は、6月14日から7月15日まで、サッカーワールドカップを迎える。スポーツを権力誇示の手段にしたロシア大統領にとって、賭けはスポーツの枠を超えている。多かれ少なかれ、取り戻されたロシアの偉大さを演出することである。

 2022年ワールドカップがカタールで開催されることになっている時、二つの世界大会が続けて、率直に言って民主的という評判のない国で開催されることは、論争を巻き起こす。去る3月に別の緊張の種が現れただけになおさらだ。クレムリンの仕業とされた、ロシアの元スパイに対する毒殺未遂事件への返事として、ヨーロッパのいくつかの国が外交的ボイコットの脅しをかけた。スポーツ大会は民主的国家でだけ開催されるべきなのか?この問題は既に過去に投げかけられていた。強権的な政権によって開催されたワールドカップの痕跡を見出すためには、1934年と、とりわけ1978年という、数十年も前にさかのぼる必要がある。

 1934年、競技が行われたのは、その最初の形が4年前に登場していた、ベニート・ムッソリーニのファシスト・イタリアである。ドゥーチェが準備には殆ど関心がなかったとしても、ひとたびトーナメントが始まると、すぐにサッカーが自分にもたらすものを理解した。ムッソリーニは、スクァドラ・アッズーラの試合の際には常に壇上に立ち、自分の人気のほどを演出する。イタリアチームの開催国優勝は明らかに、彼の宣伝工作に役立った。決勝戦では、ムッソリーニは勝者に、ワールドカップのトロフィーよりも重きをなす『ドゥーチェのカップ』を授け、イタリア聖杯を素晴らしいショーウィンドー、ファシズムの物理的・道徳的優越性の象徴にした。その政治的次元にかかわらず、この1934年イタリアワールドカップは、何の論争も、ボイコットの呼びかけも起こさなかった。「当時のサッカーワールドカップはまだしも慎ましい競技会で、現在ほどメディア化されていなかった。ムッソリーニに関しては、ヨーロッパの民主主義国家にとって、まだヒトラーに対する潜在的な同盟国と認識されていた。1934年のムッソリーニはまだ1938年のムッソリーニではなかった」と、歴史家のポール・ディエツィーは説明する。

 最初に論争を巻き起こした1978年ワールドカップの際には、事情は違っていた。この年、絶えず規模を拡大してきたトーナメントを開催する仕事が訪れたのはアルゼンチンだ。同国はその12年前の1966年に既に開催を決めていた。その間に、政治状況が全面的に変わったことを除いて。1976年3月、軍事クーデターが政府を転覆した。権力を掌握したのは、ビデラ将軍が率いる軍事政権だった。

 その時は、この大会への参加がヨーロッパ、特にフランスで論争を起こした。最初に問題が提起されたのは1977年だった。作家のマレク・アルテ Marek Halter は『ル・モンド』に、独裁政権の犯罪を告発し、すべてのスポーツ選手とそのサポーターにアルゼンチンに行かないように呼びかける論説を発表する。アムネスティ・インターナショナルは、ビデラの就任以降、処刑された人の数を6000人、拘束された人を8000人、行方不明者を15000人以上と推測している… フランスでは、抗議活動は極左の活動家の輪に広がる。ワールドカップボイコット委員会(Coba)が創設され、15万人の署名を集める。しかし、特に経済的利害が争点になっている場合、結局はスポーツがモラルに打ち勝つことなる。フランスチームも、他の全ての参加国と同様に、トーナメントを争うために、ほとんど何もなかったかのように、アルゼンチンに赴くことになる。そして歴史は繰り返す。1934年のイタリアのように、アルゼンチンは開催国優勝を果たす。決勝戦が行われ、血に飢えたビデラ将軍がトロフィーを授けたのは、反体制派が拷問された海軍学校の近くにある、ブエノスアイレスのスタジアム、エル・モヌメンタルだった。

 それでも、抗議行動が全くの無駄に終わったわけではない。1934年のワールドカップがムッソリーニのイタリアにとって完全な成功だったとしても、ナショナルチームの成功にもかかわらず、競技によって自らの権力を強化することができなかったビデラのアルゼンチンにとっても同じようなものとは言えない。「ワールドカップは体制のベールをはぎ取り、1983年に失脚して終わることになるビデラに、予め逃げを打たせた」とポール・ディエツィーは強調する。「サッカーは、必ずしも開催国にとっての栄光とならない鏡だ。」 この夏のロシアと、4年後のカタールではどのようになるだろうか? 少なくとも、歴史が口をつぐむことのできない点がある。ロシア代表とカタール代表が開催国優勝を遂げるには奇跡が必要だということだ。



https://www.nouvelobs.com/histoire/20180606.OBS7844/de-l-italie-fasciste-a-la-russie-de-poutine-la-politique-en-crampons.html

L’OBS No 2796-07/06/2018


今回の開催国の政権は、この記事にある2か国ほどには、独裁政権の本性をむき出しにはしていませんでした。奇跡がなければ起きないような事象も発生していません。

次回の開催国も(以下略…お察しください)