アムステルダム紀行 を記す傍らで、中公新書の「物語 オランダの歴史」を読んでおりまして。
その中で、かような一節に出くわしまして、「そうなんだ…」と。


物語 オランダの歴史 - 大航海時代から「寛容」国家の現代まで (中公新書)/桜田 美津夫

北部はカルヴァン派が多かったので独立し、南部はカトリックが多かったので再びスペイン王の支配を受け入れたという、昔からよく耳にする説明は事実に反する。オランダとベルギーの宗教の違いやその背景に想定されている国民性の違いなどは、低地諸州の南北分裂の原因というよりむしろ結果であった。分裂以前に北と南に違いがあったとすれば、それは、先進地帯の南の方が宗派対立が先鋭化していた点だろう。

そも低地諸州(要するにネーデルラントですな)でも南部(ざっくり今のベルギー)は
地理的にもカルヴァン派の本拠であるジュネーヴに近いですし、
北部(ざっくり今のオランダ)はドイツに近く、ルターの影響があるかと思うわけですが、
ルター派は「信仰」を改革することに力点を置いて、あまり組織化されないところがあったようですね。


一方で、カルヴァン派は独自に長老教会といった組織化を図ったこともあって、まとまりやすい。
カトリックとの対抗上、目立ってくるのはカルヴァン派ですから、宗派対立が先鋭化したのも
南部(ベルギー)ということになりましょうか。


そして、その目立つ動きの際たるものが聖像・聖画の破壊行動でもあろうかと。
カトリックによる偶像崇拝こそが飢饉や疫病をもたらす元凶であるという信念に基づいて、
カルヴァン派が破壊行動に出たわけですが、やはり先の一冊から引いてみます。

(1566年8月10日、カルヴァン派の)牧師に先導された有志20名ほどが近在の修道院に押し入り、そこにあった聖人の彫像・聖画などを打ち壊した。「聖画像破壊」の始まりである。以降この破壊運動の波は低地諸州南部一帯を覆い、8月19日には低地諸州最大の都市アントウェルペンを襲い、さらには北部諸州にも拡大して、10月8日まで続いた。

ここに「破壊活動の波は低地諸州南部一帯を覆い…」とありますように、
やはり南部、今のベルギーの方から起こったことだったのですな。
火ぶたを切った行動はフランデレン州でのことといいますから、まさにベルギーだったようで。


いちばん上の引用にあるような、オランダ=プロテスタント、ベルギー=カトリックといった
「事実に反する説明」をそのまま受け止めていた者としては、
例えばベルギーのフランデレン地方にあるヘント祭壇画(神秘の子羊)を見て、
「なるほどカトリックならではだねえ」などと思っていたところながら

偶像破壊の嵐が吹き荒れたのは南部から。


「神秘の子羊」が今もあるのは何とか隠されて難を逃れたということでもあるようです。

その後にもナチスの災いの手が伸びるも今に健在なこの祭壇画、
相当なパワーを秘めていそうですが、それはまあ余談ということで。


とにもかくにもネーデルラントでは宗派対立が複雑に絡み合って、
独立へ向けた運動の中でも一筋縄ではいかない離合集散のようなこともあったわけですが、
とまれ、1573年に北部のホラント州(アムステルダムもここに)ではカトリックが禁じられることになる。


これは独立運動を進めるためにはカルヴァン派を懐柔せねばならず、
国内に信教の自由を認めるという同居政策では落ち着かずに

カトリック排除に動かないと納まらない、そんな状況でもあったのでしょうね。


そうなってしまうほどに、スペインを後ろ盾としたカトリック側による

カルヴァン派への弾圧があったからなのでしょうけれど。


ところで、アムステルダムの玄関口たる中央駅に到着したときに

いちばん最初に目につく教会といえばこちらになりましょうかね。

(藪から棒なこの話はザーンセスカンスから戻ったときにこの教会に目をとめたところからです)



立派な外観からしてプロテスタントらしい質素さとは異なるところを感じるわけですが、
なるほどこれはカトリックの教会で、聖ニコラス教会というそうな。
1853年にカトリックの司教区制が国内に復活したことを受けて、
19世紀後半に建造されたものということかもしれません。


その後、1926年にはカトリック系の政党も結成されたりしているのは
オランダですっかりカトリックが復権したということでしょうか。


ちなみに外務省HPにあるオランダ王国基礎データによりますと、2015年調査の結果として
カトリック24.4%、プロテスタント15.8%とカトリックの方が多いのですなあ。
もはや江戸時代の交易の関わりだけからオランダがプロテスタントの国だと思い込むのは
それこそ大きな間違いと言えましょうか。


もっとも同じ調査では53.8%が無宗教・その他という回答であったことが
オランダの現状として受け止めておく必要がありそうですけれどね。




と、遅まきながら秩父土産を携えてちょいと両親のところへ様子見に出かけてまいりますので、

明日はお休みを賜る次第でございます。では。