大阪の万博記念公園を歩き回って、最後に訪ねたのが大阪日本民芸館なのでありました。
元はこちらも東京の日本民藝館が「暮らしの美」をテーマに出展したパビリオンであるとのこと、
最初からレトロ感を醸していたのか、それとも経年による雰囲気を身に纏ったのか、
いかにも民芸館らしい佇まいになっていたような気がいたしましたですよ。
万博が終了した後は「民藝運動の西の拠点」として現在の大阪日本民芸館となって存続、
初代館長は人間国宝の、あの濱田庄司であったそうですので、力入ってる感がありますね。
ところで訪ねたときには秋季特別展「多々納弘光の仕事」が開催中(会期は終了しています)でしたけれど、
この方は島根県出雲市にある出西窯(しゅっさいがま)の創業メンバーのひとりであったということです。
江戸末期、松江藩のお殿様・松平治郷は不昧公と号で呼ばれることが多いくらいに
広く知られた茶人であり粋人でありましたけれど、領内でのやきもの作りも大いに奨励したような。
そこで島根には窯が多いわけですが、そうした中でも出西窯は1947年創業と新しいものですので、
歴史を誇るというよりはむしろ民藝運動との関わりが積極的であったことが特徴でもあるようですね。
本展で取り上げられている多々納弘光という陶工は「把手の弘光」と呼ばれているようでして、
その把手付けの指導はバーナード・リーチ直伝ということだそうでありますよ。
リーチは英国人ですので、なるほどティーカップなどを多用するだけに把手付けは堂に入っている…と思いきや、
やきものに手を染めたのは日本でのこと。それでも把手のある食器扱いにはなれていたでしょうから、
独自に把手付けを極めていったのかもしれませんね。
とまれ、把手付けが得意ながら、だからといってというわけではないようですけれど、
多々納作品はろくろを使わず、石膏型で成形する「型物」という器が多いと。展示にもたくさんありました。
またまたにもせよ、濱田庄司や河井寛次郎などといった民藝運動の大御所(?)の手になるものではない作品だったことで、
反って普段遣いの器の中に見出す美という民藝運動本来の感覚で見ることができたような気がしますですよ。
展示の中に河井寛次郎の言葉として「暮ラシガ仕事 仕事ガ暮ラシ」というものがありましたけれど、
仕事一途の会社員あたりでは意味を取り違えそうなこの言葉が、
(それで生きていけるのならば、それ以上の状況はないであろう)本来的なヒトの生き方を
示唆しているようにも思えなくもないわけです。
民藝運動の根っこにはこうした「生き方」の提案というのもあるのかもしれませんですね。
と、そんな印象を得て、万博記念公園駅からモノレールで伊丹空港へ出、帰途に着きました。
大阪に関わる歴史絡みもそうでないこともたくさん書いてきましたですが、
「大阪歴史紀行」はこれにて語り納めでございます。