O・ヘンリーと妻アソル
世界で最も有名なクリスマスツリーが点灯する瞬間を、せっかくだから、この目で間近に見てやろうと思った。
11月28日、ニューヨーク。早めのつもりで午後5時すぎにホテルを出た。ところが会場のロックフェラーセンターに近づくにつれ人波はふくれあがり、規制線もあってまったく動かなくなってしまった。どうにかツリーを望める場所まで入ることができたのは、ついでに予約してあったセンター屋上の展望台の入場券を見せたからだ。
25メートルを超えるツリーは、カウントダウンとともに午後9時に点灯した。青、赤、緑……約3万個の発光ダイオードが光を放ち始めた瞬間、どよめきと歓声があがった。
振り返ると、高級デパート「サックス・フィフス・アベニュー」の壁面には、雪の結晶をかたどったイルミネーションが、薄青白くまたたいていた。
派手なツリーやイルミネーションばかりがクリスマスでもない。この季節に全米のあちこちで催される、地味ながら恒例の舞台もある。「The Gift of the Magi」。ニューヨークを主な舞台に珠玉の短編小説を生み出したO・ヘンリーの代表作で、「賢者の贈りもの」と訳されている。
ニューヨークから飛行機で1時間、バージニア州ハンプトンでの公演をのぞいてみた。
貧しい若夫婦のジムとデラ、そしてキリストの誕生を祝って東方から駆けつけたという3人の賢者。役者はこの5人だけ。しかし3賢者は、あこぎな八百屋に扮し「クリスマスのアップルパイ用に」と腐りかけたリンゴをデラに売りつけたり、物ごいに姿を変えてジムの懐中時計を奪おうとしたり……1人で何役もこなす活躍ぶりだった。
クライマックスはもちろん、ジムとデラがクリスマスの夜にプレゼントを交換する場面だ。帰宅したジムは、ばっさりと髪を切ったデラを見て驚く。かつら屋に髪の毛を売って、ジムの宝物である懐中時計に似合う鎖を買っていたのだ。ところがジムは懐中時計を売って、デラの長い髪に似合う上等のくしを用意していたのである。
相手の大切な物のために自分の大切な物を犠牲にしてしまう。贈り物は無駄に終わるが、お互いの深い愛情をこれ以上はない形で確かめ合える。意外な結末で読者をあっと言わせる「O・ヘンリー・サプライズ」の中でも、とっておきの心温まるサプライズ――。
ヘンリーは39歳から亡くなるまで8年間、ニューヨークに住んだ。1903年からはニューヨーク・ワールド紙と契約、1編100ドルで日曜版に書き続け、2000語前後の短編が続々と生まれていく。「賢者の贈りもの」は05年12月10日に掲載された。
けなげな若妻デラのモデルはO・ヘンリーの妻アソル・エステスらしい。ふたりが暮らしたテキサス州オースティンへ向かった。
妻の面影を珠玉の短編に
オースティンは人口68万人の州都。市街地の北にそびえるドームが目印の州政府の建物が「ホワイトハウスより立派」というのが、地元の自慢だ。
市内にO・ヘンリー博物館がある。まだ本名のウィリアム・シドニー・ポーターだったころ、妻のアソルと暮らした小さな家が、場所を少し移され、市の公園の一角に保存されている。
館長のバレリー・ベネットさん(55)によると、ふたりのなれそめには、州政府の建物の建て替えがかかわっているという。建物の裏側、北東の角に「March2 1885」と浮き彫りにされた礎石があるが、その中の「メモリアル・ボックス」に、当時高校生だったアソルの髪の毛が入っているというのだ。セレモニーに参加したアソルが自分で切って入れるのを、O・ヘンリーが見ていて強くひかれたという。
「賢者の贈りもの」の中で、髪を切ってしまったデラが、帰宅したジムの足音を聞いて「どうぞ神さま、私が今でもやっぱりきれいだとジムに思わせてくださいまし……」とつぶやく場面がある。アソルにも日ごろ、短いお祈りを唱える習慣があったと伝えられ、デラのモデルがアソルだと言われる根拠の一つにもなっている。ベネットさんはさらに、地元ならではの隠れたエピソードを披露してくれた。
結婚から6年後の1893年、シカゴで万国博覧会があった。気分が変わればアソルの病気も少しはよくなるのではと考えたヘンリーは、ためた金を渡し友人と出かけてくるよう促した。ところがアソルは、忙しいヘンリーが一緒に行けないならと出かけることをあきらめ、お金はふたりのために使おうと、代わりに家具を買った。
「それがこのいす2脚と客間の壁にかかっている絵です。ジムとデラの話によく似ています」。ベネットさんは実物を示しながら説明してくれた。
「彼は彼女を心から愛していたと思うし、亡くなってからも、一緒に暮らしていたころの彼女のことをいつも思い起こしていたはず。彼女との物語を書きたかったのだと思います」
ヘンリーは実際に見聞きした題材を小説にしてきた。たとえば「善女のパン」などと訳される一編――パン屋の40歳独身の女店主が、決まって売れ残りの安く硬いパンを買いにくる中年男性を気にかける。ある日ひそかにバターを塗り込んで持たせてあげる。ところが男は製図工で、鉛筆の下書きを消すため、消しゴムより使い勝手のいい古いパンを買いに来ていたのだ。バターで図面を台無しにされた男が怒鳴り込んでくるという悲しい幕切れだが、女店主の優しさと味わい深い哀愁が漂う。これなどはオースティンの土地管理事務所の製図工だったヘンリーの体験が下敷きになっており、近所には、古いパン屋が今も姿をとどめている。
ヘンリーは、ニューヨークでは欧州風の閑静な住宅街・グラマシー地区に住んだ。行きつけだった店が、1864年創業の「ピーツ・タバーン」。看板に「O・ヘンリーが有名にした店」とある。土曜の夜に訪ねると、伝統的な英国パブのような店内は、満員電車の立食パーティーさながらだった。
入り口わきのボックスには「O・ヘンリーはここで『賢者の贈りもの』を書いた」という妙に具体的な表示さえある。マネジャーのゲーリー・イーガンさん(40)に確かめると、「写真があるわけでもないし、証明するものなどない」とあっさり言う。だが彼のアパートは目と鼻の先だったし、当時あたりに店はここしかなかったらしい。「酒だけじゃない。食事するにもコーヒーを飲むにもここしかなかったんだから、ここで書いたに違いないんだ」
ヘンリーはアソルの死から10年後の1907年、同郷ノースカロライナの幼なじみ、サラ・コールマンと再婚する。その頃には酒浸りがたたって肝臓をやられていた。翌年に別居、10年6月、肝硬変と心臓病で死去した。
墓はノースカロライナ州アッシュビルにある。墓石の上には祝福のためのコインがたくさん散らばっていた。ここは再婚した妻サラの地元。彼女の墓石がヘンリーに寄り添うように置かれているのに対し、娘のマーガレットの墓石は離れて、「1927」と没年だけが刻まれている。先妻の子だから、だろう。そのアソルは、オースティンの墓地に両親とともに眠っている。
ヘンリーが勤めたテキサスの土地管理事務所の建物は州政府ビジターセンターになっていた。1階のO・ヘンリー・コーナーにある受話器をとると、ヘンリーが47年の生涯を語るという設定で音声が流れてくる。おどけたような調子の声で、結びはこうだった。
「皆さんは私の人生がまるで私の作品のように短い、と言うことだろう」