太田述正コラム#10907(2019.11.6)
<関岡英之『帝国陸軍–知られざる地政学戦略–見果てぬ「防共回廊」』を読む(その14)>(2020.1.27公開)

 「・・・関東軍は1935年6月に締結された土肥原・秦徳純協定<(注32)>によって察哈爾省での行動の自由を獲得すると、・・・蒙古浪人の長老、盛島角房<(注33)>を送り込<むなど、>諜報活動を展開する一方、徳王に小型旅客機を贈呈するなどして懐柔工作につとめた。

 (注32)「<1935年6月5~6日、日本軍特務機関員を察哈爾省で監禁した、いわゆる張北事件を踏まえ、>17日関東軍幕僚会議では以下の決定がなされた。
・宋哲元の満州国への挑戦的態度は軍として隠忍し難く、多くの公約や警告にも反省する姿勢がない。ゆえに匪賊として対処する他はない。
・宋哲元は満州国辺境の治安を乱す匪賊以外のものではない。関東軍は再度宋哲元の処罰を国民政府に強硬に求める。
・国民政府が要求を入れずに引き延ばし策を用いれば関東軍は断乎とした行動を取らねばならない。
 その翌日、南京政府行政院は宋哲元の[察哈爾省政府主席]罷免を決定した。
 6月27日土肥原特務機関長が提出した要求事項全てについて秦徳純が承諾した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E8%82%A5%E5%8E%9F%E3%83%BB%E7%A7%A6%E5%BE%B3%E7%B4%94%E5%8D%94%E5%AE%9A
 秦徳純(1893~1963年(台北))。「済南陸軍小学・・・保定陸軍軍官学校・・・北京陸軍大学・・・で学ぶ。・・・
 北伐完了後の馮玉祥による反蒋介石戦争で・・・<戦い、この>戦争敗北後は、宋哲元とともに張学良に降伏し、第29軍軍長となった宋の下で総参議をつとめた。民国21年(1932年)秋、宋が察哈爾省政府主席に就任すると、秦は省政府民政庁長兼委員を務めた。民国22年(1933年)春、張が下野すると、蒋の腹心である何応欽らが主管する軍事委員会北平分会が設置され、秦はその委員に任命された。・・・
 張北事件が発生すると、その事後処理のために秦徳純が中国側代表として、日本側代表の土肥原賢二と交渉<し、>・・・土肥原・秦徳純協定(中国では秦土協定と呼ばれる)が締結された。
 なお秦自身は、「秦土協定」と国内で呼ばれることに恐怖を覚え、協定に同意したのは何応欽であるから「何土協定」と呼ぶべきだ、と吹聴したとされる。また、協定の結果として、宋哲元がチャハル省政府主席を罷免され、秦がその代理とされた。しかし、宋の不満が強かったため、秦は敢えて代理職にも就こうとしなかった。
 同年12月に、冀察政務委員会が成立すると、宋哲元が委員長に、秦徳純が常務委員兼北平(北京)市長にそれぞれ就任した。秦は宋の参謀を務める一方で、蒋介石と宋との交渉・連絡役の任務を負った。1937年(民国26年)7月の盧溝橋事件後、宋哲元は組織的な防戦ができずに日本軍の前に北平・天津を喪失してしまう。宋が秦に蒋への斡旋をさせたところ、宋は第1集団軍総司令に任命され、秦はその総参議となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E5%BE%B3%E7%B4%94 ([]内も)
 (注33)1886~1946年。延岡中を経て東京高師中退。台湾の中学校で柔道教師。北京に移ったところで帝国陸軍に諜報員としてリクルートされ、漢語、蒙古語、チベット仏教を学んだ後、内蒙古及び外蒙古の情報収集活動に従事。
https://www.wikiwand.com/zh-hk/%E7%9B%9B%E5%B2%9B%E8%A7%92%E6%88%BF

 1935年9月、関東軍参謀復調の板垣征四郎<(コラム#3776、4004、4548、4624、4759、4963、5003、5047、5064、5569、5574、5856、6242、7643、8412、8456、9902、9918、9990、10042、10071、10075、10113、10147、10175、10185、10273,10289、10324、10396、10398、10432、10448、10487、10715、10803、10903)>少将が自らシリンゴル盟・・・に飛来して、ゲルと呼ばれるモンゴル式の大テントで徳王と会見、日本と内モンゴルとの提携を正式に提案した。

⇒板垣の登場する過去コラムの数の多さに驚きました。
 彼は、杉山元の分身的存在で、杉山構想中の支那部分全てにほぼ関わった人物ですから、当然かもしれませんが・・。(太田)

 徳王はこれを受諾し、中国支配下での自治の模索から、日本の援助による中国からの分離独立、モンゴル人国家の樹立を目指す方向へと方針を大転換した。
 同年11月、徳王は満州帝国に招かれ首都新京を訪問、武器と資金の援助を得て内モンゴルに戻り、翌年2月に・・・蒙古軍総司令部を設立し、自ら総司令に就任した。

⇒杉山元の指示を受けてのことだったでしょうが、それにしても、板垣、自身と徳王を何と目立つように行動させたことでしょうか。
 このまま隠忍自重を続けておれば、新疆もチベットも失う羽目になりかねない、と中国国民党は危機意識を募らせ、日本と戦うほかないと追い詰められ始めたであろうこと必定です。(太田)

 関東軍は、国民党がまだ実効支配していた内モンゴル西部にも特務機関のネットワークを密かに広げ始め、1936年3月に察哈爾省の西に隣接する綏遠省・・・、<そして、>同年6月には更に西の寧夏省・・・に特務機関を設置することに成功した。・・・
 何人かの諜報員は<、>更にその西方の東トルキスタンを目指したが、手前の甘粛省内で中国官憲に見つかり強制退去させられている。・・・」(79~80)

(続く)